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シモチュウ  の連載エッセイ
2003年


34. 『友』 (2003年3月)
33. 『名前』 (2003年2月)
32. 『ユーモア』(2003年1月)



   34.友

 2月の中旬、その日は曇り空に時折白いものの舞う、殊のほか
寒い日であった。
 東府中に向かう私鉄電車の中は乗客の数も少なく、心なしか
冷え冷えとしていた。
今日は恩師の告別式である。すでに卒寿を経た老恩師だ。
かつて先輩として、教官として、公私にわたり指導を仰ぎ兄事(けいじ)した。
車中で独りつぶやいた。「厳しい人だったなぁ」。
でもその厳しい教えは今の私の中に脈々として息づいている。

 今生(こんじょう)の別れとなる今日、過ぎ去った往時(おうじ)を偲び、
心からの謝意を捧げたい。それがせめてもの故人に対する精一杯の
供養というものだ。と、独り言をしながら、自分に言い聞かせていた。

 告別式場に到着して驚いた。かつて熱血ほとばしる薫陶を受けた
同期生の面々10数名。遠くは南浜石垣島から北の国青森の地より、
急遽馳せ参じて来ていた。問わずと知れた私と同様、故人の徳を慕って
駆けつけて来た連中だ。暗黙の中にその思いは伝わる。

 思いの源は60数年前にさかのぼる。
春なお浅い弥生3月、志を同じうする純真無垢の少年達(17〜18歳)が、
当時難関であった狭き門を突破して、寝食を共にする一つの学び舎
(まなびや)に集ってきた。同期生とはその時の面々である。
その頃、世の人達は我々を桜の若木になぞらえた。
萌え出ずるような活気の中で、共に励まし合い、共に苦楽を分かち合いつつ
育っていった。定められた3年有余の学びの課程は瞬く間に過ぎた。
そしてそれぞれに専攻する分野や任地を異にして全国に巣立っていった。
だが一つの学び舎に集った思い出と、故人九十翁の薫陶、先輩として
兄事した濃密な人間関係の絆は、未だに断ち切れない。

 戦後、かつてグループを組んでいた我々30名は、当初志に秘めた熱意を
廃墟復興へのエネルギーに変え、再会を約しつつ、それぞれ
己(おの)が故里へ、あるいは新天地を求めて散っていった。

 爾来(じらい)50有8年間、折に触れ一堂に会したり、
交信を重ねてきた。しかし齢(よわい)80に程近くなるにつれ、
鬼籍(きせき)に入る者や病に臥す者が続出してきた。
このところ20年ほどは、残念ながら会同する機会も疎遠になりがちとなった。

 この度、思わぬことから旧友との再会となった。これも故人の導きで
奇しき仏縁か。異口同音に語り合った。
そして誰が口火を切ったかは知らないが、過ぎ越し60数年を振り返る
懐旧の集いとするのも、供養になると一致した。

 雪の舞う武蔵野の野辺に、惜別の思いを込めて故恩師を送り、
今生の別れは終わった。でも余情は残るこの斎場から、
ただちに去るに忍びない。そこはさすがに同期旧友達、思いは以心伝心、
見事歩調はたちまちにして揃った。故人の供養を兼ね、
恩師を偲びつつ旧友懐旧の情を交わす場を近くに求めようと。

 程なく遠来の旧友が前夜泊したホテルに、我々10数名は
欠ける者なく姿を現した。

 静かに更けゆくホテルの一角で、積もる話に時の経つのも忘れた。
今のこの一刻(ひととき)は何ものにも代えがたい余情残心の場であった。

 思うに、恩師を囲む同期生はまさに「友」そのものだ。
“朋(とも)あり遠方より来たる 亦楽しからずや”と恩師は
論語を語ってくれた。遠くからわざわざ学友が、共に学ぼうと
訪ね来て集まる。自分の道を理解してその思いを分かち合う。
あぁ何と楽しいことであることか、と教わった。

 “刎頚(ふんけい)の友”。友のためには、たとえ自分の首を
刎(は)ねられようと悔いはない、というほどの深い友情で
結ばれた交わり、そう教えてくれた[史記]。

 “莫逆(ばくげき)の友”となれ、とも訓(さと)された。
心に逆らうことのない、極めて親密な間柄の友という意味。[荘子]

