物語 ヴィクトリア&アルバート博物館


 


 その昔、美術工芸品は王侯貴族の権力の象徴であった。
 ヴェルサイユ宮殿などはその最たる例だろう。
 現在でも正気を保つのが難しいほどの威容を誇るが、それでもかつての姿には遠く及ばない。一番の違いは美術品の数で、全盛期からすれば現在はスープを取ったダシガラに近い。たとえば有名な鏡の間なども昔は家具と彫刻で溢れていた。そのほとんどが重なる散財の為に姿を消した。散財といっても贅沢ばかりでもなく、やはり戦費が一番大きいのだが。
 とあれ、家具にしても彫刻にしても絵画にしてもその他大勢の美術工芸品のどれをとっても当時最高の品であり、それら第一級品が今とは比べ物にならない位にひしめいていたのがかつてのヴェルサイユ宮殿であった。
 その超ド級美術庫を作らせたのはご存知太陽王・ルイ14世。
 若い頃は多少の放蕩もしたようだが、比類なき絶対王政を成した以後の生活は実に規則正しいものだった。

 「・・・いま何時だ」
 「6時半でございます、陛下」
 「眼が醒めてしもうた」
 「起床の儀は7時半にございますれば」
 「今朝は時間を早めよ。臥せているのも退屈じゃ」
 「・・・それでは、とりあえず侍従頭と司祭と執事と秘書に変更の知らせをやりましょう」
 「そうしてくれ」
 「あと理容師と内科医、外科医、銀食器係、衣装係、それに朗読係は如何しましょう」
 「それも変更だ」
 「それから舞踏会においでのブルゴーニュ公爵夫人に早めに朝帰りするよう迎えを」
 「孫嫁どのはまた夜遊びか・・・あれはいいだろう」
 「しかし聖務の前には戻るようお叱りになられたばかりでは」
 「そうであったか」
 「では準備しましょう。そうそう、懐中時計のねじ巻き係にも」
 「・・・7時半になったら起こせ」

 窮屈な時間割を決めたのは王自身だった。時計さえあればどこにいても王が今何をやっているかわかる程に正確な毎日を送ったというから、調度ばかりでなく生活様式にまで美を求めたようだ。
 美しいものが好き、というより権力は美しくあらねばならなかった訳で、彼にとっては日々仰々しく繰り返される儀式も、華麗を通り越して威圧的な美術品も、すべては絶対君主の演出の為にあったわけだ。
 それは宗教が巨大な建築物や荘厳な絵画彫刻で人々を圧倒したのと同じ、あるいは昔の映画スターが「夢を売る商売だから」と借金しても豪邸に住み、高級車を乗り回して豪遊したのと似たようなもんだろう。まあ役者の場合は経済観念に乏しいことの言い訳かも知れないが。
 太陽王は芸術を理解し造詣も深かったと伝えられる。しかしブリューゲルか誰かの農民風俗絵画を上覧したとき、「猿どもを見せないでくれ!」と言ったというから権力誇示の為の美術品以外に興味は無かったようだ。
 概して一代で財を成した人物は成金趣味に陥りやすい。美術的素養を育む暇などなかったことが最たる理由だが、本能的に美術さえも身を守るため、あるいは敵を威嚇するための道具としてしまうことも一因だろう。そのくらいの心構えでないと創業など覚束ないともいえるが。
 ロビーに巨大な象牙やトラの剥製など置いてある会社は要注意、と何かで読んだことがある。しかし少なくとも創業者が現役ならば心配ない。悪趣味であればあるほどそれは会社のパワーであって、むしろ趣味の良い民芸品などであれば後継者に道を譲るよう進言されるが良い。
 二代目となれば概して趣味はよくなる。良い学校で良い友人に恵まれ、デートの場所も展覧会や音楽会など教養溢れる環境で育つからだ。ただし初代の怖さも苦労も知っている二代目は決して無理をしないから企業家としても美術コレクターとしても食い足りない。
 無茶をしないコレクターには第一級のコレクションは為し得ない。コレクターあがりの骨董屋で「二流の品で商売して一流品は自分のコレクションにする」という例が見られるが、これは後にオークション会社を喜ばせることはあっても博物館の基礎となるようなコレクションに至ることはない。良質のコレクションは経済観念を超えたところにあるし、まがいなりにも経済活動である骨董屋がその概念から飛躍するのは難しいからだ。
