僕は明日も生きることになるだろう。 例え長く、何処までも平坦な道であろうとも、僕は歩き続けるしかない。 それが今の僕に出来る最大限のこと…。 道から外れる勇気も、 立ち止まっている余裕も僕にはないのだから。 倒れたところが僕の終着駅。 そして唯一この時間という流れから解放される手段だ。 僕の隣には彼がいる。 僕と彼は 生まれも、 育ちも、 価値観も何もかもが違う。 彼は海を渡ってやってきた。 僅かな収入の内の殆どを故郷に仕送りし、彼は薄汚いアパートの片隅で細々と暮らしている。 不法滞在者、それぐらいのことは僕にだって判る。 毎日遅くまで体に鞭を打って仕事をし、 何時やってくるかもしれぬ警察の退去命令を恐れながら、日々の生活を送る。 彼には自分の生活など存在しない。 ただひたすら、自分の守るべき人々のために走り続けている。 虚しくないか? 尋ねる僕に、彼はぎこちない日本語で答えてみせるのだ。 「家族、私、守る、どうしても…。」 家族、 この言葉が彼を時には支え、時には縛りつけている。 彼が海の向こうから持ってきた唯一のものが家族の写真。 数枚の内、もっとも僕の印象に残ったのは、不安げな目でファインダーを見つめる子供の顔だった。 やせ細った体、 それでも無理に微笑みを浮かべる母親に抱かれる子供の目は、まるで僕を責めているかの様にも見えた。 実際にそうかもしれないね。僕は危うく君の父親を厄介ごとに巻き込みかけたのだから…。 僕にとって、その子の視線は耐え難いほどに痛かった。 一年前の僕は、今よりも更に酷い状況にあった。 何もかもが嫌でしょうがなく、何故生きているのか判らなかった。 目的地を見失った僕は、毎日羅針盤の狂った船のようにあっちへフラフラ、こっちにフラフラしていた。 学校に通う気は毛頭無かったし、かといって働くのも嫌だった。 両親も完全に僕を見放していたし、相談相手になってくれるような友人さえも存在しなかった。 僕の周りにいたのはみんな、友人ではなくライバルだった。 答案用紙の上に刻まれる数字という名誉のために、僕達は意味もなく張り合った。 結果として、何人かはノイローゼ気味になったし、 何人かは僕のようにドロップアウトしていった。 “勝ち残った”連中はそんな僕達に冷ややかな眼差しを向け、更なる戦いの渦へと呑み込まれていく。 それが僕にとっては逆に哀れでしょうがなかった。 しかし、世間的には逆だった。 誰もが僕を憐れみ、蔑んだ。 中退を告げる僕に向かって、ある人は言った。 「君は負け犬のままで良いのか?」 つくづくうんざりだ。 僕は負けてなんかいない、捨てたんだよ。 負け犬はむしろ彼らの方だ。数字に縛られることに、何の疑問を持とうともしない彼らの方だ。 幾度と無く繰り返し、心の中で叫んだ僕の主張は、“一般的見解”という巨大でかつ理不尽な考えに押し潰されていった。 世間体、 学歴、 親不孝… 数々の“一般的解釈”が僕に浴びせられた。 何時しか心にあった僕の主張は完全に淘汰され、後には絶望という押し付けられた感情だけが残っていた。 僕は高校中退という自分にではなく、 そんな一般的解釈に絶望していたのだ。 僕が彼に会ったのは当にそんな状況下だった。 「おい、いつまで黙ってるつもりだよ!」 きっかけは些細なものだ。 行く当てもなく繁華街を歩いていた僕は、少しきょろきょろしすぎたようだ。 偶々視線が合った相手は、ここぞとばかりに因縁を付けてきた。 仲間がいる分、彼らのような人種はやたら強気になる。 一人が僕の胸ぐらを掴み、他のメンバーは僕が逃げ出さないようにさりげなく周囲を取り囲む。 人間も元々は狩猟によって生き延びてきた。本能的に、狩の心得を知っている。 僕はひたすら黙っている。 声をはりあげても、決して誰かが助けてくれるとは限らない。 基本的に、人は自分以外に無関心。 わざわざ危険な状況に進んで割っている人などいないだろう… 「こいつ…人を舐めてんのか!」 左頬が一瞬熱くなった。 頭がガンガンする。 殴ったことで、相手は興奮していた。 倒れ込んだ僕の腹を、周りの奴らと一緒に蹴り始める。 涙が出そうだが、僕はぐっと我慢した。 今は蹴られている腹に力を入れ、少しでもダメージを減らすことの方が大事だった。 「…なんだよ?」 不意に、彼らの足が止まった。 