 さらには、“友は第二の我なり”とアリストテレス「ニコマコス論理学」の
言葉を味わえ。恩師の好んで用いる格言であった。
友人は自分自身に次いで重要な存在であるとの意。

 ホテルの一角で時を忘れた同期生旧友の語らいは、期せずして
「友」に係わるものだった。亡き恩師の常に教示されたことが
話題の中心となった。実に自然な形の中で交わされた思い出であった。
恩師を偲ぶ素直な思いであったに違いない。

 故人は90歳にして斗酒なお辞さぬ剛の者であったと聞く。
我々仲間も決して嫌いではない。だがこの場には一滴のアルコールも
見えぬ。皆の意向はいつしかまとまっていた。今は静かに語らい、
ひとしお余情を温めたい。そしてひたすらご冥福を祈ろうと。

 「区助(恩師のニックネーム)。足もとに気をつけて、黄泉(よみ)への
旅路をどうぞごゆっくり! 区助にしごかれた同期生一同、さらに
友情を確かめました。遅ればせながら弔辞を捧げます」

 東府中の駅路は凍てついていた。
でも同期の旧友達の心はとても温(ぬく)かった。
再見(ツァイチェン)! 再見!(当時学んだ中国語)

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  33. 名前

 1月某日、ある新聞のエッセイ記事で、
「沢井麻呂女鬼久寿老八重千代子(さわいまろめきくすろやえちえこ)」
という女性が、91歳の長寿で大阪府四条綴市に健在しておられると報じた。
珍しい名前だ。
大変失礼だが、ふと瞬間思った。寿限無寿限無…の落語。
とうてい一度では覚え切れないが実にお目出たい名前であるそうな。
噺家の巧みな話術でただただ抱腹絶倒する他愛もない思いだが。

 でも沢井さんの娘さん達の話では、ご当人誕生の時
周りの人々から良いと思う字をもらい、それらを
全部織り込んだらこんな名前になったそうだ。
善意の結集だろうが、生まれた赤ちゃんはその由来を
知る由(よし)もないから、嫌だと拒否権を発動する術(すべ)もない。
旧制の女学校卒業の時、卒業証書の名入れが2行になって困ると言われ、
「千代子」と略し、その後体操の教師になって正式に「千代子」と
改名したとのこと。
でも今は周りの人の願いのこもった名前のお陰で、
かくしゃくとしてお元気の由。あぁめでたし、めでたし!

 ところが過日、何気なく本棚から取り出した
『雑学おもしろ読本』という1冊。
株式会社日本社・昭和57年1月発行とあるから、約20年前の古本だ。
全くの退屈しのぎにヒョイと手にし、そしてこれまた何らの意図なく
パラリと開いた頁(ページ)の「画家ピカソの正式の名前は?」の
記事に一瞬目が釘付け。
何とピカソの正式名とは、曰(いわ)く
「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・
ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・
クリスピュアーノ・デ・ラ・サンテシマ・トリニダット・
ルイス・イ・ピカソ」であると。
いやはや、これはまさにスペイン流寿限無そのものだ。
もちろん、由緒ある名前であろう。その説明のなかったことがとても残念。
それにしても沢井麻呂女鬼久寿老八重千代子さんを
はるかに凌駕する長い名前である。これは驚いた!

 さて、親は生まれた我が子へ、その命にすべての思いを込め、
幸多かれと祈りつつ、最もふさわしい名前をつける。
決していい加減ではないはず。
心からの親の愛・願い・祈りを込めた貴重なものであると信ずる。
それだけに、私は命名された“我が名”を誇りとするし、
一生を託して大事にしてゆきたい。

 私は5人兄弟の3男としてこの世に生を受けた。
父母は上から順に文夫・武夫・忠・誠・勲と名づけてくれた。
時は大正年代中期から昭和の初めの時代だから、
時代背景や世相がかなり影響したであろうと思う。
文・武・忠・誠・勲と5人の男の子の揃ったことを、
父は素朴に喜んでいた。
当時としてはごく普通な喜びだったに違いない。
ただ、それぞれの呼び名になぜか1人だけひとひねりした。
文夫(ふみお)・武夫(たけお)・忠(○○○?)・
誠(まこと)・勲(いさお)と呼ぶが、
3男こと私、忠(○○○?)に問題のひとひねりをしたのだ。
親から賜(たまわ)った名前だと信じていたから、
ひとひねりの由来はついぞ聞かぬ間に両親は
幽明境(さかい)を異(こと)にしてしまった。残念!