 もっとも「無茶な買物」の98パーセントはそのまま無茶で終るので誤解なきよう。
 いずれ二代目の決して無理しない方針は経済人ならば美徳であり、世間体にも何らイチャモンつけられる筋合いでもない。
 そこで商売敵や野次馬が楽しみにするのが三代目。
 「唐様で売家と書く三代目」の通り、二代目にも増して美術その他の教養に優れるが、知識としての苦労も知らぬから無鉄砲。良い方へ向かえば飛躍も成るが、水が低きへ流れるごとく、堰となりうる番頭クラスがいない限り自然と悪い方へ落ちていく。零落するのが先かコレクションが成るのが先か、まあたいがいは同時に滅びていく。
 ルイ14世は70歳を越える長寿をまっとうしたために、息子や孫までが割りを食う羽目になり、国王を継いだのはひ孫である。息子の代にはまだ有能な教育係が存命していたが、太陽王の衰弱と共に優れた人材も廃れ、僅か5歳で即位した15世にはロクな取り巻きが残っていなかった。
 「唐様で書く」可能性は限りなく大きかったが、それでもその仕事を16世に譲ったのは曾祖父の残した遺産があまりに大きく彼一代では潰しようもなかったためだ。
 政治的には無能な男だったが、自分で銀や象牙を旋盤で細工するのに興味を持ち、科学の実験のついでにオムレツを焼いたりしたというから、せめて並みの貴族であれば学者か芸術家になれた可能性もあっただろうが、生まれが良すぎた。
 彼のことを放蕩王とする向きもあるが、それほど豪快な散財をやらかしたようには思えない。ただし厄介な政治問題を抱えた最中に狩猟・宴会にウツツを抜かしていれば目立つしヒンシュクを買うのもやむを得ない。それに女が絡めばなおさらだ。
 彼は正妻をさしおき、愛妾ポンパドゥール夫人に夢中になっていた。惚れた弱みでサイフばかりか政治のことまで預けたから民衆には彼女が国家に巣食う寄生虫のようにも見えたことだろう。しかし後世の美術愛好家からすれば、彼女はアテナかミネルヴァか、美術の女神にも喩えて良いくらいだ。多くの宝石コレクションはともかく、画家や彫刻家を擁護し家具や陶磁器にも興味を示し、贅沢を文化へ昇華させた。
 たとえば王にねだってセーブル窯の事実上のパトロンとなってからは、彼女の感性でセーブルを当時のヨーロッパ最高の磁器窯へと導いている。他にバカラの創始にも関与していたが、これは時期尚早だったかすぐに潰れた。しかし半世紀後に民間経営で再興、その後の繁栄はご存知の通り。
 歴史的評価はいざ知らず、ポンパドゥール夫人に入れ込んだことでルイ15世の美術工芸史上の評価も高い。本人が栄誉と思うか否かはさておき。

 貴族と美術工芸品の縁はもちろんブルボン王朝だけに見られるものではない。
 古くは古代ギリシャ・ローマ。そこまで溯らなくてもフィレンツェのメディチ家は数多くの芸術家や工房を擁護したことであまりにも有名だ。
 ルイ15世と同時代ではハプスブルグ家のマリア・テレジア。
 マリー・アントワネットの母親であり、在位中も常に妊娠していたくらいな子沢山で有名だが、女帝として祖国オーストリーを大国から守るのにも辣腕を発揮していた。奢侈を戒めていたがそれでも漆器には眼がなく、外貨流失にうるさかった彼女も漆細工の輸入だけは奨励した。漆器はやがてオーストリーの国内産業となったから無駄に贅沢はしてない。磁器も同様、零細工場であったウィーン窯を買収、その黄金時代を築かせた。
 彼女の場合はポンパドゥールと違ってあまり企画などに口を差し挟んだ形跡は見られないが、女帝没後のウィーン窯が買手がつかない程に零落したことを思えば彼女の影響の大きさを伺うことが出来る。
 そのマリア・テレジアが蛇蝎のごとく嫌っていたのが軍事強国プロシアのフリードリヒ大王。あまり美術工芸とは縁がなさそうなのだが、それでも父の代から隣国ザクセンのマイセン窯を欲しがっていた。結局果たせず自前でベルリンを創窯させた。彼の場合は純粋に経済活動だろうが。
