「忘却の地」

この世界から、忘れ去られた地域があるのを御存知だろうか…。
微かにその名を記憶に止める者はこう呼ぶ。

 ”忘却の地ラグール”

大陸の最も西に位置する国と言われる“オルゴン”より更に西へ行くこと三日…。
最果ての町“テレジア”の向こうに、その“忘却の地ラグール”はある。

一滴の水も無い。
植物も全く存在しない。
あらゆる生産物・資源も産み出さない。
絶望と虚無の地ラグール。

幾度と無く開拓、居住を試みた歴史も、
その一片の希望の光すら見いだせない広大な砂漠の前には挫折を繰り返すばかり。
次第にその砂と厳しい陽光の地は、人々の記憶から姿を消していった。
そして、僅かながらに記憶を止める者はこう呼ぶ。

”忘却の地ラグール”

 無限の広がりを見せるラグール砂漠。
日中は何もかもを焼き尽くすほど眩い陽光が照らし、
日が沈めば一転して身も凍るほどの冷風が吹き荒れる。
命の灯など存在出来ないかの様に見えるその砂漠の上を、点々と続く一組の足跡。
その跡を辿っていけば、一人の人物を見つけるだろう。

ありとあらゆる生命体を拒絶するかのようなこの土地に、もう三十年以上も暮らし続けている。
五体に突き刺さるように降り注ぐ陽光を少しでも遮断しようと、フードを目深に被り、有るはずもない日陰を求めて彷徨う足取りは重い。

僅かに覗く肌に浮かぶ無数の水滴。
その内の一滴がやがて首筋を伝い、足元の砂地へと吸い込まれていく。
不意に立ち止まると、その人物は慌てて跪いて汗の染み込んだ砂をその渇いた舌で舐め回した。声にならない言葉が喉を振るわす。

“水…水…”

自らの汗でも良い。
一滴の水分でも良いから口に含みたい。
例え一滴たりとも無駄にはしたくはない。
もう既に二十年以上も水を口にしていないのだから…。

おかしな話だ。
二十年間も水分を補給せずに、生き延びられる人間が居ようか…?
しかし、それだけではなかった。
その人物は一口の食物さえも摂らずに、この砂漠で三十年以上生活している。
いや、生活しているではなく、存在し続けている。

砂まみれになった口元を拭い、立ち上がるその人物のフードが脱げその顔が天日の下に露わになる。
金色に輝く髪は肩まで伸び、中性的な美しさを持つその顔立ちから一瞬女性と見間違うこともあるが、彼はれっきとした男性である。

“いっそ全て…壊れて消えてしまえばいいのに…”

カサカサに渇いてはいるが、形の整った唇が声にならない言葉を紡ぐ。
三十年もの間砂漠で暮らしていたにも関わらず、その肌は全く焼けてはいない。
しばらく空を仰いだ後、その美しい顔立ちは再びフードの陰に隠された。

“今の私ならば…悪魔にでもこの魂を売るだろう…”

あてもなく彷徨い続けた三十年間。
苦しみが呼ぶ死の恐怖は、毎晩毎夜彼を絶望の淵へと追い詰めた。
しかし本当の絶望はその後に訪れたのだ。
苦しみから逃れられる術として死を受け入れた彼が知ったのは、決して衰えることのない己の肉体。

陽光がもたらす焼ける様な熱さと咽の乾き。
夜風がもたらす身を切り裂く様な寒さ。
そんな知覚的苦痛を残すばかりで、決して死神が彼を迎え入れることはなかった。

“今の私ならば…”

幾度と無く繰り返される思考。極限がもたらす幻覚。
目の前に差し出されたコップの水を飲み干すのも、全く躊躇いはない。
例え幻覚と知っていても水は欲しい…

“…!?”

喉元を過ぎる一瞬の快感…
それが懐かしい水分の感覚だと思い出したときには、既に彼の身体に吸収されてしまった後だ。

“頼む…もう一杯で良いんだ…”

必死に目を瞑って祈ると、ひんやりとした感触が頬に触れた。
今度は一気に飲み干したりはしない。
一口ずつ…ゆっくりで良い。
全身に染み渡っていく水を感じながら、閉じていた目をゆっくりと開けてみた。
コップの水はもう底に微かに残るだけ。
一滴も残さないように、慎重に飲み干すと、初めて彼は目の前に立つ女性を直視した。
漆黒の髪が風になびき、鬱陶しそうに女性は眼を細める。

「…何者だ?お前は…。」

僅かな水分を含んだだけで、彼の身体は忽ち精気を取り戻しつつある。
忘れかけていた戦士としての本能が、背中の剣へと手を掛ける。
その様子を見て取ると、恭しく女性が頭を下げた。

「お迎えに上がりました…。貴方が目覚める時が来たのです。」

頭を上げると今度は、妖艶な微笑みを浮かべて

「私のことは…差詰め“悪魔”とでもお呼び下さい…。」


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