 私が初めて大勢の人の前で名前を読み上げられた経験は、
幼稚園の入園式である。
入園児の名簿には当然フリガナがついていたに違いない。
だのに、なぜか私は“下村 忠(しもむら ただし)”さんと
呼ばれた。満4歳の忠坊やは当然別の人と思ったのであろうから
素知らぬ顔をしている。
二度三度続けて忠(ただし)さんと呼ばれても平然。
付き添って来た母親が慌てて「“すなお”と呼びます」と申し出た。
園長先生以下列席の父母達一同「ヘェー!?」で一応その場は終わった
(…と後日、母は面白おかしく語ってくれた。
さらに後日談だが…当時の担任の先生が私の従兄弟(いとこ)の
奥さんとなり、会うたびに懐かしげに話してくれたものだ)。

 旧制中学校に入学の時も同様、呼び方の修正にこれ努めたものだ。
多感であった少年時代はどうしてこんな名前をと、
一時は両親をうとましく思い、恨んだこともあったが…。

 さて時は移り昭和17年3月、旧陸軍士官学校へ入校した
(時代錯誤と笑われるかもしれないが、当時としては
憧れの的である難関であった)。
忘れもしない4月早々、最初の漢文講義の日だ。
担任教官は旧東京文理科大学(現・筑波大学)教授も兼務しておられた。
恒例の氏名点呼が始まる。
「下村忠(ただし)」「……」
「どうした。忠(ちゅう)か?」「……」。
やや間をおいて、「それでは、ウーン、忠(すなお)だな」
「ハイ、そうであります」。思わず起立して敬礼した。
「珍しい読み方だ。候補生の親父どのはなかなか漢籍に詳しい人だな」。
初めて忠(すなお)と呼んでくれた教官への敬礼は、
緊張の中の時ならぬ突発事で、笑いとどよめきが渦巻いた。
60数年を経た今でも忘れられないし、
流石(さすが)だなと強く感じたものだ。

 教官は、“忠(すなお)とは右にも偏らず左にも偏らず、
直(なお)き心”の意と解説もしてくれた。
実は亡き我が親父どの、決して漢籍に詳しくはないはず(失礼)。
名付け役の上司の方に造詣があったのであろう。
心残りは忠(すなお)の由来を聞き得なかったことで、
返す返すも無念の極みだ。

 ところで先に我が名、忠(すなお)を誇りとし、
一生大事にしたいと記した。
名は体(たい)を表すというからまさに然り! 
多少こじつけがましいが、私は頑固といわれている。
よいではないか。年の故(せい)もあるだろうが
“頑固”大いに結構だと思う(ハタ迷惑だろうが)。
曲がったことは大嫌い。松の枝はあまり好まぬ。
竹はスッキリ伸びて大好きというほどに。
直き心とは、竹のように真っすぐでありたいという思い入れである。
忠(すなお)は直き心。いや、実によい名前を賜ったと、
亡き両親に感謝し心から合掌!

 沢井さん、名前の通りうんと長生きして下さい。素直な名ですよ。
今は亡きピカソさん、恐れ入りました。素晴らしい一生でした。

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 32.ユーモア 

 柄(がら)にも似合わないと言われればそれもそうだが、
落語が大好きである。
噺(はなし)の中身についても尽きない面白さがある。
かなり人間も古くなったからどうしても古典モノに興味は偏る。
したがって好みの落語家も古典的落語を演ずる人となる。
中でも今は亡き人となった志ん生師匠は忘れ得ぬ人。現在では文治師匠だ。
かれこれ7、8年ぐらい前であったろうか、
知人に紹介されて上野の席亭の楽屋で文治師匠に会った。
出演後のひと時、身づくろい旁々(かたがた)お茶などを喫しつつ
ホンの三言・四言交わしただけだったが、帰りに扇子一面を土産にもらった。
“語り一生”と実に見事な筆跡を記されたもので、今も大事にしている。