 王侯たちにとって美術工芸品を揃えることは道楽以上にステイタスであり、その工場・作家を擁護支配することは権勢の誇示と同時に、うまくいけば経済的見返りも得ることが出来た。要するに趣味と実益を兼ねていたのである。
 だからフランス、オーストリー以外にも、ドイツでもイタリアでもスペインでもデンマークでもハンガリーでも、そしてロシアにさえ王立工場があった。官製工場は大資本の必要とされる磁器窯が主だが、ガラスや金工などその他の工芸品とも縁は深く、国王の擁護が無ければ成り立たない工房がほとんどだった。
 ところが。
 共和制にしてはみたものの、どうも居心地が悪いと僅か11年で元の王政に戻した根っからの君主制国家、イギリスに王立工場が見当たらない。
 ウースターもウェッジウッドも王室は良いお得意先ではあったが依存してはいない。他の工芸会社、工房も似たようなものである。
 不思議ではあるが、代々の国王を振り返ってみれば肯けなくもない。

 パリに亡命していたチャールズ二世はルイ14世の絶対的権力を羨ましがっていた。だから王政復古でイギリスに戻り国王となると、その真似をして君臨した・・・ただしチャールズの絶対権力は夜に限られた。「陽気な王様」とあだ名された明るい性格はモテる必須条件。しかも王様だから今のウィリアム王子も敵わない。ピューリタンの後始末に躍起な議会をよそ目にオランダから贈られたヨットで女性たちに格好良いところを見せていた。愛人は公認だけで12人。その愛人たちと設けた子供の子孫に故ダイアナ妃がいたりなんかする。
 もしも彼が美術工芸品に興味を示すことがあったとしたら、女性の贈り物として気を引ける場合に限られただろう。
 少し後のジョージT世はドイツ・ハノーヴァー家出身。英語が苦手で政治にも無関心だった。そんな人物を国王にするのもどうかと思うが、頼りない王を見限り内閣制度が強固になって大英帝国の礎が築かれた・・・結果オーライ。それはいいのだが、絶世の美人妻を持ちながら彼女をその美貌ゆえに嫌い、二人の醜女を愛人としていた。これが困る。
 美術工芸品は基本的にアカデミック。ブス好みなどという独創的感性は芸術家には向いてもアンティーク・コレクターには向かない。味覚オンチでも革新的料理は作れるが料理評論家にはなれないのと同じだ。
 更に下ってジョージW世は別名「快楽の王子」。趣味は暴飲暴食、賭博、衣服、宝石、骨董、普請道楽・・・美術の匂いがしないでもないが、優れたコレクターの素質はなく、工房や作家を抱えるなどおよびもつかない。
 とにかく散財することに快楽を見つけていたようで、謹厳実直の父、ジョージV世を心労の為に発狂させた(他の子息もそろってデキが悪かったのだが)。晩年には無茶な飲食が祟って4分の1トン近い体重になっていたというから欲望を純粋培養した肉隗だ。
 その後一人置いて1837年に即位したのがヴィクトリア。
 ・・・今はどうか知らないが、20年程前の英国では真冬に暖房費をケチったあげくに凍死する老婆がシーズン中、必ず1人や2人は出たものである。晩年の喪服に身を包んだヴィクトリアにはそんなイメージが付きまとう。
 もちろん全盛時代を迎える大英帝国の女王にそんな心配はない。当時世界最大のダイヤ、コリヌールを始めとする数多くの秘宝もあれば、土地、屋敷、その他の個人財産も途方もない。資産は500万ポンドとも言われ、ヨーロッパ最大の金持ちであった。
 しかしその地位と権勢から見れば生活はあまりに慎ましい。
 彼女の名前を冠したディナーセットがある。ハンガリーの名窯ヘレンドの製品で、後に出てくる万国博覧会出品の折に女王が注文したことがきっかけで「ヴィクトリア」の名称を冠せられることになった。牡丹みたいな花に蝶をあしらった、東洋的な雰囲気のデザインは泥臭くなる一歩手前、ギリギリのところで勘違いを免れているが、とてもクィーンのイメージではない。
(小さな写真で見ると綺麗だが)
