やって来ました。波照間島!!
って何処って?ここは、知る人ぞ知る日本最南端に位置するちっちゃな島。人口わずか50 0人程度の波照間島は自然がいっぱいのトロピカルアイランドなのであります。

さて、この波照間島。人々の感想に耳を傾けてみると、「な〜んだ。何もないつまんない所 やんけ。」という人がいるかと思えば、「波照島最高〜!」なんて叫ぶ若者も居たりでその 意見は真っ二つに分かれるようです。まあ、南国のアバンチュールを期待してここを訪れた らきっとがっくりするでしょうね。だって、飲み屋も無ければ奇麗なお姉さま達も居ないんだ から。(笑)

おっと、申し遅れました。私、しゅうは久々に日本に帰国して、はるばるこの波照島までや って来ているのです。今回、じいちゃんの墓参りで沖永良部へ行く予定だったのが急遽日 本最南端まで来る事になってしまいました。そんな訳で旅日記を交えながら今回初公開「 しゅうの○秘××体験?」なんかを綴っています。別にスケベな話じゃないぜ!しゅうなり に悩み続けた日本社会とは一体何だったのか等を綴ったかなり真面目な作品です。海外 帰国子女の皆さんに是非読んで欲しいなあと思っています。


■ プロローグ

「波照間島に行ってみないかね?」
「はあ?」
「ほら、あれだよ。日本最南端の島ってやつ。」
「あぁ〜。南十字が見える島ですか?」
「そうそう、それ。」

電話でのこんな会話から始まったのがこの旅の始まりだった。相手は沖縄に住む僕の大 叔父である。実はこの人物、那覇市文化協会の理事長という凄い肩書きの持ち主。しかも 華道の世界(小原流)ではかなり名の通った人物と聞いている。ちなみに僕は彼が一体ど んな人物なのか全く知らない。今までお目に掛かった事も無いし、電話で話すのも今回が 初めてだった。

血筋から辿れば彼はれっきとした僕の大叔父らしいが戸籍上はそうじゃないらしい。何しろ 僕の曾爺さんは偉いモテモテの美男子だった(らしい)が故に奥さん一人ではどうにもなら なかったと聞かされている。つまり、大叔父と僕の祖母は異母兄弟としてこの世に誕生し たことになる。

曾爺は美貌もさながら、外国大型船の船長として世界中を渡り歩いた人物なだけにその 身形は余りにも当時の日本人とはかけ離れていたと聞かされていた。中学生の頃セピア カラーの霞んだ写真を一度だけ見た事があるが、確かに曾爺は西洋風のおかしな格好で そこに写っていた。現代人の僕には一見滑稽な姿にも思えたが、彼の眼からは、着物を脱 ぎ捨てても武士道の精神は未だ劣らずといったような、そんな気風を強く感じられたのを今 でも記憶している。

さて、そんな曾爺によって齎された大叔父と僕の交点は時代を超えて西暦2000年の夏 にようやく交わりを迎えた。事の始まりは一人の日本画家が描いた一枚の絵から始まった 。


■ 画伯との出会い

石井薫風画伯、75歳。彼との出会いはかれこれ3年前に遡るが、それ以来彼は僕の友 人であり、また人生の師匠として師事させて頂いているお方だ。

彼の作風は一言で言えば「分かり易い」のである。ピカソが生み出したキュービニズムやら 、グラフィティ・アートで有名なキース・ヘリングのような何じゃこれ?的な作風は一切見ら れない。

ちなみに僕はピカソもどきのアーティストは大嫌いである。だって分かんないんだも〜ん! 如何にも「美の哲学が分かるかな?分かんねえだろうなあ。」などと大衆に向かって捨て 台詞を吐くような、そんな作風は回りくどくてたまらなく歯痒く感じてしまうのだ。ま、そもそ も絵心がこれぽっちもないしゅうがいくら論じても、ド素人が何ほざくかと言われるのが関 の山なんだけどね・・・。

反対にストレートに美を追求し、それをキャンバスに大胆に描いた作品は大好きである。石 井画伯の作風はまさにそれでストレート勝負!野球選手で言えば元巨人軍の江川投手と 言ったところだろうか。今の江川さんは、手を変え品を変えで一生懸命受けを狙うバラエテ ィータレントに落魄れてしまったが、石井画伯は75歳になった今でも一貫してそのストレー トな作風を貫き通している人物だ。

