UNSWEET
美迫 かずみ
Kazumi-Misako
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●1 漆原は、帰宅して確かめたポストの中にあった郵便物の一つを見付けて呟き、がっくりと肩を落とした。 せっかく久し振りに近況を報告しようと出した葉書。思わずため息をつくが、消印の下にくっきりと捺印された朱書きの『宛先に訪ね辺りません』のハンコは吹き消せない。 それは、宛名の人物の所在が不明ということの証明だ。 宛名は泉隆明。 漆原とは演劇養成所の同期だった親友だ。 (そういえば、年賀状も駄目だったんだっけ) 季節はもう春である。年度末、新生活の始まりということで引っ越したこともあり、忙しい毎日の中でそんなことすら忘れていた。 親友と連絡が取れない。 そんなつもりはなかったのに、四年ほどだろうか。何となく連絡を取らなくなり、お互いに音信不通。 それは普段は気にも止めないくせに、こんなときに思い出したように打撃をくれる。意外に辛い。親友なら何とかして連絡を取ろうとすればいいものを仕事が忙しくてままならない自分が許せず、会いたさは募る。 (今、何処で何してるんだろう? まだ、役者やってるのかな) 会いたいのは確かだ。泉とは同じ役者を目指した者同士、道が途中で別れてしまったので気になる。 先んじて声優として仕事をするようになった自分に対し、泉は遅れて舞台役者として始動していたのだ。 (劇団を立上げるって言ってたけど、そういえば一回公演を見に行ったきり、話を聞かないな……) 最初は、声優としての仕事が増え始めた自分と同様、泉も稽古などで忙しいものと思って電話を控えた。何度か手紙を遣り取りしたものの、返事が来なくなった。携帯電話を買い変えたので番号が変わったから知らせようと思い付いてメールをしても届かない。いつの間にか泉も番号を変えていたらしい。 そこに来て漸く、すっかり隔たっていたお互いの関係に気付きはしたものの、その頃には泉の連絡先を知る術がなくなっていた。 芝居を辞めてしまったとは考えたくない。養成所の同期の中で、あれ程気が合った仲間はいなかったし、彼の芝居にかける情熱は、その眩しい表情と共に今もありありと脳裏に浮かぶ。そんな笑顔をもう一度見たい。 そして、会いたい理由はもう一つ。 そんな物思いに耽る漆原を、携帯電話の着信が現実に引き戻した。 「はい、漆原…… あ、関口さん、お疲れ様です」 相手は漆原の先輩にあたる、声優として中堅の位置にある関口だった。マンション内は電波が届かない場合があるので、路肩に寄って会話する。 『悪いね、もう帰るところだろ?』 「ええ、まあ…」 もう家に着きますとは言えずに、あいた左手でピアスをいじる。 『そうだよな。けど、ちょっと急ぎだったもんだから。佐藤さんがね、今日の会議で一度保留になったきみの企画、あれから手を加えて一部採用になったんだって』 「本当ですか。ありがとうございます」 『俺も出るんだけど、新人も入れるらしいよ』 プロデューサーの佐藤からの伝言ということで、関口は打ち合わせの日取りを決めるための折り返し連絡の要求を伝え、それとは別に飲みに行こうと誘ってくる。 『新人との顔合せも兼ねてるからね、何か佐藤さんが知ってるちょっと面白い店に行ってみないかって言ってた。どう?』 「はい、構いませんよ。俺あんまり飲めませんけど……」 『じゃあ、佐藤さんに連絡しといて』 そんなこんなで数分寒空の下で話し込み、その間中握り締めていた泉への葉書は汗で皺だらけになっていた。 時間が空けば泉の転居先を調べるつもりでいたのに、また連絡する機会を失いそうだった。 (会いたいよ、泉くん。俺はすっかり声優の仕事から離れてしまった。きみはまだ、役者を続けてるんだろうか。いや、続けてて欲しい。理想とは違う道を進んでる俺みたいじゃなく、目指した道を進んでる、そんなきみに会いたいよ……) 自分の分も夢を抱いて生きている、そんな姿を確かめて励みにしたかったのかもしれない。 きっと、無性に会いたくなったのはそんな理由からだろう。 もう一つ、何かあるような気がするけれど。 取り敢えず、それを考えるのは中断して、まず泉と連絡をつける方法を模索すること、そしてそれに割く時間をいかにして作るかを考えることにして、漆原は漸く自宅のあるマンションに入った。 仕事場も兼ねた、かといって殺風景にならないように好きなミュージシャンのポスターやちょっとしたオブジェなどで飾った部屋。簡単な夕食を作る前に上着とバッグを置き、携帯電話を充電器に立ててから冷蔵庫から烏龍茶を出して飲む。 入浴は食後にしようと思う。 (明日は朝から事務所で別件の打ち合わせと、午後から久々にナレーションの収録か……) 一日の仕事が終われば考えるのは次の仕事。 しばらく忙しい日々が続く。 飲みかけの烏龍茶の缶を片手に、佐藤に連絡するべく今度は家の電話を手に取った。 抑揚の無い声を発して、『MEN’S CLUB ROX』とネオンサインが掲げられた黒いドアを開くと既に出勤していた何人かから同じ挨拶が返される。 繁華街の奥まった路地の突き当たり。 日常から切り離された、まるで人目を忍ぶように建てられたその店構えはどこか背徳的な匂い。言ってみれば隠れ家のようだった。 知る人ぞ知る、といった感じのそんな店は、本来なら自分には無縁のはずだった。 時間は、午後五時。 この業界ではこれからが仕事始め、書き入れ時。だからこそ昼夜を問わずこの挨拶なのだが、皮肉にもそれは彼が離れざるを得なくなった世界と同じ慣習で、忘れていなければ辛すぎるというのに、毎日口にする度に思い出され、忘れ難くなっていく。 沸き上がる憂鬱な感情に支配されないうちに、と照明を落とした店内を奥へと進む。 「よう、流也。ギリギリだぞ」 と、洗面所から出てきた濃紫紺のスーツ姿の男が声をかけてくる。 「……大紀さん」 「入店したらリョウ、だ。何度言わせる」 厳しい口調ながら、怒っているふうではない。けじめをつけさせるというつもりで、彼は先輩としてそれを態度で示してくる。 何かと気にかけてくれる相手だった。 「……すいません」 「お前のタイムカード押しといたからな」 リョウの気配りに再度「すいません」を繰り返して更衣室に入る。 といっても、制服があるわけではない。イネドオムのシンプルなグレーのジャケットにそれより濃い色のデザインシャツ、黒のパンツはPPFMという出で立ちで、ラフではあるが小綺麗に決めてきていた。スーツで来ることもあるが、自分にはかしこまった印象になってしまうのであまり似合わない気がして滅多に選ばない。 薄っぺらいバッグ−−これもイネドオム−−をロッカーに放り込む。 ロッカーの扉の内側にはめられた小さな鏡を覗き込み、ブラシで暗赤色のカラーリングをした髪を手早く整え、棚に置いてあったトワレを項と手首につけて乱暴に扉を閉めると、背後でライターを擦る音。振り向くとリョウが銜え煙草でこっちを見ていた。 「お前さ、いつも何入れてんの、それ」 今ロッカーに入れたバッグを指しているようだ。 「……何って…」 「煙草も財布も、ハンカチとかもポケットに入るだろ。他に何持ってんのかなって思ってさ」 「……そこらで買った雑誌とか手帳とかね。ほら、俺って客の顔と名前は覚えても、何話したとかいちいち覚えてられないから。アンチョコですよ。あと、店出てる間はケータイも突っ込んどくし」 ちょっと間を置いてそう答えると、リョウはため息と共に紫煙を吐き出して聞き返してくる。 「お前、俺のこと嫌い?」 何か気に障ったかと思ってどぎまぎと否定する。 「……いえ、そんなこと」 「いや、そうだよな。お前は誰に対してもそうだって判ってるんだけどな。何て言うか、どっか本当のこと隠してるっていうか、そつなく受け答えしてるなって感じがするんだよ。そのくせ店に出ればそれなりに愛想いいし、人当たりも評判も悪くないし」 「……そうですか?」 「そうだよ。普段はほとんど笑わないしな。けど、まぁホストらしくなってきたよ」 そう指摘され、零れた苦笑は笑顔のうちに入らない。 「あとは、もう少し服装とかアクセサリーとか考えればもっとイイ線いくのになぁ。これ、また昨日と同じのだろ」 「あ……」 リョウは流也の左耳に手を伸ばして、銀色の鈍い光を反射するリング状のピアスを指先で弾いた。さすがによく見ている。 別に悪いことをしたわけではなかったのだが、手抜きを指摘されてばつが悪くなった。 そういえばリョウは同じ服はもちろん、アクセサリーも同じものは続けて着用して来たりはしない。貰い物の腕時計もブレスレットも、客に合わせてきちんと変えていた。自分も心がけようとしていて中々実践出来ないことだ。 「少し話戻すけど、ここにいる連中はみんな訳アリでここで働くことにしたんだろうけど、他の奴らとは何か違う感じがするんだよ、お前。同僚にも誰にも心を開いてないっていうか、そんなところが放っておけないっていうか。……あ、でも別に惚れたわけじゃないから安心しろ」 少しおどけてみせて、リョウは狭い更衣室の片隅に置いてあった灰皿に灰を落とし、話題を変えてきた。 「そうそう。この間の新人、マサキな、今日から指名あったらVIPルーム入れるから」 VIPルーム。洒落た呼び名がつけられてはいるが、その実態は、客が気に入りのホストと過ごす密室だ。