 普段はストーブ代もケチる老婆が一世一代の買い物をしたという趣きだ。(現代の同パターンは色調を弱めてクドさを除いている)
 しぶちんヴィクトリアはもちろん王立の工場を持つことも特定の工房を擁護することもなく、その点では英国歴代国王と変わるところはない。
 しかし別の意味で彼女は、特別豪華なアンティークを残してくれている。
 ことに庶民的コレクターやディーラーにとっては代え難い宝物だ。
 それには夫アルバート殿下の尽力が大きい。

 ヴィクトリアは20歳で同じ年のアルバート公と結婚した。
 ドイツ人だった彼は、肖像画を見ればなかなかの美男で理知的、頭が薄いのを除けばそのまま役者にしたいような風貌だ(頭の薄い役者だっているが)。肖像画家のヨイショを割り引いても整った顔立ちは間違いあるまい。
 ヴィクトリアの方もこれまた女優もかくやの美女である。正装に身を包んだ比較的若い頃の肖像画ではそう描かれている。同じころ、1860年代の写真があって、これを見るととても同一人物とは思えないのだが、写真機も生まれたてだから性能が悪かったのだろう。ヴィクトリアは美人であった。
 美男美女の取り合わせは、周囲がおぜん立てした縁組みとはいえ二人とも乗り気、特にヴィクトリアは彼に夢中になったらしい。
 今も伝えられる逸話にこんなものがある。
 ある時二人の間で口論が始まり、怒ったアルバートは部屋に閉じこもってしまった。ヴィクトリアは彼をなだめようと部屋をノックする。
 「いい加減に機嫌を直してちょうだい」
 「そういうお前はだれだ」
 「何を言ってるのよ、私、女王です」
 「・・・・」
 「アルバート、返事してよ」
 「お前は誰だ」
 「女王ですってば」
 「・・・・」
 「お願い、ドアを開けて」
 「もう一度尋ねるが、お前は何者なのだ」
 「・・・あなたの妻です」
 そこで初めてドアが開かれたという。
 真偽のほどはわからないが二人の位置関係、そしてアルバートの性向を良く示すエピソードではある・・・普通は女が閉じこもる。
 アルバートは社交嫌いで控えめな性質、普段は国政に口を挟まず女王を立てていた。彼の態度は理想的な王室の姿として英国民にも好意的に迎えられ、彼が故郷ザクセンを偲んでクリスマス・ツリーを飾るとそれを真似することが流行り、英国の(後に世界的な)新しい習慣となったくらいだ。
 しかしヤル時はヤル。意見を求められれば的確な指示を返し、イザとなれば相手が女王であろうと辛抱強く説得した。後世の批評家も「アルバートがいま少し女王の相談役を長く続けられていたら、英国のその後は変わったものになっていただろう」と高く評価しているところからしても彼の実力を推し量れる。
 そんな優れた政治能力を持ちながら、その性格ゆえに目立たなかったアルバートが珍しく表舞台に立ったことがある。
1851年、ロンドンで開催された世界初の万国博覧会だ。
 科学や芸術に造詣の深かったアルバートは総裁として、この巨大プロジェクトを推し進めた。飾り物代表ではなく、強固な反対意見をなだめすかし説得し、時には王家の威光で押さえつけた。開催にこぎつけたのは彼の存在なくして考えにくい。
 ところでアルバートに博覧会を提言し、実務担当のメインとなったのは「美術・商工業・推奨協会」なる団体のメンバー。
 美術と商工業をひっくるめるのも妙に思えるかも知れないが、自動車も電化製品もなかったこの時代、美術工芸品は重要な産業の一つだった。だからロンドン博覧会の正式名称も「万国産業製品大博覧会」という、美術とは縁のなさそうな外題でありながら彫刻を含む多くの美術工芸品が出品されている。ただし絵画は除かれた。彫刻を彫るのは機械を使うが絵は手作業というハンパな理由で、純粋芸術だからなんて高尚なもんではない。
 当時の絵画といえば写真の代わりであり、ほとんどが注文で描かれた。すなはち工芸品の一分野であったのだ。芸術的衝動を追求した、つまりわけのわからない絵画が評価され主流になるのは19世も後半、印象派以後のことである。