彼が描いた数々の作品は海外で催される数多くの代表的な美術展覧会に入賞している。 1995年12月にはフランス国立シャガール美術館国際美術展で最高栄誉賞を受賞、その 翌年の96年にもパリ・アンデパンダン展現代作家日本画部で銀賞を受賞している。この 他にも、彼の受賞実績を数えあげるときりが無いほどヨーロッパでは絶大な支持を得てい るのだ。(石井画伯の略歴は最後にまとめて記載しています。)

ところが日本国内ではと言うと、彼の作品自体あまり世間に知られていないのが現状だ。 何故か?僕はこの疑問に一石を投じてみたいと常々考えていた。失礼になるかとは思わ れたが、本人に尋ねてみるのが一番手っ取り早いので直接この疑問を本人にぶつけてみ たことがある。

「先生は日美なんかが主催する展覧会に何故出展しないのですか?」
「僕はね、実力で勝負したいんだよ。今の日美にそんな風潮があると思えるかね?」
「さあ、僕は美術業界については全く素人なもので・・・。」
「日本の美術界はね、要するに金の世界なんだよ。金を多く積めば、賞が取れるのが今の 日美なんだ。それが本当の美を評価すると言えるかね?」
「・・・・・・。」
「自分のスタイルを貫くなら海外だ。僕の活躍の場は日本の外にあるんだよ。」

そりゃ野球みたいに点数つけて1位、2位を決めるなら簡単だが、芸術に順番を付けるの はやはり一筋縄ではいかないのは確かだ。審査過程の不透明さも否めない。そこに様々 な関係者の繋がりや、根回し、賄賂の贈収などが必然的に渦巻いて存在するのも容易に 想像できた。ならば、日本の美術界にはフェアプレーの精神がないのか?いや、これはも しかしたら日本的な昔からの風習がもたらした現代社会の副産物なのかも知れない。

最近、シドニーオリンピック代表選手から外された千葉すず選手がオリンピック裁判所に提 訴したことでにわかテレビや新聞で騒がれているが、これもまた密室で行われる不透明な 選抜方法がもたらしたドタバタ騒動である。僕は、この事件と石井画伯が言ういわゆる「日 美は金の世界」がどうもオーバーラップして頭から離れないのだ。


■異端児は海外へ

自分のスタイルが日本で通用しないのなら海外に活躍の場を見出せばいいじゃないか。 酒を飲む度にそんなことを口にする画伯の言葉が何となく僕に圧し掛かっていた時期があ った。前の会社を辞めて地元にある会社に勤め始めたものの、社長と喧嘩別れしてたった 2週間で辞めた頃だった。

理由は何の事は無い。その会社が1年以内に絶対潰れると啖呵切って社長室に怒鳴り込 んだからだ。事実、その会社は1年も経たずに跡形も無く消えてしまった。その気になれば その会社自体盛り返せるだけの企画を提示できたかもしれないが、当時の僕はそれどこ ろではなかった。日本社会に対して心も体も疲れきっていたからだ。

それからまた別の会社に就職したけれど全くやる気なし。既に敷かれたレールの上でマニ ュアル通りに仕事をこなすのは僕のスタイルとはかけ離れていた。

「違う!全然違う!!俺が目指していたのはこんな事じゃ無かった筈だ!」

何度もそう思いながらも自分を騙し続けた。納得もしていないのに自分を騙しつづけるのは 本当に辛い事だ。自分だけならまだいいが、回りの皆も騙し続けなければならないのがも っと辛かった。家族をはじめ、僕を慕ってくれる友人や会社の社長、そして何よりも死んだ 親父に対して会わせる顔がなかった。

「正直になろう。自分にも回りの皆にも。」
悩みに悩んで自分で出した結論だった。まずは家族との話し合いから始まり、会社への退 職意思表明まで、できる事なら避けて通りたい事ばかりだった。

「田中君、逃げ道は作っておくもんだよ。最初のプランが駄目なら第二のプランに移行でき るくらいの柔軟性を持たなきゃ駄目だ。」

退職したその夜、社長が寿司をご馳走してくれた時に頂いた有難い言葉だ。たった3ヶ月 しか在職しなかった、言うならば給料泥棒と同じ立場のこの僕をここまで気遣ってくれる社 長の人柄に僕は強く心を打たれた。

