病院の個性


病院には個性があります。外科・あるいは内科的治療を主とする体の病院にも先生・施設・雰囲気などのよしあしがあるわけですが、心の病院、それもアルコール依存症の治療を診療科目に掲げている病院の個性は際だっているのではないでしょうか。私は二つの病院に行ったわけですが、私という患者に対するアプローチ並びに治療方法は極右と極左のごとく(たとえが悪いやね)際だっておりました。
夫に泣きついたその日に私は家族で病院を訊ねました。(余談ですがこのとき判ったのが休日診療している依存症治療病院の少ないことです。都内に一件ようやく見つけることができましたが、仕事を持っていて治療が必要な人というのはどうするんでしょうかね。仕事ができるうちは依存症じゃないってことでしょうか。病院には頑張って休日診療を行って欲しいと思います。)閑話休題、そこはアルコール依存症治療を前面に掲げており、院長による依存症に関する書籍多数という病院でした。一階が診察室、二階から上がワークショップのための部屋になっているようです。電話で予約した旨を告げ、待合いで子供をあやしながら診察を待ちました。病院の印象は清潔でまぁ温かい雰囲気と言ってもいいでしょう。ワークショップの参加者なのか、人の出入りが非常に多く、入り口には小さな喫茶コーナーがあり、仕出し業者がお弁当をエレベーターで運んだりもしていました。最初に通されたのは小部屋です。カウンセラーの若い女性がおり、主人も子供たちも一緒に部屋に入ってもらいました。
堰を切ったように、私は話し始めました。自分でも思いがけないことに、そのとき自分の口から出てきたのは育児のつらさでも主人との不仲のことでもない、子供という立場である自分と、親との関係についてのことでした。心の底に澱のように溜まっていたものが、瓶を傾けたようにたえることなく流れ落ちました。カウンセラーの女性は、自分とは全く関係のない一人の病んだ人間の、生まれ落ちてから今まで誰にも語ることができなかった無念の群を、肯定するでもなく、否定するでもなく、ただ耳を傾け頷き要点を書き付けていました。夫にも友人にも話したことはなかったけれど、確かに私の中に在った、そして誰かに認められることを待っていた、静かな石のような思い出が、次から次へと日の当たる場所に差し出されました。私は泣いていました。そして、酒瓶の中に逃げ込む自分から決別できるかも知れない、と、幻想のような予感を抱いていました。
カウンセラーに一通り話を聞いてもらい、部屋を出ました。このあと病院長による診察と治療方針の検討が行われるとのことでした。私は院長が、先ほどカウンセラーの録ってくれた抄録を元に、私という一人の、歴史と思い出ある人間に対し、適切な治療を行ってくれるものと漠然と期待していました。初めてカウンセラーという存在に出会い、その職業的な礼節に感謝し、高ぶっていたのかも知れません。過度な程の期待を胸に、私は部屋に入りました。
院長はさして抄録に目を通さなかったろうことが、話をしているうちに判りました。院長は私を育児ノイローゼから来るキッチンドランカーとみなし、週に一度、子供を預け、ワークショップに参加するよう勧めました。そしてそれとは別に、地元で開かれているだろうアルコール依存症の患者の階に出席することを勧められました。表面的には同意したのですが(何しろ他に病院の宛てがないように思われたもので)、私の心は既にここから遠ざかっていました。ここには私がいない。院長は、己のマニュアルを元に、それがどんな来歴を持つ患者であれ、同じように治療しようとしている。私は、この医師は患者を信用していないのではないか、とさえ思いました。どういうことか。ここは依存症治療を専門にしています。依存症は極めて治りにくい病気であり、再発(即ち断酒していた人間が再び杯を手にしてしまうこと。スリップというらしい)が極めて頻繁に起こります。この院長も、依存症の治療をはじめた頃は青雲の志を持ち各々の間者に合わせた治療を行っていたのかも知れませんが、数をこなすうちにスリップの発生に圧倒されてしまい、「依存症患者はスリップするものである。だからとにかくワークショップに引っ張ってきて、監視体制を確保することが何よりも重要である。依存症患者の「もう飲まない」を信用してはいけない。スリップしないなどと安心しては行けない。なぜなら、安心してそれを裏切られると、私が危機に陥るからだ。」式の思考を身に付けたのではないかと。ワークショップは参加費が確か500円位、女性専用もあり、話し合いと些末な手仕事を行うようでした。(結局いっぺんも参加してないもんでわからんのですわ。)下衆の勘ぐりをすれば、一生治らない患者を定期的にワークショップに引っ張ってこれれば、大変おいしい収入になります。こなくなっても別に病院の方は痛くも痒くもなかろうし、新しい患者はこれまた定期的にやってくるでしょうから、経営としては非常に安定します。自分を個として扱わない様子に、私はそんなことまで覚えてしまったのです。