 出品された工芸品の一部は現存している。また失われた物も多くが銅板画に記録されており、概要をつかむ事ができる。それらの展示品は重厚長大、モノクロ版画でも食傷気味になるほどに装飾過剰なキライがある品が多い。実際に見て廻ったら途中で感覚が麻痺してしまうのではないか。どの国のも凄いが特に英国のは重厚長大、大艦巨砲主義。
 「英国人の悪趣味を全世界に披露した」なんて辛辣な批評もあったようで、そこまでは言わないが、少しハリキリ過ぎの感は否めない。もっともイベントの性格からいって無理もない。
 ・・・他国の出品に負けてなるものか、ヴェルサイユなどモノの数ではない、大英帝国の威光を美術工芸品と産業品であまねく世界に知らしめるのだ・・・。
 太陽王の後、久しく出番のなかった純粋な権威としての美術工芸が復活したのだ。
 ヴィクトリアがこれらの展示品に関してどう思っていたか。本心はわからないが、彼女にとって展示品よりもアルバートの晴れ姿が重要だったに違いない。そして演出過剰な博覧会はイベントとしては大成功、のべ600万人の入場者があったからアルバートは輝いて見えただろう。ではアルバートには展示品はどうであったか。彼にとってもそれらはどうでもいいモノだったと思われる。重要なのは博覧会が成功することだった。彼には目的があった。
 二人にとってはどうでもいい展示品だが少しは触れておきたい。
 主催国イギリスからは先にあげた装飾過剰な金工品や家具が出品されているが、陶磁器も力が入った展示品で、趣味は悪くない。ウースターやウェッジウッドに加えてミントン、コールポートが名を上げ、特にコープランドは大理石のようなパリアン磁器で評判となった。
 他国ではマイセン、ベルリン、セーブルも参加している。ウィーン窯はこの博覧会の十数年後には消えてしまうのだが、燃え尽きる前の一花を咲かせている。
 大きな事故のなかった万博で一度だけ、英雄ウェリントン公に向けられた大歓声で他の観客が勘違いでパニックを起こし、フランス陶器が壊されてしまったとある。これはセーブルのことか。惜しまれるが、押すな押すなの会場で陶磁器一つの被害で済んだのは不幸中の幸い・・・でもやっぱりモッタイナイ。
 意外なのはロシアで、お家芸の七宝細工はもちろん、ガラスや陶器もなかなか優れた出品が見られる・・・と思ったら、資料が後のパリ博のとゴッチャになっていた。エカテリーナU世の代であれば文化的にも大国の仲間入りをしているから不思議はない。ということで英国博の時の情況は不明。
 日本や中国の出品はない。中国は参加表明しながら荷物が来なかったという。太平天国の乱で万博どころでなくなったのか。日本はまだ国を閉じていたし、後のパリ博でも日本国と薩摩国に分かれて参加したような情況でまだまだ夜明けは遠い。(今でも夜が明けてない気もするが)
 イギリスの展示に戻ると、最大の呼び物は巨大なガラス製噴水。当時シャンデリアなどのクリスタル製品は英国産業の一角を担う重要産業であったが、ボヘミアの色ガラスに押されていた。そこで挽回を諮ったのだろう。写真にも残されているが、高さ6mというから当時の人々には驚異だったに違いない。しかしあらゆる刺激に満たされている現代人にはさほどの感慨はあるまい。ホテルのエントランスにでも置かれていれば見惚れる程度だろう。
 我々が驚かされるとすれば、展示会場そのものだ。クリスタル・パレス(水晶宮)と呼ばれた鉄筋とガラスの建物で、巨大な温室を想像していただければ良い。ただしその巨大さがハンパじゃない。長さ563m、幅124m、高さ20m。
 屋根の一部はカマボコ状のドームになっており、35mの高さがあった。会場内にあったニレの樹を守る為に嵩上げしたもので、自然保護運動の走りともいえようか。結果的にこの設計変更はデザイン的にも優るものとなり、また「巨大な楡の樹がまるで小さなクリスマス・ツリーのように見える」と言われたように大きさを強調することにもなり、クリスタル・パレスの評価を上げると共に博覧会成功に一役買った。
