いまから380年ほど前の慶長年間、佐賀藩祖鍋島直茂は、龍造寺氏の村中城を拡張して城下町の建設を行った。『肥前古跡縁起』に、佐嘉城の艮(うしとら)の鬼門 (北東の方角)に、「元蓮池町牛の島(現在の佐賀市柳町)にあった社を移して牛島天満宮としたとある。この界隈は長崎街道筋に当り城下でも最も早く開け、街は活気に満ちていた。
元の社地には新たに八坂社(祗園さん)が祀られ、いまも境内には樹齢数百年を超える大楠が見られる。
住昔、春秋のお供日(おくんち)には太鼓浮立が奉納され、夏祭りには御輿(みこし)を担ぐ若者たちの威勢のよい姿があった。しかし、いつしかこれらの行事は途絶えて、わずか大太鼓のみが社(やしろ)に残されていた。
昭和50年、有志が集まって、町の融和と活性化をはかるため、古い伝統を残す太鼓浮立を復活することになった。『葉隠太鼓』と命名したのは、佐賀人の誇るべき精神文化《 葉隠れ 》の尊い教えを後世に伝え、その活力を太鼓の中に生かすことを目標にしたためである。曲目は昔ながらの太鼓の曲に、新しいリズムを加えて再構成し、現代の人々にも親しんでもらえるものにした。現在では、いろんな曲を学び 取り入れ 更なる向上をめざし、がんばっている。

葉隠武士  佐賀の桶狭間といわれる今山(佐賀郡大和町)の合戦は、
龍造寺隆信を一躍戦国大名にのしあげ、有名にした。
時は元亀元年(
1570年)8月、来襲した豊後大友氏 八万の軍勢に、
鍋島直茂は三千の手勢を引き連れ、夜陰に紛れ赤熊(しゃぐま)の毛をつけた鬼面をかぶり、
鐘や太鼓の音に合わせて敵陣に突入、大勝利を収めた。
 戦勝祝に葉隠武士達は夜を徹して陣太鼓を打ち鳴らした。

(この勝ち戦を記念し、敵将大友氏の杏葉(ぎょうよう)の家紋を鍋島氏の家紋とした。
本太鼓もこの家紋を旗印にしている。)

 
この戦いを、四種類の太鼓と竹、法螺貝を使い現代風にアレンジして演奏します。
ごろ神さん  雨乞いは雷神に降雨を願う信仰で、古くから金立さん(金立神社)を中心に行われていた。
太鼓の音曲を雷鳴に通じると考えた農民達の素朴な願いは、
ごろ神太鼓を生み、夜を徹して太鼓浮立が奏された。
豊年太鼓  肥前の平野も彼岸が過ぎ、秋が訪れ、黄金色の稲穂も頭を下げ、
豊年の実りがただよう頃、鎮守の森には村人が集まり、
神酒や浮立太鼓を神に捧げて豊年祭りに夜の更けるのも忘れていた・・・
その祭りを楽しむ人々のありさまを表現する。
祝太鼓  三三七拍子のお手拍手を盛り込んだ太鼓の調べを、お祝いの広場に奏で、
縁起のいい現在と末永い未来の幸せを寿ぐ祝い太鼓を打ち鳴らす。
はがくれ太鼓  万葉の御代から由緒ある佐嘉の地は歴史にその名残りを留め、
戦国時代、そして龍造寺・鍋島、明治・大正・昭和・平成に至るまで、
智と仁と勇の誉れ高く、戦と平和を時代の流れの如く演じ打つ太鼓の調べ。
肥前勇み打ち  背振や天山々系の山並みから湧き出る谷間の水は、やがて大河となり肥前の沃土をうるほし、
有明海に注いだ水は宝の海となり静かに波を漂わせる。
 然し一度豪雨が来れば川は鬼神のごとく氾濫し、有明の海は猛威をふるって荒れ狂う・・・
その静と動は肥前人の気質であり、太鼓はそれを表現する。

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