ワークショップを受けるかどうかは、子供たちの預け先のこともあるし、保留にして、とりあえずアルコール依存症治療薬と院長の著書を頂き、私達は帰路に付きました。依存症治療薬は、それを服用するとアルコール分解能がなくなり非常に悪酔いするというもので、飲酒の防波堤のようなものです。これが確か一瓶で二週間しか保たず、また保険だかの関係上一度に一瓶以上を出すことはできないそうです。ともかくこの薬の入手という点だけにおいても、私はこの病院にくびきを繋がれた形となりました。尤もこの薬はアルコール依存症治療を手がけている病院であれば、どこでも入手できるのですが。
因みにカウンセリングやら著書やら治療薬やら含め、当日の診療費は確か2000円内外でした。治療費を気にして診察をためらっている方は、まーこんなものだということで、一度行って見ることをお勧めします。
治療と子供たちの養育の両立を色々話し合い、結局私は一旦実家に戻ることにしました。家庭での確執が私の心に酷いしこりとなっていることは自覚していましたが、この病院では院長殿にそれを注意されることもなく、いっそ実家に戻ることさえ提案したため、私はそれを選びました。夫は、子供たちを彼の職場の女性の両親に預けることを提案してくれたのですが、見知らぬ人に預けるというのも申し訳ない気がして、好意だけを有り難く頂くことにしました。実家に戻ってきた私を、家族はとりあえず受け入れてくれました。が、最初から障害が!母は、私が授乳中であることを理由に、治療薬の服用をどうしても認めてくれなかったのです。本来その薬は治療を共にするいわば監視者が隠して管理しておき目の前で服用を確認する、一日一度午前中に必ず服用するというものでした。が、母は一体何を根拠にした確信からか、ここに来て育児の負担さえなくなれば飲酒はなくなると決めており、そうであれば赤ちゃんに影響があるかも知れないわけのわからない薬など飲む必要はないと考えていたようです。(因みに件の薬の正体は、運動場の白線引くのに使うのと同じ生石灰のごく薄い水溶液です。医師も、授乳の際の危険については未検査だが心配ないだろうと言っておりました。)まぁ初手からそんな調子だったもんで、私の心には新たなしこりが!えばって申しますと、私は「飲ませてくれないなら自分で飲むから渡して」と頼みさえしたんですが、母はそんな私の手から薬を取り上げ、隠してしまいました。近くに依存治療を掲げている病院があることを知り、そこに一緒に行くよう頼みもしたんですが、忙しいことを理由に断られ続け、そのうちうやむやになりました。
以前と同じ日常が始まりました。何というか、非常に風通しの悪いうちで、私はじきスリップしてしまいました。父母は怒り、強かに酔っぱらっている私を車に無理矢理乗せ強制送還をはかりました。私は、このまま帰ってもどうにもならないと思って、待ってくれるよう頼んだのですが、父母は聞き入れませんでした。子供二人を連れ、私は夫といた家の前についたところで、鍵がない!策略と誤解されたのですが、実家に忘れてしまったのです。純粋に。父母は主人に電話しました。主人は当然仕事中、ホテルに行くことなども考えましたが、とにかく帰ってきてくれることになりました。帰ってきた主人は、車の中で待っている父母を見るなり、「あんたらそれでも人間か!」と怒鳴りました。父母は、特に父は、非常に不快そうな顔をしていました。とにかく家に入り、父母は帰ってゆきました。
その日のうちに主人はとうとう自分の父母に電話をしました。私にとってはつまり義父母です。そこでどうやら夫は初めて私が依存症であることをはっきり明かしたようでした。そして治療をはじめたがスリップしたこと、実家から追い出された(半ば縁を切られたような形で)ことを。信じがたいことに、義父母は私を受け入れてくれると言い、一晩休んだ次の日私は夫の実家に出発しました。なりふり構わず、子供たちの荷物だけを小さく纏めての門出でした。