 このクリスタル・パレスに使われた板ガラスは124×25cmのサイズで30万枚弱ということだが、当時プレスして板ガラスにする技法はなかったから一枚一枚すべて手作りだった。簡単に製造法を述べれば吹き竿でガラスの風船を作り、それを延ばして円筒形にする。ハサミでその円筒を切り開き板に仕上げるので手間がかかった。しかし微妙に歪んだ手作り板ガラスは近年の機械生産品にはない味わいがあり、古い家具のガラス戸などに使われているのを発見すると嬉しくなってしまう。
 そのような手作りガラスが400トン。そして4500トンの鉄で出来たガラスの宮殿だが、床や梁にはこれまた大量の木材が使われていた。それが原因で万博終了後に移築保存されていたシドナムにおいて火災発生、9時間後に鎮火したときには数多くの美術品と共に瓦礫と化していた。もしも現存していればヨーロッパ美術史に残る弩級美術工芸品としてパリ博のエッフェル塔と共に高く評価されていたことは想像に難くない。
 ともあれこの博覧会は大成功を収め、18万ポンド以上の利益を出した。当時の一般的月給が30ポンドから50ポンド。これを20万〜30万円で考えれば18万ポンドは十数億円で、現在でもこれだけの純利益を揚げるには相当の大規模事業か悪どいことをやらねば難しい。当時とすれば驚異的額であっただろう。
 アルバートはその金でロンドンのサウス・ケンジントン辺りに土地を買った。転がして儲けようと目論んだのではない、そこに様々な文化施設を作り、英国文化と文明の発展に役立てようと考えたのだ。
 現在ではロンドン科学博物館、国立自然史博物館、その他資料館や学校が立ち並ぶ、日本の上野のような文教地区となっている。もちろん現在の姿は後世の増改築に預かるところが大きいが、基本構想はアルバートのものだ。
 アルバートの企画した博物館は、当初万国博の展示品をメインに装飾美術館として開館。万博から六年後には数々のコレクションを加え、「サウスケンジントン博物館」と命名されて再出発した。博物館はその後も次々と展示品を購入し、寄贈されて規模を大きくしていった。
 おおよそ半世紀後、博物館が手狭になって新築されることになったとき、女王は新博物館の名称に自分とアルバートの名前を付けることを望んだ。自己顕示欲の少ない、というより存在自体が自己顕示であって顕示する必要もない女王には珍しい。老齢ゆえの気まぐれか焦りか。
 ここは素直に女王が亡きアルバートを忍び、特に思い入れの深かった博物館を二人の記念碑としたかったのだとしたい。だからこそ英国人もヴィクトリア博物館とは省略せず、V&A博物館と記すのだろう。
 老女王とすればアルバート科学博物館、アルバート自然史博物館、アルバート地質学資料館などとしたかった処だろうが、そこまでは英国民も付き合いきれない。それでも記念碑と音楽の殿堂アルバート・ホールに名を残した。
 ヴィクトリア&アルバート博物館は今では世界最大の工芸博物館となっている。すなはち世界最大のアンティーク博物館である。アンティークとは百年以上を経た美術工芸品のこと。現在もコレクションは続いており、V&Aでは現代作家ものなども収蔵対象とするので総てがアンティークではない。しかしそれら年月不足の工芸品も将来優れたアンティークになる資格を有する物ばかりである。
 彼は博覧会の成功が無くても文教地区建設の構想を浮かべたと思う。しかし彼の寿命を考えれば、その莫大な利益なくして構想の実現は危うかった。
だから博覧会を成功させたことは彼にとっても英国にとっても、またアンティークを学ぶ者にとっても幸いだった。

 英国の博物館を一つ挙げるとなると、やはり大英博物館になるだろう。
 確かにその所蔵品はそら恐ろしくなるような貴重な品々ばかり。しかし我々には終生縁の遠いのもばかりでもある。いわば人類遺産と言うべき品々が主であり、身近なアンティークの概念に収まる物は少ない。また、それらのアンティークが間違って市場に出てくることがあっても、大富豪や博物館の争いとなり、庶民はといえば数字の丸を数えて溜息をつくばかりだ。ガラスケースの中で手に入る可能性のあるものといえば資料的物品、土器のカケラくらいなものか。
