Nuit Et Brouillard (1955) / Alain Renais




 夜が明け、霧がはれ、白昼の下、すべての悲惨は見出される。
 ひどく静かな、だれもいない、廃墟にて。



 夜と霧、アラン・レネ監督の、アウシュヴィッツに即したドキュメンタリー、30分という短い映画ですが、その30分間、どうしても映像から目をそらすことができない、それほどの映像的な痛烈さを見る側は包括できない(それ以前に、なにものにも包括できないものかもしれない一連の過去=戦争、収容所、アウシュヴィッツ)、そうして、わたしたちの目の前に、(当時の記録映像を伴って)アウシュヴィッツを描き出します。
 何を、言葉で語ろうとも、無意味だとおもうのです。行われなかった正義、行われなければならない正義、そういったことに対しての議論ならばいくらでもできるでしょう。しかし、その場所であったことが、一体、どう名づけられるというのか、たとえ、そのとき、その場所にいた人々であろうとも、あるいは、こうして現在から過去を展望するわたしたちにも、わからないものなのだとおもうのです。言葉だけでは、語ることができない、または言葉だけではすべてを語ることはできない、だからこそ、当時の実際の記録映像(それが、本当に、紛れもなく、現実を写し取ったものであること)を、語るよりもまず、そこであったできごとを、視覚から、わたしたちは考えはじめるのです。もちろんのこと、それはすべてではないこと、すべてを包括できないことを、知りながらも。
 一体、倫理の境界とは、何であるのか、もちろん、倫理・道徳は、理性よりの産物、短絡的にいえば欲望を規制するもの(一面ではありますが)、しかし、アウシュヴィッツは、あるいは理性の産物ではなかったでしょうか、理性的に支配された社会、その、究極的に行きつく先。そこでは肉体は物質以上の意味を持たず、「生産的に」管理され、再利用され、不必要なもの(=死せる身体)は処分される。物質としての身体、それ以上の意味を持つことのない人間、そこでどのようにして倫理の境界は見出されるのか、そして、今、この時点からも、また。わたしには、とてもではありませんが、答えの出せることではありません。一体、だれがそこに、答えを出せるというのでしょう。

 一方で、また、時間ということがあります。「夜と霧」は、カラー映像(映画の作られた時点での現在)、モノクロ映像(戦中の記録映像・写真による過去)より成り立っていますが、同じ場所にて交差する時間、同じ場所・かけ離れた時間、が、編集によって、連続して認識されることになります。これは非常に映画的なこと、写真・絵画・音楽・小説等は、作品のそと、なかで、今とここ、を、離れられないもの、小説の時間の観念というものも、非常に曖昧なのですが、しかし、映画のそれに比べて、提示されるものは、そういった時間性を転換させることが遥かに難しい、見る側の時間の感覚ならば、映画でさえも、免れ得ないところですが、しかし、映画があらわすものは映像、現実に即した映像、編集によっていくらそれが虚構性を持とうとも、それはあまりに現実なのです。だからこそ、映画のなかで流れる時間、というものは、編集によって実際には断続的ならざるを得ない部分があるのですが、あるいはカラーとモノクロが交互にあらわされることによって、編集による映像的時間の断絶を逆手にとって、同じ場所での、過去と現在の対比、時間の客観視、を上手くあらわしているようにおもうのです、そして、また、そのなかで時間の異化がうまれ、何がしかの奇妙さをそこにかんじるのです。これが意図的なことであるかはわかりません、ただ、モノクロとカラーの転換期を挟んだ過去と現在の映像で、そうなったのかもしれないですが、しかし、意図しない効果というものは必ずあるもので、そこにそういった意義を読み取ることはできるはずです。

 さて、そうして、現在と過去を行き来する、奇妙な時間性を目の当たりにしつつ、わたしたちが、映画を見る現在、というものがあります、映画はやはり、何があろうとも過去なのですが、わたしたちの現在を照射する視点、というものが、この映画のなかには、潜んでいるようにおもいます。戦争は(あるいは過去は)、時間を得れば解されるものではありません、わたしは、もちろんのこと、戦争を知らない世代です。しかし、歴史のなかであったできごと、と理解することなど、できようがない。そうして、過去として忘れ去られ、今、平和な現在を、とそう易々と言うことなどできようがないのです。映像、あるいは写真、というものが、その記録をとどめていて、言葉と時間で解した気になるなどどうしてできるというのでしょう、視覚的なものから認識することから、わたしたちは過去のリアルへの糸口を見つけ、ただ答えのないままに考え続けるのです(今も、また、この先も)。言葉で意味付けをして、解した気になるなど、ただ傲慢というより他はなく、いまだに、わたしは「夜と霧」を整理しきれていない、わたしたちの現在を照射する、「いまだ、そしてこの先も、解することのできない何か」を、映画は提示しているのです。


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