義父母は、信じられない程温かく私を容れてくれました。依存症は病気だと言うこと、そして病気なら治療しなければならないということを私に優しく語り、確認しました。(夫が言い含めてくれていたに違いありません)。私の実父母の対応を快く思っていない様子でした。後から聞いたことですが、「自分の子供のことなのに、忙しくて病院にもつれていけないなどというのは言語道断だ」と義父は怒っていたそうです。病識にずれがあったと言わざるをえません。子供たちを寝かした後、義母と二人きりになって、薬を前に、「もうお酒を飲まないこと、できるわよね」と言いました。私はその優しげで芯の強そうな物言いに、ああ、私はここで断酒できなければもう人として駄目なのだろう、こんな嫁を容れてくれた姑に、実父母が棄てた人間を容れてくれた人々に、苦い思いをさせてはならない、裏切ってはならない、と強く思いました。私は、神に誓うような心持ちで、はい、と返事をしました。そして義母に薬を注いでもらい、服用しました。
次の日、夫が探してくれた病院に再び家族でゆきました。私は義母にも一緒にきてもらいました。病気の体を預ける以上、その病気がどこから来たものなのか、この人にも明かさなければ失礼にあたるだろうと思ってのことでした。私は、子供たちと夫、義母の前で、家庭に端を発したしこりの一つ一つを明かしました。もしこれを明かして拒否されたならばそれも仕方ない、そう思いながら、一時母と私と弟とで身を寄せていた祖父の家で、祖父の金を繰り返し盗んだことまで明かしました。義母は、黙って聞きながら、涙を流していました。
私の話を聞き終わった医師は、私がアダルトチャイルドであるということを告げました。家族との間で、とても苦しい思いをしてきたと、認めてくれました。私は、泣きました。私がずっと聞きたかったのはこの言葉だったのだ。私は黒い羊だった。あらゆる悪いことの原因は真偽に関わらず私であるとされる、黒い羊だった。子供にとって親というのは自明にして絶対の権力者であり、それゆえ権力を行使するには細心の注意が必要であるはずなのに、私の父母はそうではなかった。私はあらゆる手段をもって挑みながら常に闘いに敗れ、己に価値を見いだせなくなり、何度か自傷を計った。父母の言動と私の心とを他に明かしても、信じてもらえないか、私の被害妄想と見なされ、父母よりむしろ私を否定されるのが常であった。体の傷ではないが、そして父母に特別の悪意があったわけでもないが、自分というもの、自尊心というものには、日常の内で多くの傷が付けられることとなった。私は多く傷つき痛み血を流しながら、誰にもその傷を認められずよって治療もされないという有様だった。私は苦しかった。長い間、苦しかった。親と子にも相性があるだろうし、私という人間にも勿論原因があったのだろうが、どうであれ何であれ、私は治療を、他の人の同意を、慰めを必要としていた。
初めてそれが与えられた。
病院の医師はアダルトチャイルドの第一人者に教えを請うてこの土地で治療をはじめた人でした。医師は実家から離れたことを認め、良いこととしました。子供の養育なしで断酒が可能になったとしても、結局子供は育てなければならないものだから、育児と断酒は共存させたほうがいいことも言われました。アルコール依存症患者の階とアダルトチャイルドの会とに出席するよう勧められ、病院には二週間に一度きて薬をもらい、断酒を続けるよう言われました。それがこの病院での治療でした。
義父母の家に帰り、主人は家に戻り、落ち着いて数日、実母から電話がありました。私の前で電話をとった義母の顔が曇り出し、言葉少なになってゆきました。私は替わるとも言い出せぬまま、申し訳なく義母を見守りました。「とにかくこちらで治療しますから」と言い続け、義母はようやく受話器を置きました。最初に言った病院で相談したところ、子供を実父母のもとに預け、私は病院近くにアパートを借りて一人暮らしをして、治療をするように言われた、だから娘を返せ、という内容だったそうです。相当酷いことを言ったようで、義母の顔は蒼白になっていました。どうも主人の育て方について何か言ったらしい。申し訳なさと口惜しさで一杯でした。何を言うよりもするよりも、とにかく今私にできることは断酒を続けることだ、そう念じて、酒を飲まない生活習慣に心をすり替えてゆくことを、静かに進めてゆきました。

go top