 文治師匠に心惹かれる所以は、もちろん磨き抜かれた芸そのものであるが、
最もとするところはその語り口・噺しぶりにある。
故人・志ん生師匠の芸風の伝承であるか否かは全く知らないけれど、
その飄々とした噺し方・その風情は、文治師匠演ずるところに
ありありと見い出され、いつものほのぼのとした笑いと安らぎに満ちてゆく。

 落語評論家でもなければ、その道の情報に詳(つまび)らかな
消息筋でもない全くの素人だから、マァあてにしないで
気楽に活字を追っていただきたい。

 ところで私の最も心惹かれるところは、前述の通り、
両師匠の飄々とした語り口や風情である。
語り手の飾らぬ人間味というか、もちろん“しゃべり”の専門家の
演ずる巧みな話術だから、当然のことというべきか、
人を魅了しておかないのだが、とにかくあの飄々とした
雰囲気の中に漂う、得も言い尽くせぬ滑稽味。
表現しようのないおかしさ・面白さ・ほのぼの感・安らぎは、
理屈抜きに憩いの一瞬を覚える。

 ところでここでヒョイと思い出したこと。
かなり以前のこと…といえば、時は1982年10月だから約20年前…
当時、上智大学文学部教授であったアルフォンス・デーケン氏の
「ユーモアと笑い――心とからだの健康のために」と題する一文のことだ。
『世紀』という雑誌に掲載し、その内容を講演された。
その一文の中から借りた文章で思い出してゆこう。

 「ユーモアとは、にもかかわらず笑うことである」
…ドイツのよく知られたユーモアの定義と記された。
「…にもかかわらず…」という言葉は、苦悩や落胆を味わった上で、
「…にもかかわらず…」笑いを忘れぬことこそ、
真の成熟したユーモアの証しなのだということであると。
さらに続けて曰く、
「ウイット(機知)は多くの点でユーモアと似ているが、
同じものではない。(中略)ユーモアが心に訴えるのに対し、
ウイットは頭で理解される。(中略)ユーモアとウイットの
もうひとつの違いは、ウイットは知性の火花であり、
閃(ひらめ)いたかと思うと次の瞬間にはもう消えてしまう。
ユーモアは心の状態であり、世界を超越し、
距離を置いてこれを眺める態度である」と。
そして「ユーモアは愛の具体的な表現でもある」と説く。

 だからユーモアは人々の心を温かくし、誰かを笑うことが
あっても、笑われた本人まで笑いの輪に引き入れて、
ともに和やかな気分にさせてくれるのである。

 デーケン先生の理論はともかくとして、文治師匠の噺は
無条件に面白い。飄々とたびたび表現するが割と淡々とした
語り口に、思わず笑いが吹き出す。
古典モノだから江戸時代の庶民、つまり江戸っ子下町長屋住まいの
“八っつぁん・熊さん”に、井戸端会議を主催するおかみさん連中が
主役で、そこに怪しげな自称物知りの横丁のご隠居さんが
「身の上相談役」として加わる。
今でいうカウンセラー兼コンサルタントというところか。
江戸時代下町特有の、いや棟割(むねわり)長屋ならではの
下町っ子の心意気・情緒・ペーソス、そしてべらんめえ言葉の
飛び交う中での駄洒落や笑いは、まさに誰かを笑うことがあっても、
笑われた“八っつぁん・熊さん”までも笑いの輪に引き入れて、
アッケラカンとした空気で共に和やかに、心温まる思いにさせてくれる。
それを文治師匠は巧みな話術・身振り手振りで演出する。
いやー、だからいつ聞いても楽しいし、笑いは尽きない。

 デーケン先生は、「…にもかかわらず…」笑うユーモアを
心の状態であると言い、そして愛の具体的表現であって、
心と体を癒すカウンセリングに通ずると説いた。
カウンセリングのやりとりの中に、ユーモアを交えられたならばと思い、
再度、あの一文に目を通した。今年の課題の一つかなと案じつつ…。

 そういえば亡き志ん生師匠は大の酒好きで、蓄財には
全くの無関心。天衣無縫にして芸の工夫一筋に生き、
「…にもかかわらず…」笑わせることに終始したという。
飄々とした語り口と一升瓶を枕に、生涯を下町の長屋住まいで
終えたとのこと。実におおらかで和みの中の一生だったらしい。
苦悩や落胆を数々味わいながらもユーモアを忘れずに…。

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