第一章
辿り着いた場所

また、一日が始まった。
 
目覚まし時計のベルを聞かずに目が覚める。体の節々が疲れを訴えるようにみしみしと音を立てる。ここ最近充分な睡眠をとっていない。体は重いのに頭は冴えている。
窓を開け、昨夜から部屋に澱んでいた空気を外に解き放つ。まだ目覚めきっていない都会の空を猫の額ほどのベランダから見上げる。絶対的な青色とはいえない、どちらかといえば青みがかった色をした空が今日もそこにある。
鏡を覗き込むと肌の荒れた自分の顔、部屋を見回すとスーツは脱ぎ散らかされ、シャツには皺が入り、バスルームの電球は点滅したまま。それでも、切れかけの電気をつけ、荒れた肌を洗い化粧をして、服を着込む。
部屋のテレビは音声が消され、ただ光だけを放っている。画面の中では日本地図に太陽のマークが並び女性が笑顔で口を動かしている。髪の先のはねを気にしながら、ストッキングを用心深くつま先から太ももまで滑らせる。足のラインを美しく整えるかのように、圧迫されていくのがわかる。親指と人差し指でゆっくりと引っ張りあげようとすると、途端に圧迫感が消え、ふくらはぎから踵まで指先で撫でられたような感覚が走り、真っ直ぐな一筋の線が伸びた。右手の人差し指の爪が割れている。溜息をつき素早く脱ぐと、ゴミ箱めがけて投げ捨てた。それは的を外れてカーペットの上に転がる。また溜息が出る。
時間のない朝に憂鬱な溜息。ベッドに倒れこみ、転がったストッキングを見つめながら割れた爪を強く噛んだ。
 
ちらかった部屋を片付けることも出来ないまま、爪が割れていたことも気づかないまま、バスルームの電球すら替える事も出来ないまま、また今日も目の回りそうな憂鬱な一日が始まる。
 
 
高層ビル群に囲まれた18階からの眺めはいつ見ても圧巻だ。
有名な建築家にデザインをされ、幾何学的な形のブロックが何層にも重なってその壁を飾り、そこには夜間や悪天候の中でも飛行する航空機にビルの位置を知らせるための点滅灯が、等間隔に取り付けられている。窓は充分にその広さを確保され、そこからは人影が時折ちらちらと見える。下を見下ろせば、その無機質なビル群をいくらか和らげるための木々が並び、その横にあるカフェの廂がゆらゆらと揺れている。噴水やベンチの間を蟻のような人間たちがゆったりと歩いているのが見え、少し離れたターミナル駅には様々な色をしたいくつもの電車がホームに滑り込んでいく。
けれども、外の悠然とした風景とは違い、この壁一枚を隔てたオフィスの中は、鳴り止まない電話の音と、決着のつかない議論をする人々の声と、プリンターやコピー機やパソコンから発せられる規則正しい機械音が、狭いオフィスの空間を騒然とさせている。
 
