物語 ポートランドの壷

 
人間の技術は右肩上がり、時代と共に進歩する・・・わけではない。
 技術を科学の応用に限定すれば、確かに進んでいるように見える。
 しかし科学ばかりが技術ではない。美術の絡む技術、すなはち工芸の分野においては山あり谷あり。興隆期と低迷期があるが、むしろ古い時代に山が多い。
 ガラス工芸でいえば、近年栄えたのは百年ほど前。アール・デコやアール・ヌーボーの峰がそこに見える。その向こう、19世紀から18世紀にはボヘミアの峰。背後には巨大なヴェネチアが16世紀から14世紀の山頂を見せて聳えている。
 更に向こうは・・・限りない平原。所々に奈落の表現が相応しいような谷間が垣間見える。山はないのかと諦めかけていると、はるか彼方に微かに見える。それがローマン・グラス。ローマの繁栄した紀元前100年頃から400頃までのおおよそ5世紀に渡って作られたガラス器である。

 一般的なローマン・グラスといえばシンプルなデザインの皿やボウル、壷などを思い浮かべるだろう。事実それがローマ時代のガラス器のほとんどである。ところが中に、突然変異的に傑出した器が登場する。
 例えばケージ・カップ。ガラス器の周囲に網目ガラスを張り巡らせた器で、一つのガラス塊から彫りだされている。現代のような電動工具はもちろん薬品処理も知られてなかった時代。毎日コツコツ彫っていったい何年の歳月を費やしたものやら。その技術と忍耐力は想像の域を越える。
 巨大遺跡は宇宙人によって作られたとする説を時折テレビなどで拝見するが、何万トンの巨石を動かしたり削ったりするよりもこちらの方がよほど不思議だ。
 ケージカップよりは技術的に易しく見える、しかし実はより難しいのがポートランドの壷と呼ばれているガラス器である。アンフォラ型の両手付壷で、高さ24、5センチ。濃紺色のボディに精緻なカメオ彫りが白いガラスで施されている。
 1582年にアッピア街道の遺跡で発見された。ローマ時代の紀元前30年〜20年頃に作られたと推定されている。前後百年を見回せばクレオパトラが自決し、オクタヴィアヌスが初代ローマ皇帝となり、キリストが計算よりも4年遅れて生まれた・・・そんな時代である。
 カメオの図案はギリシャ神話で、エロスやゼウスの化身であろう白鳥などが見られる。一説に、皇帝の出生と神話を織り交ぜた場面だという解釈もあって、それによるとこれは皇帝の骨壷なのだそうだ。
 話は面白いが、形状からして骨壷とは考えにくい。同種のカメオグラスは幾つか発見されており、ポンペイ遺跡からも完全な物が出土している。これは技術的にはほぼ同格の水準に達しているが、装飾性を高めた為に印象が散漫となり、美術的に見ると劣る。
 それでもポートランドの壷が陽の目を見ていなければ歴史的評価も違っていただろう。圧倒的強さを誇るライバルを持つ悲愁といえようか。

 壷の所有者は何度も代わっているが、ナポリ駐在英国大使の手を経て海を渡り、1785年にポートランド公爵婦人の所有となり、以後「ポートランドの壷」の名称が定着した。
 ちなみに婦人がこの壷に支払った額は他に小物3点と合わせて2000ポンド。今の価値ではどのくらいかというと、当時大砲10門を搭載した50人乗りの中古帆船が4000ポンド・・・これではわからないナ。他を探すと靴の純金バックルが12ギニー・・・これもわかりにくいが少しはマシである。靴のバックルは実用よりも飾りだから2個でもせいぜいが40〜60グラムだろう。金の価格をグラム千円として、ギニーはポンドより少し高いが同じに計算すると、一ポンドは3300円から5000円程度。2000ポンドでは660万から1000万円になるが、当時の金相場は少なくとも今の3倍以上ではあったと思われる。従って2〜3千万円といったところではないか・・・まったくいい加減な換算だが、どう転んでも現在この壷が売りに出された場合を考えればタダみたいなものだ。
 おまけにこの買い物で婦人が末代まで名を残した事を思えば飛び切りの掘出しモノといえる。宣伝広告費に換算すれば数兆円にはなるだろう・・・公爵婦人を宣伝しても仕方ないが。
 しかし富はあるが名声が欲しいという方には福音ではないか。大統領や巨匠にならずとも歴史に名を残す方法はあるのだ。金さえあれば。