 ヴィクトリア&アルバート博物館はその点、庶民でも夢を持てる。コレクション対象が広く、ピンからキリまで揃えているからだ。
 もちろんピンは庶民に縁遠く、国宝・重文クラスがゴロゴロ、オークションに出せば数千万円なんてクラスは無数にあり、全部の展示品に各々保険評価額を表示したら、そこが中央銀行の金庫よりも多くの札束に埋もれていることに気付くだろう。まあたいがいの大手博物館は同様なのだが。
 V&Aが一味違うのは、キリに至るまで充実していることで、オークションでも数十万円、どうかすると十万円以下、我々でも食費を削れば手が届く程度のシロモノまで網羅していることだ。だから骨董屋やコレクターにとってV&Aは貴重な存在なのだ。
 国宝クラスなどは誰が見てもわかる。そこまでいかなくても全面に精巧な彫刻の施された高さ60cmのガラス器を安物と見間違えるコレクターはいない。難しいのはどこにでもあるようなエナメル彩のコップ。それが17世紀なのか19世紀末のコピーなのか。
 そこでV&Aの17世紀のエナメル彩ガラスを見てみる。
 手に取って見るのが一番なのだがそこまでは望めない。しかしそれでも気泡は少なく散漫なことやガラスの透明度が意外と高い、そしてエナメルの色合いが濁っていないことが分かる。逆に言えば、気泡が多目で意図的、ガラスをわずかに着色してあり、エナメルを濁らせていれば19世紀末に量産されたコピーだとわかる。(初歩的贋物の場合)
 17世紀のドイツやボヘミアのエナメル彩グラスなら、絵柄などによってまるで価格は違うが、コップサイズで20万から50万円といったところ。博物館では雑器だが、庶民的コレクターには一世一代の買い物である。これが19世紀末ではヒトケタ下がるから生死にかかわる大問題なのだ。
 V&Aが最高の学校といえるのは、この庶民的参考品の多い点にある。
 勿論すでに述べたように一流品も数多く、特に家具や銀器・金工品は日本で優品を見ることはまず望めないから有り難い。陶磁器やガラスもそうだ。タペストリーや衣装、宝飾品も・・・日本で優れた西洋アンティークを系統立てて見れるのはフランスのアールヌーボー、アールデコのみ。
 今度経済大国になるときが来たら、その折には優れた西洋アンティークを招来していただきたいものだ。絵画彫刻ばかりが美術品ではない。
 英国はかつて富んでいた時代に大陸の美術品をごっそりかき集めた。そのためロンドン美術市場が長らく世界を席巻していた。・・・ウィンブルドン現象なる言葉がある。テニス発祥の地であり、世界最強のプレーヤーを決定するウィンブルドン大会の主宰国でありながら、争っているのは他国の選手ばかり。そのことから英国の金融機関の多くが外国の金融機関の軍門に下り、ロンドン市場の主役が外国勢に取って代わられたのを揶揄する用語だ。
 しかしこと美術に関して言えば、逆ウィンブルドン。
 世界中の美術工芸品を集め、また流通させているのはロンドンだ。近頃アメリカに押されつつはあるが、まだまだアンティークの分野では揺るぎない。また、たとえ市場を譲っても大英博物館もヴィクトリア&アルバート博物館もある。
 ヴェルサイユやシェーンブルンみたいな豪華絢爛たる宮殿も、眼も眩むような美術工芸品にも縁の薄かった英国王侯貴族。もともと文化的には後進国。その負い目をむしろ逆手にとって成した遺産だ。

 アルバートが没したのは41歳、博覧会の開催から十年後、結婚から21年後のことである。
 以後ヴィクトリアがその生涯の殆どを黒い喪服で通したのは有名な話。
 ついでに言えば、白いウェディングドレスは18世紀末に登場したが、それが一般的習慣となるきっかけはヴィクトリアとアルバートの結婚式だった。生涯の代表色が白と黒などとは、いかにも彼女らしい。


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