プロローグ
人はいくつもの恋をする生きものだ。
いくつもの恋を渡り歩いて大人になるものだと私は信じている。
そして愛とは、そのいくつもの恋の中で唯一選びぬかれたものが、愛に変化していき、永遠になるのだと信じている。
恋から愛に変わる瞬間。至福のときを相手と分かち合える瞬間。
私はその瞬間をもう味わったのか、それともまだ味わったことがなかっただろうか。
広人。
失うものなんて何もないと思っていた。欲しいものは手を伸ばせば届きそうなくらい近くにあるものだと思っていた。広人を失っても私には欲しいものがあると思っていた。
「鍵を返すね。」
その言葉をきっかけに私は、私たちはそれぞれの道を歩むことにした。
狭い田舎の町で一生を過ごすより、都会に出かけ様々な人に出会い様々な出来事を体験し、強く輝きながら生きていたい、そんな私の夢が、いま叶うときだった。
けれど、広人はそれに激しく反対した。ふたりで静かにこの場所で暮らそうと、平穏な毎日を幸せに生きようと、そう言って、私が夢を叶えようとすることを拒んだ。けれど、こんな狭く閉鎖的な町なんて私は嫌で嫌でたまらず、そしてそんなことを言う彼もまたネガティブな生き方を選んでいるようで、彼の姿が色褪せて見えた気がした。私もまた彼の言葉を拒んだ。
夢を夢のままで終わらせたくない、叶えるからこそ夢を見るのだ。私には叶えたい夢があるのだから。
けれど、夢を追いかけ恋人と別れるということがどれだけの重みを持つのかさえ、まだ無邪気で純粋な子供だった私は知るはずもなく、広人にどんな思いをさせるかなんて想像出来るほど、私は大人になりきれてはいなかった。刹那的な恋愛を繰り返し、そしてまた広人との関係もその一部にしか過ぎず、私を大人にさせてくれるための恋なのだと、そう思いながらあっさりと広人との別れを望んだ。
広人を失うことがどれほど恐ろしいものかなんて、そのときの私にはわからなかった。
何度も話し合ったことだった。
時には、感情的になり部屋を出て行くこともあった。
大きな声で怒鳴り散らし、ヒステリックに叫んだ事だってあった。
広人が悲しそうな顔をすればするほど、私の意志は頑なにそれを貫き通そうとした。
悲しくなどなかった。涙など出るはずもなかった。
私の意志は、恋人と別れてまでもそれを貫こうとしているのだから。
それほどの覚悟があるのだから。
「本当に行っちゃうんだね」
もう何度も話し合ったことだった。
広人との別れなど、繰り返すつもりはない。
それほどの覚悟があるのだから。
「本当に行っちゃうんだね」
もう何度も話し合ったことだった。
私には新しい場所が待っているのだから。
それほどの覚悟があるのだから。
荷造りを終え広人のいる場所を振り返ったとき、視界がぼんやりとしてその向こう側に薄っすらと彼の顔が見えた。
うまく笑ったつもりだった。うまく別れるつもりだった。
なのに、なのに、なぜ涙が出るの。
「本当に行っちゃうのよ」
覚悟は出来ている。もう後戻りは出来ない。
彼の少し伸びきった柔らかそうな髪の毛を、春の風がゆっくりと揺らし、
吸いかけのタバコの煙が、ゆっくりと部屋に彷徨い消えていった。
「今まで本当にありがとう」
煙が儚げに消えていくのを確認して、私はそう言った。
そして、荷物を抱え玄関に行き、グッチのエンヴィを手にする。
出かける前はいつもここで香水を身につけた。私も広人もこの香りが好きだった。女性らしく優しく甘い香り、そして意志の強さも感じさせるそんな香りだ。こんな香水を身に纏う女性になりたかった。いつもいつもそんな女性に憧れていた。広人と付き合い始めた頃、二人でデパートに出かけ選んだもの。広人も、私がエンヴィを身に纏うような女性になることを望んでいるのだと思っていた。そして今、私は、自分の意志を現実にするチャンスを手にし、この場所を離れ、広人とも離れ、夢に向かって走ろうとしている。そんな私を、広人が、エンヴィを選んでくれた広人が、私が夢に向かおうとするのを止めるはずもないと思っていた。それなのに、なんて皮肉なのだろう。
広人は私の腕を掴むと、あっという間に私を包んでしまった。同時に、二人の胸の中に広がるエンヴィの香りが、私の脳を包み込んだ。どんどんとエンヴィに侵食されていくその脳の片隅で、エンヴィと広人の胸と、そして別れの皮肉さをぼんやりと思っていた。彼の背中に手を回すことなどなく、ただぼんやりと。
エンヴィの香りが染み込んでいく。
さようなら。
ドアノブをしっかりと握り、私は広人への思いを断ち切るように回した。
彼の言葉もこの香りも、これから新しい場所に飛び出す私には、とても皮肉にとても悲しく聞こえた。その髪の毛にもその胸にもその背中にだって、もう二度と触れることなどない。
何度も話し合ったことだった。
覚悟は出来ている。もう後戻りは出来ない。
そう呟いて、私はドアを閉めた。
さようなら、広人。
さようなら。
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