ラブホテルのようにシャワー室が付いているものから狭い応接室みたいなものまで幾つかランクがあり、料金も勿論違い、使用時間によっても違う為細かいが判りやすい料金設定になっている。 「……早くないですか?」 「入店のときに説明済。それにそのつもりが無かったら、はなっからこんなとこで働こうなんて思わないだろ」 きっぱりと言い切られた。 この店でキャリアを積んできたリョウは店長に次ぐマネージャーのポストにあり、ある程度の人事にも携わっていた。そのリョウの指示なら、これ以上口出しは出来ない。 リョウは煙草を消して出入り口に向かいつつ宣言しなおす。 「毎日出勤してるんじゃないにしろ、もう一カ月は経ってるからな、客にも徐々に覚えられてきてる。慣れただろうしあいつも心得てるだろうから、そろそろやらせようと思ってな。本人には既に伝えてあるから」 わかりました、と返事をしてシフト表を確認してみる。 マサキ。後ろに丸括弧して『近藤正男』とある。 「語呂は近藤真彦とか近藤正臣みたいだけど平凡な名前でしょう? 俺それが嫌なんですよね、親には悪いけど。この際だから全然違う名前がいいな。流也さん、何かカッコイイ名前付けて下さいよ」 そんなことを言って、何故か自分になついてきた。 それで、特にひねったものが思い付かずに結局本名をもじっただけの源氏名を付けてやっただけなのに、意外に気に入ったようで、無邪気に喜んでいたものだ。それこそ、こういう店で働くタイプには見えないような感じで。 (俺も、あんなふうに笑えてた頃ってあったんだろうなぁ……) ぼんやりと考えながら、更衣室を出る。 「わっ」 ちょうど出勤してきた同僚、もとい後輩とぶつかった。その刹那甘い香りがふわりと鼻孔をくすぐり、銘柄までは判らないがその香りから相手の顔を見る前に誰だか思い当たる。 (……確か、これは) 「あっ、おはようございます! すいません」 案の定、元気良く挨拶してきたその相手は、マサキだった。 「……おう」 ぶつかったことを謝るタイミングを失って、ぺこりと会釈して上着を置きに室内に駆け込むマサキを見送る。 マサキは肩までのばした黒髪を慌てて手櫛で撫で付けて、ついさっき自分がしたようにコロンをつけ直したりしている。 まだスーツを着こなせる年齢ではないため、マサキも流也と似た系統のダークカラーのあまりラフになり過ぎていないカジュアル風な出で立ちだった。 (この間どっかの店のウインドゥで見たのと似てるな。ディアーズかな、PPFMかな) 流也はそのとき言おうかと思った言葉も飲み込んで、取り敢えずフロアに向かった。 既にテーブルや椅子が整えられ、ドリンクや簡単な料理を出すバーテンやホスト達もスタンバイしている。 「流也、ちょっと時間押したし特に指示事項も無いから朝礼抜きにする。看板、明り入れて」 今日は休みの店長に代わって指図するリョウに言われ、流也は簡潔に「はい」とだけ答えて入り口に向かった。 すると、待ちわびた客が二、三人ドアの外に待っており、彼らを迎える形になる。 「……あ、いらっしゃいませ、佐藤様。今日はお連れの方もお見えなんですか」 営業スマイルで応対すると、佐藤はにこやかに連れの男−−佐藤と同年代だろうか−−を紹介した。 「や、流也くん。彼は別だけど、こっちは僕と同じ業界人だよ。平内くん。一見さんだけどね、僕の紹介ならOKでしょ」 佐藤の隣の男に視線を移し、平内という名前と併せてしっかり記憶し会釈すると、こういうところは初めてなのか、どこか落ち着かない様子で照れ笑いを浮かべている。 「勿論ですよ。『ロックス』へようこそ。さあ、どうぞ」 馴染みの客と新規の客の来訪を喜ぶホストの仮面を完璧に身に付けて店内へ案内する。 もう一人のサラリーマン風の男も、人目を避けるようにさっさと店内へ入り込んでいた。見覚えがあるその男は、確かリョウ目当ての客だったと思い出された。 ジャズ風のBGMが流れる薄暗い店内から、盛んに「いらっしゃいませ」の声がかかる。いずれも男の声ばかり。 「佐藤様、お久し振りですね。お飲物はいつものでよろしいですか?」 奥まったテーブル席に腰を降ろす佐藤と連れの男におしぼりを差し出しながらにこやかに世間話に入り、合間にオーダーを聞くのも、慣れた行動だった。 「そうだねぇ。ここんとこ忙しかったから。あ、僕はいつものね」 「平内様は?」 「あ…… 俺は、ビールで」 「かしこまりました。また新しい企画でも?」 「うん、そう。彼はミキサーでさ」 「へえ、じゃレコーディングのスケジュールも決まっているんですか」 「まぁね。ゲームがもとのドラマ製作なんだよ。次に来るときはその声優とかも連れてくる予定だからよろしくね」 「新しいお客様は大歓迎ですよ。