 ヨサイア・ウェッジウッドは当時すでに名声を博していた。金の力でなく、陶器の開発に関しての技術力と企画力に対してのものだ。マイセン・セーブルのような豪奢な製品こそなかったが、落ち着いた雰囲気の製品は華美な装飾に飽きはじめた王侯貴族や富豪に愛され、そして中産階級にまで支持を広めつつあった。
 「やるべきことはやった」
成功の余録として財を成した。王室を始めとする各界の有力者ともコネが出来た。齢50も半ば、後はウェッジウッド帝国の君主としてローマ貴族のような優雅な日常を楽しめばいい。この上を望むのは強欲というものだ。それは次の成功を望む若者に取っておいてやらねばならないと理解していた。
 しかしどこか燃焼不足の感を免れなかった。
古来よりの窯業の地、スタッフォードシャーあがりの彼は民芸陶器を洗練させることで英国上流階級の支持を得た。それは美しく、しかも実用に優れていた。それでもどこか自分自身で満足のいかぬ点があったのではないかと思う。
そこへ持ち上がったのがポートランドの壷複製の話である。
 彼の初めての作品はギリシャの壷からインスピレーションを得たものである。というよりギリシャ壷そのものと言っていいくらいだ。古典に対する興味と愛着は人一倍強い。否応もない、その話へ飛び乗った。問題はかの壷がガラス製であることだった。如何に陶器でガラスの質感を再現するか。
 彼の苦心談をここで述べるのはやめておく。人の成功話、それも金持ちがますます金持ちになる話など面白くないからだ。そう、彼は見事壷の複製に成功し、ウェッジウッド晩年の代表作として人々の賞賛を浴びたのだ。そればかりかヨサイア没後、ポートランドの壷に不幸があり、その事件のために彼の複製はヨーロッパ中に注目されるようになり、それがきっかけでウェッジウッド社の製品は世界市場に飛躍することになる。
 ヨサイア・ウェッジウッドは西洋の陶工達の中で最も幸福な後半生を送った人物といえるが、その運は子孫までも潤したのだ。現在もウェッジウッドの一部製品にはポートランドの壷のシルエットがマークとして使われている。お守りみたいなもんであろう。

 そのお守り自身に不幸が訪れたのは1845年、大英博物館に展示中のことであった。
一人の美術学生があまりの美しさに嫉妬して打ち壊してしまったのだ。あるいは酔っ払いのアイルランド人が暴れて壊したという説もある。
 前者は良く聞く話で後者の方が面白い・・・そういう問題でもないだろうが。
 比較的近年のことなのにはっきりしてないのは思い出したくもないということか。しかし犯人の氏名は伝わっている。「ウィリアム・ロイド!」・・・金がなくとも歴史に名を残す方法はあるようだが、真似はしないのが賢明である。
さて、そのような悲運をたどったポートランドの壷、200片ものカケラを繋ぎあわせて修復されたが元の美しさは失われてしまった。ウェッジウッドの複製は、修理する時に参考にされた程に正確な物だったが、ガラスと陶器という決定的な違いがある。
 何とかガラスでの再生は出来ないものか。多くの技術者が試みたが、尽く失敗に終わった。
 そこで伝統的ガラス産業の町、スタゥアブリッジの工場主が声明を出した。
 「ポートランド壷の、完全な複製品を作った者に賞金千ポンドを与える」
 千ポンド!・・・ややこしいので計算過程は省くが、この時代だとおおよそ5、6百万円といった金額だろう。思い切ったものである。
 熟練工を中心に町はこの話題で盛り上がった。しかしベテランであればあるほどその難しさは分かっていたから名乗りを挙げる者はいなかった。そんな様子をひっそり見守っていた少年がいた。賞金提供主の工場で働くジョン・ノースウッド。17才の彼に勝算があったとも思えない。しかしポートランドの壷、カメオ・グラスへの興味はこれを機にますます強くなっていったようだ。
 彼は工場の主力商品であるエッチング(酸でガラスの一部分を溶かしてレリーフ模様を施す技法)製品の開発製造に励むかたわら、少しずつカメオ彫刻の技術を身につけていった。
 そして20歳前には「ライオンに襲われるアマゾン」という実験的なカメオ作品を製作している。
25才で独立した彼はエッチング製品の開発を進め、これは安価で奇麗だったから大いに受けて財政を潤した。お陰でカメオ技術の習得に打ち込むことができ、28の時に「エルジンの壷」の仕事を引き受ける。エルジンとはエルジン大理石のこと。すなはちトルコ駐在大使トーマス・エルジン卿がギリシャから強奪したパルテノン神殿の彫刻群。それを図案化したガラス器の注文を受けたのだ。選んだのは馬にまたがる騎士たちの行列図。
 このレリーフ彫刻をインタリオ、すなはちカメオと逆の陰刻にして透明ガラスの周囲に彫り込んだ。
高さ40cmの壷だったが、彼は実に8年の歳月をかけてこれを完成させた。いくら何でも時間がかかり過ぎで、おそらく技術の研鑚と平行して仕事を進めたのだろう。注文主にはいい迷惑である。
 ともあれ捲土重来、ようやくカメオ彫り技術に自信を持ったジョン・ノースウッドはポートランド壷の再現に取り組むことになった。賞金が懸けられてから20年近くが経っており、千ポンドの話もとうの昔に済し崩しになっていたが、もはや彼にはどうでもいいことであった。