日本で駄目なら海外で勝負しよう!そう本気で思い始めたのはこの頃からだ。でも一体何 処に行ったらいいのか?手っ取り早いのはやはり米国に渡る事だったが、何故か僕自身 その気にはなれなかった。理由は二つある。一つは、僕の専門がアジア地域全般、専攻 は中国での包括的経営戦略だったのが一つ。それともう一つは、個人的にアジア地域に 対して大きな借りを作っていたのが最大の理由だった。

僕は、香港が中国に返還されてからの香港経済シュミレーションとそれに担った国際経営 戦略論を約1年近くかけて書き上げたことがあるのだが、その論文の中でかなりオプティミ スティックな意見を大胆かつ自信過剰に論じていたのだ。

ところが、香港が返還されてわずか3ヵ月後、東南アジア市場で起きた株価の大暴落を受 けて香港経済もこれに連動した形で直ちに大打撃を受けた。株価は時間を刻むごとにどん どん下がっていく。初っ端から僕が描いたシュミレーションが的を大きく外したのだ。

自分が今まで何を学んできたのか?それ以来そんな疑問を自分に問い続ける毎日だった 。そして、親父の死。皮肉にも親父は1997年7月1日、まさに香港が中国に返還された その朝に逝ってしまったのだから笑い話にもならなかった。


■ 運命は自分で切り開いていくもの

それまで僕が信じ続けてきた全てが音を立てて崩れていく。親父の死とマクロ経済が引き 起こした絶対的破壊力は重なりあって、自分ではどうしようもない運命的なものを感じざる 負えなかった。

「何故だ?何故だ?何故だ?」
答えを見つけようとしても見つからない。そのうちやけっぱちになって飲み屋街のチンピラを 相手に一戦交えた事もあった。ボロボロになって酒を飲み、全てを忘れようとしても忘れら れない。やっと眠りにつけたと思えば、親父が申し訳なさそうな顔をして枕元に出てくる日 々が延々と続いた。

「親父はもう死んだんだよ。もう俺んとこに来んでくれ!」
夢の中でそう叫び続けたものの、心の何処かではそのうちひょっこり帰って来るんじゃない かと願っていた。

「何言ってるんだ。俺は生きているよ。」
親父が夢の中でそう語りかける度に僕は何故かその言葉に納得し、僅かながらの安堵感 をそこに求めていた。しかし、それは夢の中でしか続かない幻想の世界でしかなかった。

夢から覚めればそこには必ず無味乾燥な1日が待っていた。強烈な空虚感が再び僕に襲 いかかる。一体こんな状態がいつまで続くんだろう?そんなことばかり考えながら1日が過 ぎていくのが本当に辛かった。

このままじゃいつまでたっても前に進めない。時間ばかりが刻々と過ぎていく中、僕は焦り を感じていた。そんな時にふとした事から巡り会えた言葉が僕を救ってくれた。

”ともかく具体的に動いてごらん 具体的に動けば 具体的な答が出るから”

「雨に日には・・・」でお馴染みの相田みつをさんの言葉である。それはとても分かり易く、 ストレートに僕を納得させた言葉だった。そして言うまでもなく、この言葉が僕にとって大き な一歩を踏み出すきっかけとなったのだ。

”そっかあ。具体的に動けばいいんだよなあ。でも俺の場所は一体何処にあるんだろう? 日本でないことはもう分かった。アメリカ?いや、待てよ。俺はアジアに大きな借りを作って いたんだ。そう、行くならアジアだ。まずはアジアで借りを返す。そしていつか日本に殴り込 みをかけよう。アメリカはそれからでも遅くはない。”

”自分が信じて止まなかった言葉、「運命は自分で切り開いていくもの」を今一度信じてみ よう。一度は運命で惑わされた人生なら、その運命という名のカードでプレーしてやろうじ ゃないか。上手くいかないのも人生。犠牲を払って得を取るのも人生じゃないか。例えるな らドローポーカーと一緒だ。アンティーを払って持ち札がブタでもチェンジしてフルハウスが 来れば全て善しなんだ。もしフルハウスが来なくても、ツーペアで勝てる事だってあるじゃ ないか。それでも駄目なら、ダウンして次のアンティーを払えばいい・・・。”

僕は納得しなきゃ絶対に動かないタイプだ。例えアメリカ大統領から招待状を頂いたとして も、納得しなければ世論どうこうは抜きにして丁重にアメリカ行きをお断りしただろう。ところ が、相田みつをさんのたった2行の詩で僕はそれをすんなり受け入れアジア行きを決断し てしまった。何て単純なやつだろうと言われてしまえばそれまでだが、人間そんなもんじゃ ないかと思うのだ。