見上げると、一人の男性が僕を殴った奴の肩に手を置いて、真剣な目で彼らを見つめていた。 一言も発しない男性に、連中はやや戸惑っている。 男性はひたすら目で何かを訴えていた。 抗議していた。 謂われのない暴力に、男性は必死に反対しているのだ。 連中の一人が、やがて気が付いたように言った。 「こいつ…日本人じゃないぜ!」 「ちっ…日本語ぐらいしゃべれねえのかよ〜〜〜!」 その後、口々に彼らの吐き捨てられる言葉。 それは、僕が今まで聞いた中でも比べ物にならないほど、あまりに汚い言葉だった。 男性を蔑み、 中傷し、 傷つける発言であった。 言葉の意味を悟った男性の表情が歪むのを見て、僕は憤慨していた。 立ち上がった僕は、そいつの顔面をはり倒そうと拳を握った。 「この人に謝れ!!」 殴りつけた相手が怯んだのを見て、僕は更にパンチを繰り出そうとした。 しかし、誰かが後ろから僕を羽交い締めにした。 振り向いた僕はぎょっとした。 僕を止めているのはそいつの仲間ではなく、あの男性だった。 此処で僕はようやく理解した。 彼が嫌ったのは一方的な暴力ではなく、暴力そのものだった。 彼の名誉のために僕が取った行動は、逆に彼を傷つけることになっていた。 しかし、僕だけを抑えても事態は終わりにはならない。 完全に逆上した相手は、ポケットから光るものを取りだしていた。 他の奴らも、留め立てしようとせずに、逆に煽り立てていた。 相手はナイフを手にじりじりと迫る。 男性が僕を庇うように立つと、何を思ったか相手の方へと近付いていった。 意外な行動に、相手は暫し戸惑っていたが、他の連中の野次に押されて一気に男性に迫った。 「あっ!!」 男性は避けようともしなかった。 ナイフは右腕に突き刺さり、ぽたりと赤い滴が地面に落ちた。 男性が避けると思っていた相手も、 その取り巻き達も、 呆然と立ち竦んでいる。 傷が痛むのか、男性が小さく呻いた。 その呻き声が、連中に掛かっていた金縛りを解いたようだ。ナイフをその場に放り出し、彼らは慌てて走り去っていく。 まるで相手が逃げ出すのを待っていたかのように、男性は右腕を抑えながらしゃがみ込んだ。 僕が慌てて駆け寄ると、彼は苦しみながらこれだけを言った。 「ドクター…だめ…。」 「…医者に見せちゃ駄目って事?」 彼は微かに頷いた。 出血を少しでも抑えるために、彼は服の袖をちぎって紐を作り、上腕部を締め付けた。 その間もじわりじわりと流れ出す血を見て、僕は冷や冷やした。 傷は決して深くはないようだが、出血はなかなか止まらない。 例え直ぐに止まったとしても、医者に見せて処置を仰ぐ方が正しい。 しかし僕が幾ら説得しても、彼は決して首を縦に振らなかった。 不法就労者である彼は、病院に行くことで自分の身元が明らかになるのを恐れていた。 仕送りによって家族を支えなければいけないのだ。 国外退去を避けるには、多少の痛みくらい我慢しなければならなかった。 彼はただひたすら、医者は駄目だと言い続けた。 そうは言っても、このまま放置して置くわけにもいかず、僕が薬局で買った薬で何とか応急処置をすませておくことにした。 消毒をし、包帯を巻く僕に彼は一言だけ言った。 「ありがと…。」 僕は涙を浮かべて首を横に振った。 彼はそれに構わず続けた。日本に来てから、これだけ人に親切にされたのは初めてだと…。 僕は、そうじゃないと繰り返した。 本当にお礼を言わなければならないのは僕の方だった。 誰も助けてくれはしない、 悲観していた僕を、彼は身の危険を省みずに助けてくれた。 知り合いでもなければ、彼は僕を助ける義理など何もありはしないのに…。 負け犬と蔑まれ、誰からも見放された僕。 そんな僕でも彼は構わず助けてくれた。それが堪らなく嬉しかった。 僕も小さくだが 「ありがとう。」 と何度も繰り返し彼に伝えた。 彼はそんな僕に困ったように微笑むだけだった。 僕が働く決心をしたのは、 彼の怪我の回復が思ったよりも遅かったからだ。 決して深い傷ではなかったとはいえ、きちんとした治療を受けなかった彼の右腕の傷は、肉体労働によって何度も開き、 その度に彼は歯を食いしばって耐えねばならなかった。 彼が苦しむのも、僕を助けようという勇気ある行動に端を欲したのだ。 僕は、彼のその行動に報いるために働くことにした。 働く理由はただ一つ、 彼にのしかかる仕送りという負担を少しでも軽くするためであった。 