 
この四月、私の所属する営業チームに五人の新入社員が配属になった。
もともと、他のチームよりも若い社員たちが所属している部署だけに、つい先日まで学生だった新人が入ってくると、その若さはより増してくる。
「夏までの間に、辞表も出さず部署異動も申し出ずに残っていられるのは、この中の一体何人なんだろう?」
私は、朝のミーティングに初めて顔を出した初々しい新人たちを一番遠いところで眺めながらそう思った。
今からちょうど四年前、私自身も彼らと同様に、この部署に配属された。確かな目的や明確な目標はまだ見えないままだったのに、意欲や勢いや負けん気だけは充分に持ちあわせ、初々しく溌剌とした声をあげて皆の前に立ち、「頑張りますので、よろしくお願いします。」と、頭をさげたものだった。しかし現実、同期の者たちは夏のセミの声を聞く前に、ひとりまたひとりと根をあげ、気づけば一緒に配属になった同期は、誰ひとりとしていなくなっていた。
そんな折、チーム責任者の久保田に会議室に呼ばれ、「営業というものは、三年経って仕事が身につき、五年経てば仕事の面白さがわかってくるものだ。だから君にもそれくらいの時を経て立派な営業マンになって欲しいと、私は考えているんだよ。」そう言って、私が辞職願や異動願を出さないようにと、迂遠に釘を刺した。
しかしながら、そんな久保田の心配もよそに、私には辞める気などさらさら無く、周りが脱落し始めている今だからこそ、踏ん張り所なのだと思いながら、ただただ無我夢中で仕事をするだけだった。何にも負けたくない、周りよりも抜きん出た成績をあげてみせるのだ、自分がどこまで通用する人間なのか、自分の限界点は一体どこなのか、それを確かめたくて、ただひたすら働いた。
そうして今年、私は入社してから五年目を迎え、仕事は面白いかと問われれば、それなりに楽しくないことも無かったが、心のどこかでは、新人で入社した頃と今の現実の中に、違和感があることに気づき始めていた。不条理なことや納得できないことに何度もぶつかり、正しいことがいつも正しいわけではなく、正義がいつも通用するわけではないのだと知った。それでも、自分を騙し騙しそんな雑念や微かな絶望も無視するかのように、仕事に打ち込んだ。いや、打ち込まざるをえなかった。自分の中の何かもやもやしたものに目を凝らし、現実と理想のギャップを見つめ直すという時間が今までに無かったと言ったほうが正しいのかもしれない。
 
ひとりの新人が自己紹介を終え恭しく頭を下げると、皆が拍手をした。少し遅れて私もそれに合わせる。
すぐ隣に立って拍手をしていた靖雄が、そっと私の肩に体を触れさせ、「今日の予定は?」と小声で聞いてくる。
「11時、14時、15時、後は・・・17時のアポがあるわよ。」
今日のスケジュールを思い出しながら声を殺して答える。
「ほお、売れてる営業マンは多忙だな。それはそれは何よりで。」
靖雄は、前を向き笑顔を新人たちに向けたまま、冗談半分なやっかみを口にする。
ネクタイをだらしなく締め、吐く息はコーヒーの匂いがする。スーツのジャケットにはタバコの匂いも染み付いているのかもしれない。顎から伸びかかっている数本の髭が、昨晩の遅い残業を物語っている。時間が合えば昼飯でも、と靖雄が前を向いたまま笑みを湛えて言い、時間が合えばね、と私が答えると同時に、新人たちの自己紹介は終わり、皆が一斉に自分の仕事に戻った。
 
私も、自分のデスクに戻ると携帯の電源をオンにしてポケットに入れ、営業鞄をもちあげ、ホワイトボードに帰社時間を書き、「行ってきます」と声をかける。アシスタントの女の子たちが「いってらっしゃい」と応えるのを聞いて、オフィスを後にした。
上ってきたエレベーターに乗り込もうとすると、不意に中から久保田が降りてきた。
「おはようございます。」
「ああ。N社の件、あれからどうなった?」
「コンペの日程が決まりました。五社ほどのコンペになりそうですが、うちが負ける要素はなさそうです。」
「そうか。探れるチャンスがあるなら、他社の情報も探っておけ。コンペまで持ち込んで負けてしまっては、ここまで時間とコストを割いた意味が無いからな。」
「はい、分かりました。」
「戻ってきたら、部長にも状況報告しとけよ。」
短い会話の中にも、目に見えない圧力をかけられているのがよくわかる。
幾人もの営業マンたちが抱える幾つものプロジェクトが、毎日その状況を変化させつつ動いている中で、営業部全体を取りまとめている営業部長が、その状況を見守るほどのプロジェクトを、いま私が追いかけている。今度のコンペティションをくぐり、うちの会社が見事契約することが出来れば、我が社にもたらす月間利益は大きな数字になり、年間で換算すれば会社の年間利益の中でも最も大きなシェアを占めるほどの額になる。
 
細い矢のようなプレッシャーを背中に感じるが、私はそんなものに惑わされている暇は無い。
自分の限界を、知ることが出来る瞬間なのだから。
 
今日は暑くなりそうだ。
少し暗いエレベーターホールの床に、鋭く差し込む陽の光が、夏日を思わせるほどぎらぎらしていた。

表紙