揺れに任せて眠りつづけていた。三日三晩の徹夜が効いたらしい。しかし不思議なことに、耳や触覚までは眠っていない。そのせいか、さっきまでの中年サラリーマンの強い整髪料と体臭が混じり合ったような匂いではなく、石鹸のような清潔な香りがする。
若い女で、髪が長いということだけは判った。と、膝の上に何かが置かれた。感触やサイズ、重さから言って新書だろうか。驚いて動こうとするものの、体は眠ったままだ。一体何をするんだ、なぜ僕の膝の上に本を置くんだ? 全ては発することのできない質問だった。
僕は降りなければいけない駅の一つ手前でようやく目覚めた。呆然としたまま、何者かが僕の膝に残していった本を見た。ぼやけた目に入るのは『インド夜想曲』の文字。何もかもがわからなかった。
掌のなかの本は手汗でしっとりと湿っている。堪らずに、本を開ける。第一ページ目にアントニオ・タブツキの名、そして『インド夜想曲』というタイトル。
カヴァーを外してみる。カヴァーで隠れていた見返しの部分に名が記されていた。
Kaori・F
手掛かりはそれだけだった。
部屋へ帰り、リュックを放り出して一眠りしたあと、ふと思い出してリュックのなかを探り、例の本を取り出した。再び裏表紙をめくると、同じKaori・Fのサイン。透き通るようなブルー、独特の字体。
コンビニで買ってきたサンドイッチをつまみながら、小説を読んだ。ほどほどの長さだったし、読み進めるうちに面白くなってきたこともあった。
ある男がインドに行き、ロシニョルという友達を捜しつづけるという話だった。ラストに、友達を捜しているのではなく、友達に自分を捜させていたということが、ホテルで偶然に出会った女性と食事をしながら語るところで判る。
謎がますます膨らんだ。なぜKaori・Fが僕にこの物語を託さなくてはならなかったのか。疲弊しきった頭では、何も思いつかなかった。
僕はそれ以来絶えずプラットホーム、電車の車内、街なか、大学、酷い時などは附属病院の病棟内にまでKaori・Fの姿を追い求めた。けれども今日まで僕はKaori・Fと出会うことはなかった。
言うまでもなく僕は彼女に恋をしている。それなのに何もできない。一冊の本とKaori・Fというだけの情報源から導き出せるものはゼロに等しかった。
悲しいくらい僕はこの恋に無力だ。無力というよりはむしろ、故意に彼女を知ろうとしなかったのかもしれない。僕のなかで創りあげた幻想の彼女を壊さないように、時には盲目の恋もいいものだと片づけた。そうすることで息苦しいものから逃れていた。
心地よい無知だった。無知を装うことには秘かなよろこびをも伴っていた。不思議な感覚だった。こんな気分を味わったのは、どうやら初めてだったように思う。
コイハコンナニモナゾダラケダッタ?
そして一年。僕は学部四年の春を迎えていた。
「桜沢。いい加減起きろよ」
横で眠りこける彼の、骨張った背中に軽く拳を叩きつける。彼の眠りは無邪気でタチが悪い。
「悪い。今起きるよ」
声をややかすれさせているのは、がなり続けているエアコンのせいだ。
「大丈夫か? 顔色悪いけど」
「寝不足なだけ」
悠然とした笑いが真実しか紡がない口からあふれる。桜沢にはいつだって絶対的な自信がある。僕はそんな彼に憧れつつも、彼のようにはなれない自分を少しずつ悟りはじめている。
「桜沢君の担当、どういう症例だった?」
「心室頻拍」
「楽でいいな」
「楽じゃないよ。何を思ったのか勘違いしちゃっててさ。もう私はだめなんじゃないかとかヒス起こしちゃって」
桜沢は気だるそうに目を擦りながら答える。
「大して悪くもないものを悪いとも言えないしね」
藤野がため息を付くように言う。
「こっちとしてはその程度の患者に付き合ってられないのにね。ある程度特殊性のある症例じゃないと国試の足しにもならないし。でもこんなことを言うとさすがに良心の呵責があるな。患者さん、学生だと思って馬鹿にしてるのかもしれないけど、ろくに口も聞いてくれないんだ。こっちのそういう心、読まれてるのかもしれないけど」
桜沢の言う通り、僕らの“良心”は著しく失われつつあった。
机上の空論的な知識ばかり詰め込んできた僕らは、あまりにも未熟で無力だ。それなのに到底理解しきれない「リアルな知識」を会得しなければならない。いっそのこと最初から一部分、例えば心臓の専門医になればいいわけだけれど、それでは医師としては失格だ。医師はとかく、自分の専門分野の知識ばかりが過多になる傾向がある。心臓のことしか知らないとか、脳のこと以外皆目判らないというのではそれこそ話にならない。
