PLANET OF THE APES (2001) / Tim Burton




 マジすか! マジすか! マジ(断)

 さて、猿の惑星です。やられました。ちょっとちゃちいB級感も否めませんが、とんでもない逆転です。ああ。そうきたか! そうきたか! そうきたのかよ! と、おもわず連呼してしまうのです。人種問題、ということが、テーゼとなって、描かれるというのなら、皮肉もありつつのラストは、そこそこ、(まあ、色々な意味で)痛烈なのでは。なにはともあれ、これから見る方はお楽しみに。
 と、それはさておいて、正直なところ、物語的にも、またセットやつくりだす過程においての、用意周到さ、というものを、語らずにすますわけにはいかないでしょう。すべて、描かれることは、舞台上にある、ということでしょうか。ティム・バートンの、わざとらしくも凝縮されたデフォルメ感というか(まあ悪く言えばやりすぎということですか)、そこのところの舞台を演出する周到さ、それがまた、ストーリーを推進する・覆す周到さ、に、非常に今回は、接近していたようにおもいます、そして、それが大々的な派手なB級さの装いでもって、安易に見えるところが、やはりおいしいのだろうか、と。つまりは、舞台として(物語も含)つくられたすべての用意周到が、こんなことはどうってことはないよ的なノリで、覆されてしまう気持ち良さ、でしょう。徹底的に固執していながら、容易にそれを手放してしまう、それでいながら、手放すこともが周到さのなかにあるのではないかという感触のある、あの特有の派手なB級、それが、この物語の進みと覆しの周到に、非常に間近に、寄り添っているといったような。しかし、その周到さの手抜きというものが、だからこそ殊更に大きく目につくのです。接近したカメラが、そこにある出来事をうつす、スクリーンに大写しされるものを、判別も出来ないままに、そこに状況を見ることを専念してしまいつつ、何が写されているかということに無意識になってしまうような。かとおもうと、あまりにも状況を写すのに対して、恣意的になりすぎて、テレビの映像と変わることのないような拍子抜けショットも見られます。
 そして、閉塞されている、というか、映像の外に展開されることさえもを映像のうちに無理してまとめようとするような、映像のなかにすべてを(舞台を)収束させようとするばかりに、どことなく遠近が無視されている感、というものがあります。そのときどきにスクリーンに写される映像というのは、ひとつの視線でしかないのに、それも周到にまとめようとした結果なのかどうか、多数を包括させようとして、必然、無理が生じてくる。それが自ずと閉塞感をもたらしてしまうのでしょうか。しかしまた、周到さというのも、あるいは閉塞につながる道なのではないかともおもうのです。予め見出された構想が偶然との立会いのなかであらたな展開の方向へと進むのではなく、それが周到であるがゆえ直線的に、そのまま映像として実現される、そこにはあらかじめそこに見ようとしていたものとの齟齬はなかなか生まれるものではありません。すでにして収束していた映画を、わたしたちは受け取るのであり、一見、細部というものに対しての意識がまったくないようでありながら、細部はもはやそこに(すこしばかり無理に)収束して編み混まれているようなので、それを意識しがたい、のかもしれないのです。
 意識されない細部は、ひとつの中心にまとまり、あとは、もはや映像でなく、記号として機能されるしかありません。細部までを(しつこいようですが、無理に)くくってしまった、ひとつひとつの記号を、わたしたちはスクリーンから読み取り、そうして、その連鎖によって、物語を紡ぐ、バートンの映画が物語の語り部というふうな役割を非常につよくこなしているのは、そのためであるのだとおもいます。なんというか、見終わったあとの爽快な脱力感は、かなり良い線ではないですか。というか、やりすぎが少しばかりすぎちゃったですか。


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