■ 親父との決別

ある朝のことだ。親父がまた僕の枕元にやって来るなり煙草が吸いたいと言い出した。い つもと変わらない親父をずっと受け入れ続けてきた僕だが、この時は違った。

「親父!俺はアジアに行くからな。親父もこんなとこで道草食ってる場合じゃないだろうが !とっとと成仏しやがれ!」

後ろめたさを感じながらも力一杯に発した罵声がやっと親父の耳に届いたのだろうか。親 父は僅かに微笑を残しながらそのままスゥーっと消えていった。それ以来、親父は僕の枕 元に現れていない。

幻想の終焉はあまりにも呆気なかった。目覚めれば、そこにはいつもと変わらない部屋の 窓から透明な光が束になって差込んでいる。そのうち油蝉の鳴き声が一斉に耳の中に飛 び込んできた。暑い夏の日の始まりが僕を闇の中から連れ出した気がした。

「よ〜し、具体的に動いてみっかぁ!」
活力が漲るかのごとく久々にベッドから跳ね起きたある夏の朝の出来事だった。


■ もう一人の異端児

「僕はねえ、薫風先生と同じなんだよ。」
波照間島に着いた初日、酒の席で大叔父は泡盛を煽りながら僕にそう語った。

「華道の世界はね、言ってしまえば女性の世界なんだな。そこに飛び込んだ僕自身異端 児みたいなもんでねえ・・・。それに加えて僕の作品は日本の伝統からはみ出たものばか りだ。自分で言うのもなんだけどね・・・。」

確かに大叔父の作品はあまり日本的とは言いがたい。絵心もさながら華心さえも小指の 先に満たない僕が語るのはかなり無理があるのだが、彼の作品は何か違うのである。

勿論、生花を生けるわけだからその美しさを最大限に引き出すのには違いないのだが、そ れ以外に、今やコンクリートジャングルと化した現代社会の中にも美しく咲き誇る花々を表 現するかのごとく機械的な素材と自然の素材をふんだんに取り入れて調和を試みている かのようなのだ。初めて彼の作品を見せられた時、彼が実際にそうイメージしたかどうかは 別として僕にはそう感じられた。

大叔父は続けてこう語る。
「だから僕は薫風先生を応援してあげたいんだ。」

その言葉に偽りはなかった。その証拠に今年の12月沖縄で石井薫風画伯の作品を沖縄 で大々的に紹介する美術展を提案してきたのだ。

「同じ異端児同士の逆襲ってやつですか?」
「まっ、そんなとこだ。」
「やりましょう。僕も出来る事があるなら協力しますよ。」
「君も君の母親も典型的な異端児だからな。まっ、宜しく頼むよ。」
「ははっ、うちは親子同士で異端児って訳ですね。」

そもそも石井画伯の作品を大叔父に紹介したのは僕の母親である。自分の母親を指して 息子が言うのもなんだが、確かに異端児と呼ばれてもしょうがないほど変わってる人だ。そ んな母親の息子だから、多かれ少なかれ僕もその影響を受けているのかも知れない。自 分では全然意識していないのだが・・・。


■ エピローグ

日も暮れてきた頃、蛇三線の達人がようやく宴会の席に現れた。沖縄訛りか、それとも波 照間訛りなのか、僕には到底区別がつかなかったが、達人はとても切れのいいジョークを 交えながら席を最高に盛り上げてくれた。

蛇味線の音色は物語を語るかのように何の抵抗もなく僕の心にすぅーっと入り込んでくる。 これまで僕が歩んできた道を思い起こさせるかのように様々な出来事が浮かんでは消え ていった。そうして僕は、泡盛を注いだ杯に星々の影を映しながら一つ一つ数えては苦笑 いした。

僕の夏休みももう終わりが近づいてきている。モンゴルに帰れば、また学校との格闘が始 まるんだ。そう思うとあの波照間島で過ごした緩やかな時間はとても貴重なものに感じら れた。

この原稿を書いている今日は満月がやたら美しい。きっと今夜も波照間島のあの民宿には 蛇味線の音色が時には激しく、また時には緩やかに人々の心を隙間なく満たしているに 違いない。そう、この満月の光に照らされながら・・・。 FINE



後書:石井薫風画伯の作品が出展される美術展の詳細は以下の通りです。画伯の作品 に興味を持たれた方は是非とも足を運んでみてください。素晴らしい作品とめぐり逢えるか もしれませんよ。また、近々画伯のホームページも開設する予定です。お楽しみに!