佐藤様の紹介なら信用のおける方々でしょうし」 「流也くんは話が判るから嬉しいねぇ。スムーズに打ち合わせが進む感じだよ」 恐れ入ります、と微笑んでオーダーを通しに一度席を離れる。 あれ以上話し込むと、彼の仕事である企画制作の現場にどうして詳しいのか突っ込まれそうだったので、タイミングを見計らってうまく逃げたのだ。実際、そんなことは何度かあったが、その度何とかかわしてきた。 (お得意様だけど、プライベートに踏み込まれるのは勘弁だからな……) こっそりとため息をついて、さっきのサラリーマン風の男とリョウが早々にVIPルームに消えていくのを横目で見る。 男の手はリョウの腰にしっかり回されていて、判ってはいても再びため息を誘った。 企画。レコーディング。ドラマ。そして声優。 佐藤はここ一年ばかり自分を贔屓にしてくれる客の一人だったが、話していると彼の職業上、遠ざかりたい単語が幾度も幾つも胸を刺した。それでも平静を保っていられるのは、自分が『流也』であるからだった。 素顔を隠して振舞うのもそれ程苦にならない。 この虚構の世界でなら。 (俺は俺であって俺じゃない。『流也』と呼ばれる俺が、『俺』だ) 皮肉にも、この生活を始めてから決別せざるを得なかった世界を味わっていた。 それはつまり、『流也』を演じるということ。 公私は分けているつもりだった。けれど『流也』というホストを演じることが今の自分の全て。 誰に対しても心を開いていない。リョウのそんな指摘は実に的を射ていた。 普段は笑わなくなったというのも判る気がする。公私の『私』の部分では、自分はすっかり抜け殻同然なのだから。 「流也さん、どうしました?」 見れば、声をかけてきたのはマサキだった。カウンターでいつの間にかぼんやりしていた流也は、はっと我に返ってこちらの顔を覗き込んでくるマサキを見た。 彼はまだ指名を受けていないのか、ドリンクのオーダーを通して運ぶ役についているようだった。 今日は珍しく客が早く集まっており、流也がちょっと佐藤らの相手をしているうちに席はまばらに埋まってきていた。 「大丈夫ですか?」 「ああ。ちょっと寝不足なだけだ」 「俺もです」 そう言って微笑みながらぺろりと舌を出す。 マサキはドリンクが出来上がるのを待つ短い時間を利用して前夜の休みを利用して友人達と遊んでいたことを手短に話し始めた。 客達のざわざとした話し声やBGMが意外にうるさいので、話を聞きながら頷く流也と自然と顔を寄せて囁き合う感じになる。 そんな私語は普通ならとがめられるが、ここでは別だ。BGMに紛れて囁き合う仕種は、客を見ないでする分にはどこか秘密めいていて客の好奇心をくすぐり、注目させる効果がある。その時間を利用して品定めする客もいる。それも手管のうち。駆け引きなのだ。「お前、今日からVIPルームだって?」 マサキに耳打ちする。 「ええ。指名があればですけどね」 「大丈夫だな?」 「ノープロブレムです」 淀みの無い返事に笑みを返すと、マサキも照れたようなくすぐったそうな笑みを零して長髪をかき上げてみせた。 そして短い会話を終えて、それぞれの客のもとへ。出されたドリンクを手に踵を返してみると、別のホストがちょうどお通しのナッツ類を盛った皿を出したところだった。 「お待たせしました、佐藤様、平内様。お仕事の成功を祈って乾杯しましょう」 白々しい社交辞令を述べつつ親しさを表わすように二人の間に腰を降ろす。そうして空騒ぎを煽り、時折媚びを売りながら適当にやっていれば時間は過ぎていく。 「そういえば、お食事はお済みなんですか?」 まだなら簡単な食事を、と気を利かせてみると、不意に佐藤は懐をさぐって携帯電話を取り出し、「ちょっと待って」と手で示し応答した。 「はい、もしもし…… ああ、どうも。……うん、うん……あ、聞いた? うん、そう……あ、悪いね、今ちょっと出先でさ。いや、大丈夫だよ」 仕事の電話らしい。 佐藤は、喧噪の中で声を高めて話すのが苦になったらしく、詫びる仕種をして素早く席を立ち、一端店の外へ出ていった。 「何か召し上がりますか? 軽食程度ならここでもお出し出来ますよ」 「あ、そうだね。何があるのかな」 「メニューをどうぞ。俺は、このスモークサーモンのサンドイッチが結構好きなんですよ」 取り残されてまだ所在なさげな平内に気軽に話しかけて場をつなぐ。 やがてすぐに戻ってきた佐藤も交え、食べて飲み、世間話や真面目な話で巧みに相手を楽しませていくうちに打ち解けてきた。 佐藤は当然のように流也にも水割りを振る舞い、流也もそれを有り難く受けた。時折ビールや水割りの氷や水を追加してもらい、自分は控えて二人がより多く飲むように促す。 