そのために医学部三年目の秋から卒業の年の秋までの一年間(僕らの大学は他大学に比べると切り上げるのが遅いらしい)、ポリクリという五・六名のグループごとで別名BST(ベッド・サイド・ティーチング)とも呼ばれる臨床実習に費やす。ある一定期間内様々な診療科に於いて、サンプルとして抽出された病気のモデルケースとして患者に接し、手探り状態で学ぶ。ようやく机上の空論から離れて、医師となるための第一歩を踏み出せる充実した時だ。
「そう言えばその患者、二内の平野先生の娘さんらしいよ」
裏の事情に詳しい藤野が、本から目を放さずに横から口を挟んだ。
「しかもT医大のポリクリらしい」
「ポリクリがこんな初歩的な勘違いするかよ」
桜沢は唖然としたように呟く。血ガスの検査でいきなり動脈採血を申しつけられても涼しい顔でこなしてしまう彼らしくない。
「誰か突っ込んでやれよって思うよ。こっちはそれどころじゃないってのに」
桜沢の口調は少し乱暴かもしれないけれど、とにかく僕らには時間がたりない。医学生としての時間も、二十代の男としての時間も。どうして一日二十四時間、一週七日しかないのだろうか、そんなことを思いつつも日々に忙殺される。だからといって、こんな筈じゃなかったのに、なんてことは思わないことにしている。僕は他の誰の指図でもなく、自分の考えでこの道を選んだからだ。
その日は夕方から学生症例検討会の予定が入っていたから、できるだけ早いうちに実習を切り上げたかったのだけれど、来週提出のレポートを書く上で不明瞭な点があり、そのことについて講師に質問に行くことにした。ある程度の見当をつけて医局のドアを叩いたものの、肝心の講師が見当たらない。助手に尋ねてみると、学会に向けての準備で忙しく、研究室に篭もりきりになっているらしい。僕が困っているのに同情したのか、助手が僕の質問に答えてくれた。ついこの間まで僕と同じように“無力な六年生”をやっていた彼に満額回答を求めるのは無謀だったかもしれないけれど、目の前の曇りは確かに拭われていた。
お礼を言って医局を出、大学構内との連絡通路の方へ歩いていくと、桜沢とすれ違った。
「おまえ、何してるの?」
「医局に質問に行ってたんだ。おまえは病棟に用事でもあるの?」
「例の患者さんのところに顔出そうかなと」
「やめとけよ。どうせ一週間の付き合いなんだからさ。俺らがどんなに頑張ったって理解してもらえないだから」
「そうもいかないよ。そんなに無責任なことなんてできない」
そう言うと、一際強い眼光で僕を見つめる。僕が言葉を失っていると、彼がふっと目から力を抜いた。
「ごめん、考えすぎだな」
「いや、そうじゃないよ。おまえのほうが正しいんだ。間違ってるのは俺のほうだよ」
自分の変な要領のよさに自己嫌悪してしまう。
「でもやっぱり行くよ。だって悪くもないものを悪く考えるのは不自然だしさ。じゃあな」
「待てよ。症例検討会どうするんだ?」
「行けたら行くよ」
そう言うと僕に背を向けて歩いていこうとする。僕はなぜだか居たたまれない思いで彼の背を追っていた。そうすることで、自分の身体に染み込んでいく“馴れ”から逃れようとしていたのかもしれない。
彼は困ったような微笑みを浮かべたものの、やがて笑顔になった。
僕らは吸い込まれるようなリノリウムの床をぐるりと歩き、内科病棟のある一室へ辿り着いた。
六人部屋にベッドは四つ。その右奥が桜沢の担当している患者のベッドだった。桜沢の後を静かについていく。食事の時間はとうに過ぎていたが、回収されない食器が所在無くそれどれのベッドの床下に置かれたままになっている。クリームがかった色の無造作な食器には、どうしようもなく死の臭いが染み付いている。
僕は思考を停止して、患者のベッドをすり抜けていく桜沢の背を見つめた。どちらかと言えば華奢な背中だが、なぜだかひどく頼もしく見える。
担当患者のベッドの前で彼の足が止まる。
「先日お邪魔した学生の桜沢です。カーテン開けさせていただきます」
返事はない。桜沢は淡々とした様子でカーテンを開ける。患者は退屈そうに窓の外の生命感のない風景を眺めていた。
病状はどうあれ、何の因果で医学生が医学生に診られることになってしまったのだろう。
「こんにちは。これから診察をさせていただきたいのですが、よろしいですか?