那覇市文化協会からのご挨拶:
この度10周年記念行事にともなう基金造成と協会資金造成のため絵画部門で活躍され ている先生方を中心にあけもどろチャリティ現代美術展を開催するはこびとなりました。又 、本土在住の日本画家としては異色の画家石井薫風先生のご賛同もいただき本企画に 同時出展も予定しております。
※あけもどろ→夜明け前の赤くそまる様子


1)美術展名:あけもどろチャリティ現代美術展

2)主催団体: 那覇市文化協会

3)日にち:2000年12月5日〜12月11日

4)会場:那覇市市民ギャラリー(パレット久茂地6階)

5)入場料:無料

那覇市文化協会の所在地:那覇市泉崎1丁目1番1号
電話:098−861−1909



石井薫風画伯略歴

福岡甘木市出身 1925年4月生まれ

1943年  2月 鈴木千久馬絵画研究所入所
1948年  4月 福島豊四郎画伯門下に入る
           中央展入選60回以上・受賞23回


1986年 10月 国際芸術文化賞受賞

1987年  3月 フランス国際美術展 「冬華」「田園」入選
1987年  3月 日本選抜美術展 「初冠雪浅間」「廃船の浜」入選
1987年  4月 インターナショナル・アカデミー会員推挙
1987年  4月 第19回第三文明展 「氷壁」150号入選
1987年  6月 西ドイツ・へレンハウゼン王宮美術館国際親善美術展 「寒椿」入選

1988年  3月 フランス永久無鑑査
1988年  6月 27回大調和展 「夕べ」150号入選
1988年  6月 フランス・サージマルジス賞受賞
1988年 12月 英国ミドルス・ブロー私立美術館日本選抜美術展 「閑庭」入選
1988年 12月 ヨーロッパ・アジア国際美術賞展 「晩秋尾瀬・せせらぎ」入選
1988年 12月 ソビエト国際美術賞展 「待春」入選

1989年  7月 フランス・イギリス美術賞展 「秋庭」銀賞受賞
1989年  8月 ニューヨーク日本現代選抜美術展出品
1989年  8月 日本の自然を描く展 「凍華」入選
1989年  8月 ローマン派21回展 「黄秋」入選
1989年 12月 サロン・ド・パリ展 パリ市民賞受賞

1990年 10月 ニューヨーク日本現代作家展出品
1990年 10月 銀座朝日ギャラリー秋季特別展出品
1990年 10月 イギリス国際親善美術展パリ市長賞受賞
1990年 11月 17回近代美術協会展グランプリ大賞受賞
1990年 11月 近代日本美術協会委員推挙

1991年  2月 1991年度現代文化奨励賞受賞
1991年  2月 国際公募美展 常任理事推挙
1991年  5月 オランダ国際美術展芸術文化賞受賞
1991年  6月 フランス国際美術大賞展3位受賞
1991年  9月 英国国際美術大賞展ミドルス・ブロー市長賞受賞
1991年 11月 18回近代美術協会展 「川沿いの蔵」 マーシャル諸島大統領賞受賞


1992年  1月 フランス国際美術大賞展受賞 「春を待つ尾瀬」
1992年  2月 美展春季展受賞
1992年  6月 フランス国際美術大賞展受賞 「春を待つ尾瀬」
1992年  8月 京都美術館美展受賞 「春の竹林」 150号
1992年 11月 近美展リベリア共和国賞受賞
1992年 12月 国際親善現代日本作家展ニューヨーク展出品
1992年 12月 中国・フランス国際美術フランス展受賞
1993年  2月 福岡県甘木市市民会館緞張画製作の為出品

1995年 11月 近美展東京都知事賞受賞
1995年 12月 国際美術展フランス国立シャガール美術館 最高栄誉賞受賞

1996年  3月 フランス国際美術展スペイン展金賞受賞
1996年  6月 ドイツ王宮美術展現代作家展銀賞受賞
1996年  8月 スペイン国際美術展1位受賞
1996年 11月 パリ・アンデパンダン展現代作家日本画部銀賞受賞
1996年 12月 フランス国際美術展パリ展市民賞受賞
1996年  3月 フランス国際美術展パリ展市民賞受賞

1997年  6月 オランダ現代作家国際展1位受賞 


                                      (更新日:2000/8/29)注: 文字用の領域がありません!
toshuichi@hotmail.com