酒が進めば緊張していた平内も佐藤につられて饒舌になり、流也の膝に手を置いたり肩を抱き寄せたりしてくる始末で、慣れたこととはいえ流也は心の中で失笑していた。 そうやって客の奢りでオーダーされた水割りを流し込み、空虚な微笑を振舞うと、佐藤が煙草を指に挟みながら冷やかしてくる。 「駄目だよ、平内ちゃん。流也の馴染みは俺なんだから」 酔って気分が良くなってきたのか、同僚を「ちゃん」付けで呼び、こっちのことは呼び捨てている。 恐縮したふりで佐藤の煙草にライターを近付ける。 「これ、似合うね。プレゼント?」 佐藤は何気ない、だが慣れた手つきで不意に流也の左耳のピアスに触れてきた。 「いえ、これは自分で。プレゼントなら佐藤様から貰ったこれが」 たまたましていた腕時計を示し、流也は胸を撫で下ろしたい気分だった。 「お、嬉しいねぇ。使ってくれてるんだ」 「勿論」 (これで別な客からの貰い物なんてしてたらヒンシュクものだったぜ) 細かい点数稼ぎだ。 何気ない一場面。だが、平内の唐突な言葉が鋭く胸を突いた。 「でもさ、流也くんて結構いい声してるよね」 「だろー? 平内ちゃんもそう思う?」 自分のことのように嬉しそうに相槌をうつ佐藤と笑い合う平内に「恐れ入ります」と返す。 そうして今度は二人でこちらをちらちら見ながら密談を始める頃には、VIPルームに入りっぱなしだったリョウが客を送りながら出てくるぐらい時間が経過していた。 服の乱れは整えているものの、さっきはきっちりかけられていたボタンが鎖骨が見えるくらい外されたままで、何となく行為の余韻が漂っているように見える。 だが、表情は少しも乱れた感じを見せておらず、当然疲れも感じさせない毅然とした姿勢で、流也は素直に大した人だと思う。 自分ならきっと、もっと疲れていて不機嫌そうな態度を隠せないだろう。リョウにも指摘されたことがあるが、流也は本当は機嫌の善し悪しが顔に出てしまうので、隠し事が出来ないのだ。もしかしたら、こういう客商売は向かないかもしれないが選り好みをしていられない状況なので仕方なくやっているのだ。 「ねえ。VIPルーム、空きある?」 知らずリョウの様子を見守りながら関係の無い考え事を頭の中で発展させていた流也は、不意に佐藤に耳打ちされていつになくどきりとした。 「えっ……ええ」 ふと、もう一人を見ると平内も煙草をふかしながら知らんぷりだ。照れ隠しなのが一発で判る。 「あ、じゃあ平内様には俺の後輩を紹介しましょうか。ルーキーですけど」 全く見知らぬ相手より平内をマサキに任せよう、と瞬時に思いついたのだが。 「じゃあさ、いい?」 その返事より早く、佐藤が右手で「三」と示してくる。 (そう来たか……) その意味は。 「いいですよ」 努めて笑顔で、流也は答えた。 (三人で、か) 特に感慨も何もなく、胸中で呟く。 振り向き、指を鳴らして別なホストにアイコンタクトを取り、空部屋を確認する。そして二人を伴って席を立つと、いつの間にか指名されていたのか別のテーブルに居たマサキと目が合った。「お先に」とおどけて目配せしてからニヤリと不敵に笑ってみせ、まばたきするのと同時に目を逸らす。 背後では後ろからついてくる二人が、本人を目の前にしているというのに盛んに噂していた。 「普段話してるときの表情とか声もいいんだけど、それにも増してねー……」 「そういうもんですか。でも、ここまで来て何ですけど、男ですしねぇ……」 「そう思うでしょ。でもね、ハマるよ、流也は。何て言うか……」 そのまま聞こえないふりで店の奥、ホテルのような小部屋の並んだ、通称『VIPルーム』へと歩を進める。 何度となく通った廊下は、もう麻痺しているが奇妙な感覚を覚えさせる。もちろん実際に経験したことなど無いが。 きっと、近いに違いない。 理由もなく、漠然と思う。 自分自身を売り物に、嫌なことも無理矢理に忘れて、嫌悪も快楽にすり替える、日常とかけ離れたここでの常識。暗黙の了解。 (まるで、死刑執行に向かう囚人の気分だ……) そうやって、自分を殺しながら生きている。 そんな毎日が流也の生活だった。
