DOG STAR MAN (1961-64) / Blackage




 実験映像、というものに、実のところ、無縁でした。わたしの住む田舎ではもちろんのこと、東京でも滅多に見られるものではない、それだけアンダーグラウンド的なのでしょうが、ブラッケージのドッグ・スター・マン、ビデオ化がされているようで、授業の最中、先生が見せてくださいました(多謝)。序章等、最初の方は、かなり、早送り・早送りだったのですが。とりあえず、何とかしてもう1度見たいものです。七月、BOX東中野にてレイトショー公開されるということを聞きましたが、悲しいことにレイトショーなぞ田舎者には縁がない、まあ、それはさておき。

 日本では、視覚主義とよばれるブラッケージの映画、とにかく、ワンショットに意識を集中していなければならず、モンタージュによって埋め尽くされた映像、しかもそれが表面的なモンタージュにとどまらず、フィルムにまで手が加えられています、わたしたちが今見ているものが、「ゆめものがたり」なのではなく、ただ、それは「フィルム」であるということを、象徴的に把握する作用、異化効果がそこに現されるのだそうです。
 物語という物語はなく、音もないサイレント、ただ映像があり、モンタージュの極みの映像があり、見る側は、否が応にも、純粋に映像と向き合うことを余儀なくされる、そこでは、どのような映像も丸く収めてしまう「物語」は、無縁のものでしょう。もともと、物語=映画という図式には疑念を抱いているのですが(それならば小説と違いは何もありませんし)、ただ「映像」を見せる、完璧に感性に拠ったこの映画、衝撃ではありました。
 もちろん、映像意外のなにものも現されていないわけではありません(それはそれで、ある種の気持ち良さがあるとおもいますが)、この映画は、胎内回帰、に基づき、序章、PART1〜4、というふうに、構成がなされています。ある意味、この構成は記号的なのでしょうか、そしてまた、男性、赤ん坊、女性、といったような、辛うじてわたしたちにとって、認識のできる具象的な対象、が、記号的に映像の中に現されています。それらの線を辿り、胎内回帰、というテーマに、わたしたちは辿り着くわけですが、その線の複雑怪奇さ、あまりにも突飛で、のたうったミミズのような、とでも言うべきか、幾度見てもそれらすべてを把握し得ることはできないでしょう。そしてミクロで映される具象の数々(顕微鏡撮影)、編集によって手を加えられたせいもあり、「名前」による認識は不可能、part3では、記号的に暗示された、男女の肉体、接触、等で、性行為のシークェンス(この言葉が適当であるかはわかりません)であることはわかるのですが、そのなかで、女性の性器を映したショットがあったそうです、あまりにもミクロに映したため、検閲を平気で通ってしまったらしい、この話は結構象徴的で、わたしたちがそこに見ているものが、一体映像であるのか記号であるのか、そこから派生するイリュージョンであるのか、考えざるを得ないのです。
 映像は、カメラという客観の視線を通すにも関わらず、得てして、見るものの視線によって、歪められてそこに映るもの(カメラの視線を追うわたしたちの視線はどこまでも主観によっていて、けしてカメラのように客観になることはありません)、しかし、これほどまでに、ただ「映像」と対峙することを強制する映像が、映像意外のなにものもをそこに示す余地を与えないことによって、見る側に何がしかの記憶と結びついたイリュージョンを想起させるのは興味深いことです、しかし、そうでもなければ、この映像が回収できないものであるのかもしれない。わたしたちは、確かに、「丸く治める」ということを望んでいて、近年の映画の傾向は、その枷が外れつつあるようにおもうのですが(ハリウッドですらも、マトリックスに象徴されるように)、丸く収めるということは、(見る側が)イリュージョンを放棄することには違いなく、その枷が外れるということは見るものににわかに不安を与える、(イリュージョンを持たない人間には、特に)どことなく気持ち悪さのようなものが残る、この映画もまた、ここに繋がっているような気がするのです、あるいはこれは極論であるかもしれません、が、どこをどうとっても、丸く治める要素がないからこそ、その不安に対して、逆にイリュージョンという形を与えたがっているのかもしれない。裏を返せば、物語が現されないだけに、そこに与えられるイリュージョンの形は、本当に見るものの自由な、束縛のないものになるのではないでしょうか、胎内回帰ということによって喚起される要素は、あらゆる人間の裡にあるはずです。

 さて、ここで、胎内回帰、というこの主題について、少し。胎内回帰願望というものは、この映画もそうですが、やはり、男性によってあらわされるもののようにおもいます、それと相対して、さて女性はというと、女性に課されたものは、"回収"なのではないでしょうか、わたしの愛読する、ハイナー・ミュラーの戯曲「ハムレット・マシーン」のラストでは、包帯にくるまれたオフィーリアが、こう言います、「私は私が生んだ世界を回収します。」
 しかし、また、彼女も、人の子。母のお腹から生まれなかったわけはないのです。さて、それでは、女性の胎内回帰は何処へ向けられるのか、自らのなかに? もちろん、この映画とはまた別のことです、しかし、胎内回帰のモチーフ、それを考えるたび、わたしはこの問題に突き当たってしまうのです。

back to index