途中ご気分が悪くなったら、すぐにおっしゃってください」
桜沢は口元にかすかな笑みを浮かべながら胸ポケットから取り出したボールペンでカルテにデータを書き込む準備をする。
「私、入院なんてしないで済んだら、あなたたちみたいになけなしの知識とハッタリ総動員させて患者診てた筈なのよ」
彼女は静かな口調で毒のある言葉を紡ぎ、僕らを順々に見てゆく。そして感情の抜けた目を桜沢へと向けた。
「親の後進で、そこのT医大にいたの。長い基礎が終わって、これから臨床ってところで急に体がおかしくなって入院……だから今こうして優秀な学生さんの実験台になってるの」
「そうですか」
桜沢は何らこたえていない様子で淡々と相槌を打つ。一方彼女は目を凝らして桜沢の白衣の胸ポケットのIDカードを見ている。
「あなたが黎済会の息子さんなんだ?
あなたのお父様と私の父は大学時代のライバルだったみたいね。よくあなたと比べられたわ、うんざりするくらい」
彼女は瞠目して桜沢を見上げる。
「現在の状態について答えてください。率直に」
桜沢は平然とした顔で患者の目をじっと見ている。言葉とは裏腹に今にも涙の粒がこぼれてしまいそうな目を。
「僕の診断も担当医と同じです。人よりも知識を持っているからといって、悲観しなくてもいいんじゃないですか。病状がどうであっても、自分から投げ出そうとしては駄目です。病に打ち勝つ意志がなければ、こちらがどう動いても意味がなくなってしまう。あなたも医師を目指しているんだから判るでしょう。何よりも大切なのは病いと戦い、治癒しようとするあなたの気持ちなんです。どんなに完璧なオペを施して投薬しても、それ以前にあなた自身が貪欲に治癒を望まなければならない。それをまず判っていただかなくてはならないんです」
桜沢の穏やかな唇からそんな言葉が溢れだしていた。まるで目の前に置かれている原稿を澱みなく読むような円滑さがあった。絶対的な自信に裏付けられているとでも言うのだろうか。
「今こうして一日中何もすることもなくベッドで寝てるとね、自分が今までしてきたことに何の意味があったのかって思うの。目の前の誘惑に負けないで、前しか見ないで、明日することも今日しなきゃって。人と同じ時間しかないのに、人よりもしなければいけないことがたくさんあって。何のために私は走り続けてきたんだろうって」
彼女の瞳は四月の温もりを遮断するような冬の色に染まっている。窓の外で、彼女の創りだした幻想の木の葉が散ってゆく。まるで『最後の一葉』だ。僕は虚無感に襲われて、その場に倒れこんでしまいたくなった。
医学部は、様々な学部のなかで最も肉体的拘束、更には精神的拘束も余儀なくされる。大学に付き纏うモラトリアム幻想を覆すハードな職業訓練学校だと思ったほうがいいかもしれない。そもそも今まで未経験のことを学ぶのだから、ハードであって当然というところもあるが。
「家に寄ってかないか?」
いつものように桜沢の運転する濃紺のアルファロメオのサイドシートに座り、たまたまつけたFMで気に入っている曲がかかって、何となく嬉しく思いながら聞き入っていると、そう訊ねられた。
「そうだな。久しぶりだもんな。しかし、アルファロメオで通学できる人が羨ましいよ」
「僕、あんまり車に興味ないからさ、運転してみて合うなと思った車を選んだだけなんだけどね。でもさ、ホンダアコードも素敵だと思うよ。安らぐというか」
「十年落ちでも?」
恨みがましい僕の言葉に軽く笑い、
「でもさ、この代償は結構大きいよ」
自嘲するようにクールに言い放つ。その瞳は夕焼け色に染まり、うっすら潤んでいる。朝日を眺める時、目を細めるように。
「自由こそ私が真に欲するもの」
格言のように言うと片手で引き出した灰皿にフィルターまでかなりある煙草を押しつける。
信号が変わり、車が緩やかに減速する。目の前の横断歩道を、手を取り合って駆け抜けてゆく制服の二人がいつまでも目に焼きついた。
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