いずれにせよ、スケジュールは過密気味で。 「休みが無い!」 漆原は思わず独言を漏らした。 引っ越しとそれに伴う荷物整理と並行しての仕事が続いた上旬はとっくに過ぎて、気が付けば中旬を通り越してもう下旬である。 急に暖かくなってきたのでこの数日で桜も満開になる勢いで、次の休みにはもう散り始めているのではないかと懸念されるくらいだ。 「また今年も花見にも行けないね。俺は去年はスタッフと行ったけど」 関口に紙コップに入ったコーヒーを差し出されて、ここがまだ事務所のロビーだったことを思い出す。 「別に花見はいいんですけどね。まるまる二週間オフが無いってのは……」 「企画だけに専念出来ればいいんだろうけど、そう簡単に一本に絞れないよな。まだ声の仕事残ってるんだろ?」 「ええ」 漆原はブラックのまま熱いコーヒーを一口、手帳を閉じてバッグにしまう。その中には企画書や資料と一緒に、脇役で出るアニメの台本も入っていて。 「とっかかりが声優でしたから、二足の草鞋になっちゃってて…… ちょっと今キツイです」 先輩の前で思わず本音が出た。 「どっちの仕事も好きだからやりたいんですけど、欲張ると自分の首締めることになっちゃいますからね。昨日はゲスト出演のラジオの収録で、一昨日が資料整理と今度の企画の打ち合わせと新人声優との顔合せで、その前がまた別件の打ち合わせとナレの仕事で……」 「今日はその打ち合わせの続き。ま、これから飲み会だからせめて楽しく……つっても、付き合いで行くんだから仕事みたいなもんか」 関口は苦笑して腕時計を見た。 「佐藤さんね、もう少し時間かかるかもよ。レコード会社の人との面会が入ってるから」「らしいですね」 それは今度の自分が係わる仕事とは別なはずだ。プロデューサーである佐藤は幾つもドラマやCDを手がけていて漆原より忙しいはずだった。それでも、日々のスケジュールは勿論、手がけている企画の進行状況やCDの発売日を全て頭に入れてしまっているのだからさすがである。 俺は何をしている。 俺はそういう人間になりたいのか。 頭の中でひとつの細胞が生まれて少しずつ分裂していくように、ひとつの発想にいくつかの外界からの刺激と自分自身の栄養とを分け与えて育てていき形にする。 そんな作業は子供のころに学習雑誌の付録についていた生物の育成を進めるみたいでわくわくするし楽しいが、常に気を配っていなければならない煩わしさと、他人に採点評価される苦さを伴っている。 それは自分自身の技術そのものを売り物にする声優の仕事でも同じだったけれど。 好きで選んだ仕事のはずだった。 本当にそうだっただろうか。 選んだ目的地を進むのにちょっと通行手形を示しただけのつもりだったのに、それによって許可された道はそことは違う場所に続いていたようだった。 その道を進ませたのは誰だ。 その道を選んだのは誰だ。 (後者は俺であり、前者は……) 「おい、漆原くん。どうしたの」 肩を軽く揺すられて、自分が呆然と考え込んでいたことに気付く。 「疲れてるみたいだね」 関口は心配そうにこちらを見ていた。 後輩というより、同僚を気遣う目だ。 「あ、いえ。何でも」 陳腐な決まり文句を吐いて、漆原は意識を覚醒させるつもりでコーヒーを飲んだ。 何を話していたんだっけ。 コーヒーを飲んでいる間に思い出して話を戻す。 「休みが無いってことはやりたいことが出来ないってことですからね」 「何かやりたいことあんの」 「ええ。人捜しを」 「人捜しぃ?」 唐突な返事に、関口は大袈裟な声を上げた。 「知らなかった。漆原くんは生き別れの兄弟でも探していたのか」 「いえいえ」 真顔で冗談を言う関口に、思わず笑いながら事情を説明することになる。 「音信不通になった親友を…… そう、友人を探しているというか、連絡を取りたくて」 何となく、友人と言い直して寂しくなった。 「そうか。学生時代の?」 「いえ、養成所時代の」 「何て名前? …あ、でもきみと同期かその前後だろ? 俺と世代が合わないから判らないか」 関口が年かさなのをきっぱり肯定するのもはばかられ、彼の言うことも当たっているので漆原は苦笑してみせた。そして一応、泉の名前を教えておく。 「養成所出てからは何してるの? デビューは? その辺はどうなの?」 「劇団を立上げたんですけど、今は……」 「業界にいるんならまだ手がかりもあるんだけどな。一応、覚えとくよ」 関口が協力を申し出てくれたとき。 廊下の向こうから挨拶が聞こえた。 佐藤に伴われた、新人の声優だった。 一昨日の打ち合わせで紹介されたが、顔は覚えていても名前が思い出せなかった。 当然若く、どこか危なっかしい。昔の自分を見ているようだった。 それでいて演じる仕事に熱意を持っていることが察せられる生気に溢れたオーラのようなものを発散させている。 「待たせたね。さあ行こうか」 佐藤は他に数人の声優とスタッフが遅れてくることを告げつつ、関口と漆原も引率して移動を開始した。 (前者は、あなただ) 漆原は、さっきの妄想の締め括りを、時間差で心の中で行なった。 (俺はあなたを尊敬している。でも一方で恨んでいるかもしれない) 逆恨み。 言いがかり。 そんな言葉も浮かんで消えた。 自分で選んだつもりでいた道が、途中で他人に敷かれたレールに繋がり、そこを唯々諾々と進んでいるがごとき曖昧な自分。 泉を探すことに関してもそうだが、本当にやりたいことがあるならそれを目指すよう状況を修正する努力をすればいいものを。 (こんなはずじゃなかった……)
