プロローグ

人が恋をするのはただ一度だけだ。それが初恋。アイは僕がただ一度だけ恋をした女性。それ以上でもそれ以下でもない。唯一の存在。いつもお互い手を繋ぎ、向き合って泣き、笑い、悲しみ、喜び、そして、別れた。4年前、僕たちが一緒に過ごし、愛を語り、未来を憎んだ場所から僕はまだ飛び出せずに、いつまでも佇んでいる。いつまでもこの部屋で彼女の残り香を探し、彷徨っている。
 
「本当に行っちゃうんだね」
「もう。同じことばかり話し掛けないで」
 
4年前、アイはこの部屋から出て行った。一緒に別府へ旅行に行ったときに使った大きなトランクに荷物を詰め込んで。釣りをしているカエルの置物、赤い縁が入った背面鏡、ゼンマイ式の目覚まし時計。この部屋を構成していたなんでもない数々の小物が、重要な意味を込めて、そこにある場所から消えていく。アイは故意に僕から背を向けるように黙々と荷物を詰め込む。身を削られているような気がした。煙草を吸う右手が微かに震えていた。窓から入ってくる風に緑色のカーテンが揺れた。アイの後ろ髪がまるで意識を持っているかのようになびいた。全てが終焉に近付いていた。
 
アイは全ての荷物の整理を終えて、大きな息を吐いた。それは溜息のようでもあり、大きな意志が込められた息のようでもあった。そしてようやく僕の方へ振り向きにこりと笑った。その微笑みとは裏腹に、アイの瞳には涙が溜まり、潤んでいた。だけどアイにはその涙を食い止める強さを持っていた。だけど僕はそんな強さなんて持っていなかった。今にも涙を流し、出せる限りの力と、思いつく限りの言葉を使ってアイを手離したくなかった。
 
「本当に行っちゃうんだね」
「本当に、行っちゃうのよ」
 
僕はアイから視線を逸らし、窓の方を見た。3月の午後、鹿児島に微かな春の訪れを感じさせる暖かい風が二人で買った緑色のカーテンを揺らした。煙草の煙がその風に乗って僕の行き場のないこの思いのように部屋の中を彷徨った。
 
「さようなら」
 
自分に嘘をつくこと。これが僕にできる精一杯の強さだった。アイは腕時計を見て静かに立ち上がった。その微笑みを崩さぬまま、僕に「今まで本当にありがとう。元気でね」と呟いた。アイの瞳からはもう涙は消えていた。その視線は緑色のカーテンの向こう側、この道の向こう側、この九州の向こう側に向けられていた。空港まで送るよという僕の提案を遮ってアイは「一人で行かせて」と言った。最後にもう一度だけ抱きしめたかった。別れ。僕はそんなものに慣れていなかった。慣れたくなかった。理由。僕はこれから社会のあらゆる問題を理解できる力を持つことができると思っていた。別れる理由。それさえも理解しているはずだった。約束。お互いが信じることへ進もうと決心したはずだった。
 
アイは困ったように笑い、大きなトランクを抱えて玄関へと歩いて行った。ようやく僕は立ち上がり彼女を追った。最後にもう一度だけアイを抱きしめたかった。このままでは僕は何処へも行けなくなる。辿り着けなくなる。アイはブーツを履き、香水を手首と首もとに振った。GUCCIのエンヴィ。アイはいつも出掛ける前に玄関でこの香水を振った。そしてそれを靴箱の隣の小さな棚に置いて出掛けるのだけど、今日はそれをハンドバッグに入れた。この部屋を構成していたなんでもない数々の小物が、重要な意味を込めて、そこにある場所から消えていく。僕は意を決し、アイの左手を取り、その小さな体を引き寄せた。あっ、とアイは小さな声をあげ、トランクが音を立てて倒れ、最後のエンヴィの香りが鼻腔を強く刺激した。
 
僕はアイを強く抱きしめながら、涙だけは流さないように、アイを困らせることだけは言わないように、ただ強く、強く抱きしめた。本当に今日で終わる。僕たちが築き上げた2年の歳月が終焉を迎える。肩をすくめながら笑うあの笑顔も、怒ったときに下唇を少し突き出すあの表情も、物思いに耽っているときに頬杖をつくあの仕草ももう見られない。大人になれば、こんな残酷な場面も慣れてしまうのか? 僕はこれからあらゆるものに鈍感になって漠然的に納得していく大人になってしまうのか? 嫌だ。別れたくない。アイを失いたくない。大人になりたくない。僕はいつまでも、この気持ちを、残酷なまま、心に大きな傷を残し、生温かい血を流しながら生きていくだろう。この痛みがアイが存在したという証明になるのならそれでいい。この痛みを抱えながら生きていこう。
 
ガタンとトランクが大きな音を立てて倒れ、僕は我に返った。抱きしめたままアイの顔を見た。とても悲しそうな顔をしていた。僕が抱きしめている間、アイは僕の背中に手をまわさなかった。それが不可抗力であるかのように、全ての感情を自分の中で整理し、押し込めて、無感情にただ黙ってその力に身を委ねていた。それが彼女の強さだった。
 
「ずっと変わらない。キミへの想いも、この場所も」
 
アイは僕の言葉を静かに俯いて聞いていた。そして僕の胸にそっと手を当てながら離れ、
倒れたトランクを手に取り、ドアを開けた。このドアが閉まるとき、2年の歳月に終止符が打たれる。僕は息を飲み、アイのドアノブを持つ右腕を眺めていた。目の前にもやがかかり、窓から差し込む午後の光が部屋中を包んだ。目を開けると、アイはもう消えていた。
 
二人で過ごした小さなアパートの玄関には、GUCCIのエンヴィの香りだけが残っていた。僕はアイの残り香に包まれながら、いつまでも、そこに立っていた。いつまでもアイの幻影に包まれていた。
 

表紙