 ところでカメオ・グラスの製作にあたっては、彫刻以外に重要な技術が必要となる。宝飾品もそうだがカメオは一般的に2色かそれ以上。ポートランドの壷も2色で、濃紺色の地肌に白のレリーフである。つまり紺の壷に白色ガラスを被せたボディが必要になる。
 実際には先に白い器を作り、後から内側に紺色ガラスを吹き込むのだが、いずれ、2つのガラスの膨張係数を同じにしていないと歪みでガラスは割れてしまう。ところが白と紺では含まれる酸化金属が違うので、膨張係数は始めっから違う。
 当時この問題をどうやって解決したかといえば、たくさん作って偶然壊れなかった物を選んだのだった。さすがのノースウッドもこの点ではお手上げで、仲間の工場に依頼して本体を作ってもらった。この時の記録はないが、何年か後の例でも常温になるまでにヒビが入らなかったのは40点中3点だけだったという。
 さて、白ガラスに紺色ガラスをかぶせたケース・グラスが出来上がるといよいよノースウッドの出番。まずは手慣れたエッチングでおおまかな形を作る。手順は、溶けては困る部分に耐酸性のワニスを塗り、器を弗化水素と硫酸の混合液に浸す。こうすることで余分白いガラスが溶けて紺地の背景が出てくる。ローマ時代はこの作業も手仕事だからさぞかしシンドかったことだろう。
 次にグラヴィール。正式にはウィール・エングレーヴィングと言うが、銅製の回転盤に金剛砂をつけたものでガラスを粗彫りする。そして仕上げ。炭素鋼のヤスリを棒の先に付けて使って丹念に丁寧に辛抱強く削り出して行く。炭素鋼は古代から伝わっているのでローマ時代の作者も同じような道具を使用したと思われる。
 写真などないから手本はウェッジウッドの複製だっただろう。しかしそれだけでは心もとないから部分的に仕上げては大英博物館へ赴き、オリジナルと自分の作ったものを見比べてみる。エルジン壷の時と違ってほとんどの時間を製作に向けたが、そんな手間の必要もあって7割がたの完成を見るのに2年ほどかかった。しかしここまで来ると作業も楽しくなる。疲れたときに完成した部分を眺めて心を癒せるからだ。

 ところで初期のカメオ・グラスは部分的に完成させてから次の場所に移った。つまり顔は完全に仕上がっているのに胴体はまったく平坦で手が入れられてないということがある。
 ノースウッドの場合はオリジナルと見比べる必要があったが、他の作家の場合、その理由が分らない。やはりその方が気分的にラクなのだろうか。とあれ、ここで問題にしたいのは、そのように製作途中で投げ出された品が幾つもあるということだ。あまりの作業にヤンナッチャッタのだろうか。そうではない。今日残されているそれら未完成品を見ると例外なくヒビが入っているのだ。そう、原因はガラス器本体にあった。
 ほとんど偶然に頼って製作された被せガラス、ケース・グラスは無事に出来上がったものも歪みを持っていて、加工途中の少しの衝撃や温度差で割れてしまうことが多かったのだ。
 そしてノースウッドの壷も同じ運命にあった。
 とある寒い日、彼がいつものように壷を手にして作業に入ろうとしたとき、微かな音を立ててガラスに線が走った。掌の熱がガラスの歪みを眼に見える形にしたのだ。
 ノースウッドの落胆を伝える資料はない。しかし一週間くらいは寝込んだのではあるまいか。あるいは酒に溺れたか。いずれ自暴自棄になって壷を壊さなかったのは幸いだった。もっともそんな性格ならハナから超人的な根気を要するカメオ・グラスの製作なんぞにかからなかっただろうが。
 気を取り直して完全に割れてしまった器を接着し、作業を続けて完成させたのは仕事に取り掛かって3年目の1876年、ジョン・ノースウッド40歳のときである。

 ノースウッドの壷は評判になったが、いかんせん量産が利かないために彼がウェッジウッドのような大金持になることはなかった。カメオ・グラスで富を得たのは少し後になって普及品を製造した工場主たちで、器を小さくすることで歪みを少なくし、白い層を薄くすることで作業の効率化を図り、図案も難しい人物をやめて草花にしたから数をこなす事が出来た。
 それらは今日市場で数十万円で手に入るが、そのような普及品でも現在は作ることが難しい。幸いカメオ技法は宝飾品のメノウ・カメオとほとんど同じ。技術的には可能なのだが採算が取れないのだ。
 ノースウッドやその直弟子クラスとなると、現在ではそれだけの彫刻を出来る技術者はいない。
 高度なカメオ・グラスの技法はローマ時代に忽然と現れ、長い眠りを経て19世紀に花咲いた。そしてまた消えたのだ。


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