(掃いて捨てる程いるさ、そんな奴) 俺はそんな奴の見本みたいだ。 お前らだけじゃねえんだよ。 「何してる。氷の彫像でも作るつもりか」 やめろ、とアイスピックを握り締めていた手を掴まれて流也は半眼でリョウを見返した。今日はスーツが似合うリョウらしく、黒っぽいビサルノのスーツだ。 「機嫌悪そうだな。気に入らない客でもいたか」 「いいえ。別に珍しくもないですけどね、客に愚痴を聞かされるなんて」 それが気に食わないのではない。 そういうくだらない話を聞かされたことによって考えなくてもいいことを思い出させられて憂鬱にさせられたことが不愉快だった。 お陰で八つ当たりされた氷塊は、リョウが冗談で指摘したように不恰好な掘りかけの仏像だか何だかみたいになっていた。 「氷の追加ならバーテンに頼めよ。今、どっかテーブル就いてるのか」 「いえ。さっきの客は帰りましたから」 「んじゃ、一服して来い」 リョウは、幾つかのシルバーの指輪で飾られた流也の指からアイスピックを取り上げ、そう告げた。ぽんぽんと背中を叩かれた流也は、素直にそれに従ってフロアから抜け出した。 更衣室でもよかったのだが、外の空気を吸いたくて煙草をくわえながら裏口から薄汚れた路地に出ることにする。 暮れているだけではない、どんよりと鈍色の空。 濁った空気。 じめじめとした湿り気を帯びた、自分の心がしみ出したような。 別世界のような表通りの雑踏の気配は毎日の生活を営む人々の足音や喧噪が混ざり合い、その足音はリズムを刻んでいる軽快さというよりは軍隊の行進のように重苦しく聞こえた。 キン、と銀色のジッポーの蓋を指先で弾いて火をつける。 じりりと焦げていく煙草の先を見詰めると、まるでやりたいことも出来ずにもがきながら夢を飼い殺しにして汚泥にまみれ、情熱を燻らせながら身を削るようにしている自分のようで、煙を吸い込んだ胸の奥が苦しくなった。軽い目眩と頭痛とが襲ってくる。 そういえば、夕方まで眠り込んでいたせいでまともな食事の時間を作れずにいた。 空腹に酒の肴ばかりをつまむだけでアルコールを流し込み続けていたせいもあって、酔いは覚めていたのだが頭が朦朧として気分が悪かった。 何度か煙を吸い、吐き出し、汚れた空気を一層汚していく。 あっという間に一本吸い終わり、二本目はゆっくりと灰にした。 一人になると色々と暗い思考が湧いてくるかと思いきや、何も考えられなかった。 俺は何をしているんだっけ。 毎晩のように酒をくらって男に媚びを売って。 本当にやりたいことはこれっぽっちも出来ずに。 流也は左手で前髪をかき上げ、その刹那視界に入った腕時計を眺めた。 買った覚えの無い時計。昨日していたのとは違う。 俺は何でこんなものをしている? そうだ。貰いものだったんだ。 自分で買った覚えが無いのも当然だ。 贈り主は佐藤だ。 (そういえば) 今日、わざわざこれを選んできたのには訳があった。 (確か今日来るって電話あったんだよな) ぼんやりと、昨夜佐藤からわざわざ電話連絡があったのを思い返す。 「流也。どこだ?」 扉の向こうから微かに自分を呼ぶリョウの声が聞こえてきた。 「はい」 フィルターまで火種が浸食した煙草を黒革のショートブーツで踏み消して「ここです」と返事をする。 裏口の扉を開けてリョウが顔を出した。 「悪いが休憩早めに切り上げてくれ。お前の客が来てる。連れが多いんでマサキと俺で場を繋いでるから」 「今行きます」 流也は店内に戻る途中で更衣室に滑り込み、取り敢えず煙草の匂いを消すためにトワレをつけ直した。 ふと、いつも携帯しているバッグを手に取った。以前リョウに「何が入ってるんだ」と尋ねられたことのある、その中身。ふと、無意識にそれを開けて手を突っ込んだ。 リョウに言い訳した通りの手帳やペン、雑誌、携帯電話。その他に、あのときリョウには言わなかった物がもう一つ。雑誌と同じくらいのサイズのそれは、古びたノートのようなものだった。 正しくは、忘れもしない最初の舞台の台本。 もう必要のなくなったものを、後生大事に持ち歩いている。 未練だ。それは判っている。 そんなものはずっとこの胸の内にある。それをわざわざ自分に言い聞かせるような、それでもその道には戻れないことを思い知らされる象徴のようなもの。 ふっと笑ってすぐにそれを元通りバッグに突っ込み、壁に寄りかかっていたせいで砂埃のついた黒革のベストや同色のゲーリーズのパンツをはたいて服装をチェックする。 姿見に映る、黒ずくめの姿。 そう、これが今の俺の姿。