決められたレールの上を歩くことを拒んだ僕が、初めて生きる目的を見つけた瞬間だった。 初めての給料を手にした夜、僕は彼の部屋を訪れ、仕送りの足しにしてくれと差し出した。彼は黙って首を横に振り、 「私、貰えない。あなたの、夢、これ、使う。」 自分の夢のために使え、 その言葉に僕は必死に僕の気持ちを説明した。 あの日、僕を救ったことで彼は怪我を負った。僕は何かしらの形で彼の役に立ちたい。このお金は、彼のために手にした物で、彼のために使うことが僕の“夢”なのだ。 話している内に僕は興奮し、語気も荒々しくなっていった。 彼は僕が怒っていると勘違いして、 ただひたすらごめんなさいと言い続けた。 僕は慌てて気を静め、ゆっくりと確実に自分の気持ちを伝えることに専念する。 僕の言葉をようやく理解した彼。 その頬に、一筋の涙が伝った。 「あなた、神様。ありがと…ありがと…。」 ありがとう、 その言葉に乗せられて伝わる気持ちに、僕は初めて気が付いた。 彼の言葉には、本当に感謝の意味が込められている。 儀礼的に交わす“ありがとう”じゃない。 その事が、僕の心を打った。僕は笑った。 「あなたが助けてくれた時、僕はもっと嬉しかったんです。」 彼は僕の手をしっかりと握り、ただ「ありがとう」と繰り返し言った。 僕もまた、彼に改めて「ありがとう」と感謝の意を告げた。 ただ、彼はどんなに感謝の意を告げても、お金を受け取ろうとは決してしなかった。 代わりに、彼は自分の夢を語って聞かせてくれた。 貧しい農村に暮らす彼の家族。 妻のために、 息子や娘のために、 彼は少しでも多くの仕送りを送ろうと頑張っている。 そして何時か、家族全員で食卓を囲み、ごちそうを食べながら語り合い、笑い合い、幸せな時を過ごしたい。 僕は何も言えなかった。彼は逃げもせずに戦っているのだ。 自分を取り巻く過酷な環境と。 決して意のままにはならないとは知りつつも、自分の夢のために彼は戦っているのだ。 僕は恥ずかしくなった。 やはり僕は負け犬だった。 どれだけ違うと叫んでも、結局僕は何もせずに逃げ出していた。 そんな僕でも、彼は助けてくれたのだ。下手をすれば、彼は自分の夢を棒に振っていたかもしれないと言うのに。 僕の瞼に涙が溢れた。 僕も、今の自分の気持ちを彼に伝えた。 恐らく彼は半分も理解できなかっただろう。 僕は感情的になっていたし、自分でも何を言っているのか判っていなかったのだから。 しかし、彼は僕が満足するまで、きちんと僕の話を聞いてくれた。 僕と一緒に悩み、断片的な言葉から一つの答えを導き出した。 「あなた、負け、違う。頑張る。」 それだけで充分だった。言葉の壁を越えて、親身になって考えてくれたのだから。 僕が泣き出すと、彼は優しく背中をさすってくれた。 僕はこの一年で変わった。 少なくとも、僕は生きるために働くことを始め、僕を助けてくれた彼の勇気に応えようとしている。 確かにお礼は受け取ってもらえはしなかった。 だからといって、何もしないでいるのは彼の親切を裏切ることになる。 進めば何かが見えてくる。 立ち止まるのはもう止めた。 でも、相変わらず僕には夢と呼べるものがなかった。ただひたすら、目の前にあるものに挑んでいるだけだった。 僕には、確固たる夢を持つ彼が羨ましかった。 しかし彼は、恥ずかしそうに言うのだった。 「わたし、夢、小さい。だから、頑張る。」 そんな彼の小さな夢。 それを打ち砕くかのように、遂に彼らはやってきた。 不法滞在者の一斉検挙が始まり、彼もまた警察へと連れて行かれてしまった。 アパートの片隅で彼が夢見た光景は、その実現まで遠く及ばなかった。 そして彼がいなくなったことで、僕は再び独りになった…。 泣いても、慰めてくれる人はもういない。 変わらなければならない。 何かを掴み取るために、僕は戦う必要がある。 「僕は負けない。頑張る…。」 彼のためではない。自分のために走る。 それが出来なければ、僕はもう彼に会うことは出来ないだろう。 そう、 自分の足で歩き、 自分の力で成し遂げる。 そして自分の意志で、彼に会いに行くのだ。 僕の小さく、些細な夢。それが僕の、生きる力となるだろう。 そして彼に会ったとき、心から言えるはずだ。 「これが僕の夢だ。」 その日が来るまで、僕は歩き続ける。 |