Gouttes d'eau sur pierres brulantes (2000) / Francois Ozon
わけもなく 心悲しく 昔の物語が そぞろよみがえる
夕暮れの風は冷たく ラインは 静かに流れる (Heinrich Heine)
フランソワ・オゾン監督の、焼け石に水(この邦題のつけ方は見事でしょう、たぶん……)ですが、映画自体はファスビンダーの戯曲の映画化ということで、四幕の構成を取っています。室内劇であるということ、すべての劇は室内を出ずに行われますが、劇という意識そのまま、登場人物は舞台上にあり、舞台を出ないという、舞台の外では、彼らは登場人物ではなく、ただ俳優なのであり、彼らが登場人物として機能するのは室内(舞台)でのみなのだ、ということが意識としてあるようにおもいます。それはとりもなおさず、映画でありながら、演劇を踏襲しているということであり、この舞台という意識がかなりその絵に押し出された映画なのです。舞台の外に舞台はなく、映画の外に映画はない。室内の特質上、壁や窓といった枠組によって仕切られている映像を見ても、それは一目瞭然なこと、そしてまた、構図、ということが、ここで言われねばならない。
まず、この映画を見ていてひとが気がつくだろうことに、シンメトリーを意識した構図の絵がが多々あらわされていることでしょう。第一幕・第二幕でそれは非常に顕著に見られ、登場するのもレオポルドとフランツのふたりのみ、彼らが相対する場面では、このシンメトリーの構図の意識がつよく、愛情というものがそこにシンメトリーを形成する、あるいはシンメトリーによってそこに愛の形を形成する、ということが見られるようにおもいます。そして、そのシンメトリーが崩れたときが、彼らのあいだにズレの生ずるとき、第三幕ではシンメトリーは形成されるかとおもうと、瞬時に崩れる、彼らのズレはそこに象徴されます。しかしまた、第三幕はアナやヴェラという、すべての登場人物が出揃う幕でありながら、スクリーンには同時に二人以上のひとは映されません。最初に出てくるヴェラは、ふたりのあいだに起こるズレへの、映像的な(外面的な)楔として見られるべきで、また、その後のアナの登場でそれは決定的なものとなる、そうして第三幕のラスト(第一幕・二幕・三幕とラストが同形式の繰り返しをとるのはもちろん注視すべきです)では、もはやレオポルドとフランツではなく、アナとフランツのシンメトリーがそこに見られるようになる、しかしどことなくそこに今までとは違う不自然さをかんじるのは、やはりホモセクシュアルとヘテロセクシュアルは等価ではないということ、男対男はそのシンメトリーが形的につよく、しかし男女になるとそこに形的なズレを見るのは必至なのでしょう。そして、第四幕になると、そこですべてがぶち壊されるような、相対するものがもはやなく、ふたりというものが壊されることによって、そこに出てくるのは四人の人間の関係性、唐突に行われ唐突に終わるサンバダンス、しかし一見滅茶苦茶なこの四幕、そこに見られる喜劇性はむしろ唐突さのためでなく、相対するものなきすべてのズレによって、もたらされたもののようにおもいます。はじめから破綻を見ていたフランツと、今を望み今を永遠だと言うレオポルド、フランツは死にレオポルドはただ今でも現在を見るのみ、そういった対比をしたときに、そこに見られるズレ、この破綻した悲劇はそういったズレによって皮肉な喜劇にならざるを得ないのかもしれないです。オゾン監督はこの映画で、一見すると形として、演劇を踏襲し、またフランス映画というものを踏襲しているように見えつつも、こういった奇妙なズレによってそれらと反目しているような、そこにそういったものへの裏切りを見るような、そういうつくりを行っているようにおもいます。また、それは見る側として、なかなか気持ちの良いこと、ではないですか。巧妙なズレ、巧妙な裏切り。
さて、ラストでは、ただヴェラひとりのみが窓の外から映されるショットにて幕を閉じるわけですが、またここで見られるもの、窓という枠組、その中心で悲嘆に暮れるヴェラという構成、さて考えてみると、ひとりというのは、完璧なシンメトリーではありませんか?
焼け石に水 (2000・仏) / フランソワ・オゾン
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