NIXON (1995) / Oliver Stone
記録と記憶、現在への巧妙な復讐を。
まず、明言しておかなければならないのは、この映画の問題性は、何も歴史や社会に対してある、のではないということなのです。それをまず念頭に置かねばならず、その物語的な真偽を語ることが、いかに愚かであるかということ、そしてまた、それが新たに歴史的な側面を提示したか否か、についての論議など、まったく意味を持ちません。いくら存在した出来事をもとに描いたとはいえ、物語はすでにして虚構としてそこにあるのです。
この映画を見た人の大半が言うであろうこと、まあ率直に「疲れる映画だ」ということでしょうが、三時間少々という時間的なものと、そして、映像で語られることよりも、言葉として、語られる、台詞の多さに、多少、辟易の感があるのでしょう。映像的には、オリバー・ストーンのあの編集……モザイク編集というのでしたっけ(まあ、今更とりたてて言うことではないかもしれませんが)、そこからも多少疲労をうけるのは必至なのでしょうけれども。
まあ長々と綴られてはいますが、記録された言葉、というもの、それが非常に大きな要素であるとおもうのです。言われた言葉の意味にそれがあるというのではなく(シニフィエ・シニフィアンという観念はとりあえず除外しましょう)、それが、確かにそこに在り、そして記録されている、ということが重大なのです。ニクソンの言葉の記録されたテープ、彼自身がそれの確実性に悩まされるということ、しかしまたその記録物への消去が行われるということ。彼が血を吐き倒れる、幻想のテープの山に埋もれながら、というのは非常に象徴的なシーンでありました。そしてまた、その直後に、彼自身の記憶の再現が行われる、記録と記憶のせめぎあいが、ここで、わたしたちの目に提示されます。記録と記憶の不確かさ、しかしそれらの確実性は互いに牽制を行いつつも、というよりも、記録が記憶を装わせ、導きつつも、わたしたちの細胞の一部であるかのように、刷り込まれ、そして、今現在に確かにあっただろう過去を露呈させる、現在という瞬間への、巧妙な復讐のように。
それが、映画という形をとって、見せられていること、映画も確かな記録物のひとつとして見るならば、過去は隠蔽され露呈され、同時に新たにつくりかえられ、そして今現在の現実に確かに何かの影響を及ぼす、映画自体がそういった現在への影響というものの二重構造を描き出しているのです。
映画という記録物が、二重構造で語っている、それが殊更に見せられているのは、やはり、過去の実際の映像が使われている、たとえば、ケネディや毛沢東、ブレジネフなどとニクソンが対談している場面において、ケネディ等はみな、実際の本物の映像、彼自身であるのにたいして、やはり、ニクソンはホプキンス演じるニクソン、これが技術的にどうだということなのではなく、これが、記録物は模造されうる、という、記録の不確かさと、もうひとつ間違いなくそこに在りし日のケネディが写されているという確実性とが、そこに不安定にも投射されているのです。
現在が過去との結びつきのうえに成り立ち、そうして、その過去というもの(記録、記憶)の不確かさと確実性(このふたつが共存しうるということが記録や記憶の特質ではないでしょうか)によって、現在の現実というものは、非常に不安定な立場に置かれることになり、映画のなかでそれらのものに追い詰められたニクソンは、もはや今現在の現実を見据えることができなくなる、彼自身の意識が、過去=現在であると思いこみ、そして過去=現在の自分というところまで、到達してしまう。夫人の言葉として、語られる、「They are you.」という台詞、「<それはあなたのもの(所有物)ではなく、>あなた自身よ。」といったような訳がついていましたが、ここに象徴的に言われているのは、テープが彼の所有物ではなく彼自身、つまり過去は彼の所有物ではなく彼自身であるということ、まったく皮肉に彼の現在が語られているのです。ああ、記憶違いなどもあるかもしれませんが、もしあってもご愛嬌っということで、指摘してくださったらありがたいです。
さて、最後に、わたしが殊更に記録物ということに対して云いたてたことへの弁明になってしまうのでしょうか、わたしは中学生のときに、この映画のシナリオブックを読んだのです。そのときに映画も見るつもりだったものの、多分、お金やらの問題で見に行けなかったのでしょう。まあ、それは置いておいて、シナリオブックを数年前に読んだということ、明らかに、シナリオを読むのは原作を読むのとわけが違います。シナリオの言葉が記憶のなかでシーンをつくり、しかし、もはや数年前のこと、すっかり忘れているだろうという意識のもとに見た映画の、ワンシーン・ワンシークエンス、それらのものがわたしの過去の記憶にシンクロして画面にあらわれる、記憶されうるのは確かにそこに言葉があるからこそ、ということをおもいつつ、この装われた偶然のなかで、言葉とそこから派生するイマージュを記憶するわたしが、あらたに今映像にであうということ、復讐される現在をそこに見ること、そのために今語ったすべてがあるなどということは言いませんが、なかなか、面白いことではないですか。
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