公民館のような小さな舞台に私服を流用した安物のTシャツとジーパンを衣装に立っていた頃と違って、そこそこのブランド物の服を着てアクセサリーも以前より多用するようになった。今日も気に入りの銀細工の細身の指輪や天然石のはまったごつい指輪をはめている。幾つかは客からの貰いもの。 店内は暖かいのでわざと素肌に着たベストの胸元を適当にはだけ、プラチナのネックレスをのぞかせる。これは自分で買った物だ。 (いざ、出陣。…ってか) 皮肉げな笑みを鏡の中の自分に投げ、更衣室の扉を開けた。 途端に、客達の喧噪がBGMに乗ってどっと押し寄せてくる。 カウンターの脇を通ってフロアを見渡すと、壁ぎわの席に陣取った一グループの中に佐藤とマサキを見付けて歩み寄った。 他に、こちらに背を向けた格好の数人。 「流也さん、こっちです。早く早く」 マサキがこちらに気付く。 「佐藤様、お待ち兼ねの流也さんですよ」 佐藤も嬉しそうにグラスを上げて流也を呼ぶ。 「待ってたよ。姿が見えないからどうしたのかと思っちゃった」 「すみません。休憩中で」 愛想良く会釈しながら他の見知らぬ顔を確認しようとしたとき。 「流也、そっち座れ」 リョウが佐藤の隣を示す。 「はい。失礼します」 マサキと入れ代わりにそこに移動しようと同席者から視線を逸らす。 その刹那。 「泉くん……?!」 耳に飛び込んできた思わぬ名前。 ぎくり、と動きが止まる。 何故、ここでその名を呼ばれるのか。まさか客の中に自分の本名を知っている人間がいるなんて。 一切の音が聞こえなくなった錯覚。 不思議と、その場にいた誰がその名を呼んだのか判った。 吸い寄せられるように自然とそちらを向く視線。 目が合った。 「充ちゃん……!」 自制がきかなかった。 思わず相手の名を呟いてしまう。 不意に襲ってくる目眩。 急激に早くなる鼓動。 知らず、身体がぐらついてテーブルに脚がぶつかり、がちゃん、とその上のグラスが音をたてる。 それは『流也』の仮面が崩れ落ちた音。 驚愕に見開かれた双眸のその男は、必死に息継ぎするみたいにもう一度口を開いた。 「泉くんだよね……? 嘘…… どうして……」 唖然として立ち上がり、こちらを凝視したまま。 白っぽいTシャツにオリーブグリーンのパーカーを重ね着し、アイボリーのチノパンか何かをはいているらしい、その昔と変わらないラフで洒落た着こなしのその男は、ひたすら信じられない、訳が判らないといった表情で。 どうして。 (こっちが聞きてぇよ……) どうして今日、よりによってここで、このタイミングで会わなければならなかったのか。 押し寄せてくる、後ろめたさと慚愧の念。 「あれ、何? 漆原くん、流也と知り合い?」 場違いなまでに呑気な佐藤の台詞が二人を現実に引き戻した。 「あ、じゃあ流也さんは漆原様の隣で」 呆気に取られていたマサキが慌てた様子で場を取り繕おうとする。 「流也、何を突っ立ったままでいるんだ。気分悪いのか」 リョウもおかしな雰囲気を察していたのだろうが、何とかごまかそうとしてくれている。 だけど。 動けない。一歩も。 動かせない。視線が。 自分を「泉くん」と呼んだその男から。 漆原充から。 それはひどくみっともない光景だっただろう。 そして恐らく自分はひどく情けない顔をしているだろう。 「何だよ。流也に一目惚れでもした?」 「どうしたの、漆原くん。まさか…… 探してた友達?」 同席者達の話し声が遠く聞こえる。 「すみません、皆様。場を白けさせました」 リョウがすかさず立ち上がってにこやかに告げた。 「流也」 まずいと思ったのだろう。 さりげなく奥へ引っ込ませようと歩み寄ってくる。 肩に手を添えられて、我に返る。 縋り付くようにリョウを見る。それでようやく漆原から目を逸らすことが出来た。 されるがままにそちらへ行こうとしたが。 突如立ち上がり、間に割り込んだ漆原がリョウから奪うように腕を取った。 「ちょっと」 ぐい、と腕を引き、有無を言わさぬ足取りで漆原は流也を引き摺られるように出入り口に連れていく。 「お客様……」 「えっ、何……」 「漆原くん……」 「流也さん……」 追いすがる、様々な声。 その全てを振り切るように、誰にも邪魔はさせないとばかりに、掴まれた腕の力は強かった。 そのまま外へと連れ出されても、流也は自分が何をされているのか、何をしているのか判らないままだった。 どうして。 俺は何をしているんだ。 漆原は何を考えているのか、否、ただ衝動的に流也を連れ出してしまったのだろう。 それにしても、どうして。 どうして、よりによってこの店に来たんだ。 どうして今日、来たんだ。 どうして俺をあそこから連れ出したんだ。 そして、流也は思った。 (こんなはずじゃなかった……)
to be continued. |