第一章
停滞した場所

毎日が純粋な律動をもって反復される。朝起きて、顔を洗い髭を剃り、車に乗って仕事に行く。仕事が終わり帰宅して、シャワーを浴びて退屈なドラマを見る。時々友人に誘われて酒を飲み、コンパに誘われ行かなければよかったと後悔する。月末に母親がアパートに来て、米と野菜と栄養補助食品を置いていき、動物番組を見ながら「まぁ、可愛い赤ちゃん」と迂遠のプレッシャーをかける。僕を取り巻くものは皆、一定の法則に則っていて全てが滞りなく進んでいく。ここは僕が産まれ育った場所。変化を望まない場所。今日は昨日と何一つ変わらず、明日は今日と同一でなければいけない。ここは変化を望まない場所。だから皆、年に1度の選挙如きで大騒ぎして夏祭りに今年いちばんのお粧しをする。大晦日はNHKを見て秋になると近所の山に登り紅葉を見る。全てが滞りなく進み、人はゆっくりと年老いていく。「死」という最後の変化だけを遠目に見ながら、ゆっくりと進んでいく。
 
人々は皆、潜在的に変化を嫌悪している。特別擁護老人ホーム。決して良くない意味で人間が劇的に変化した場所。朝に寝て夜目覚め、食事の3分後に空腹を訴え、トイレの場所がわからず、そもそも排泄の意味さえ忘却し、それぞれの混沌の世界に住んでいる場所。周囲から閉鎖された空間。今日もこの空間では沈痛な奇声や悲鳴が空気を裂き、この空間を隔てる厚いレンガの壁の向こう側では小鳥が囀っている。
 
4年前、僕は地元の大学の情報工学部を卒業し、この特別擁護老人ホームの採用試験を受けた。大学の教授も友人も親も、そしてここの面接官でさえ一様に驚きの表情を見せた。
 
『社会全体が複雑化・多様化する21世紀の社会では、情報・通信・産業の重要性はさらに増し、より高度な情報化社会へと成長を続ける』
『情報社会で企業が求めている人材は、コンピュータの知識・操作はもちろんのこと、激変が予想されるビジネス環境に適応でき即戦力となる人材』
 
大学で幾度となく耳にしてきた言葉。僕はこの人間味のない無機質な言葉たちに少しずつ拒絶反応を示すようになった。研究室でパソコンに向かい、複雑奇怪なプログラムを入力し、出力結果を予想し、修正し改変していくうちに必然的に頭の中まで理路整然とされ、僕の体の中には電気が流れ、光ファイバーによって通信され、緑色の血が流れる。激変が予想されるビジネス環境。緑色の血を流していかなければ生きていかれない社会。より高度になり複雑化・多様化する社会。無闇に神経を擦り減らし、訳のわからぬまま死を迎える。大学の卒業が目前に迫るにつれ、僕はこんな夢を見るようになった。生きるという尊大な意味を考えるようになった。そして、大学卒業の日に最後に創り上げた僕のプログラムの出力結果が、この老人ホームの採用試験を受験することだった。
 
そして毎日が滞りなく過ぎていく。これは僕の望んだことだった。変化を嫌悪し、人間の最大の変化である「死」と向き合う。昨日食事を与えた人が今日はいない。一緒に歌った人が二度と目覚めない。一緒に過ごした恋人は二度と会うことはない。時間が奇妙に歪んだ場所で僕は時間と共に年老いていく。
 
「おい広人、今週の土曜、みんなで飲みに行こうぜ」
同僚の潤が勤務中にも関わらず車椅子を押しながら例の含み笑いで近付いてくる。車椅子にはこの老人ホームに入居して3年になるハツエさんが座っている。綺麗な白髪頭でいつもニコニコ微笑んでいる。世の中の全てを寛容したような笑顔を見せている。
「いいけど、コンパだったら行かない。多分もう一生行かない」
先週の金曜、やはり潤に誘われて飲みに行った。居酒屋で飲んでいると、女性2人が入ってきて僕たちのテーブルに座った。その女性の1人は潤の彼女だった。もう1人の女性は知らない人だった。2人揃って、いやそれに潤も交えてしきりに僕の趣味嗜好を尋ねてくる。そこでようやく僕はこの事態を悟った。
「いやホントこの前はゴメン。そんなつもりはなかったんだけどさ、へへ。今度は大丈夫。大丈夫っつーかただ飲みにいくだけだよ。ねぇ、ハツエさん。この男ときたら大の女嫌いなんですよ。どうにかならないですかねぇハツエさん」
「まぁ。あなた女性がお嫌いなの? お気の毒にねぇ。私がもう少し若かったらねぇ」
潤が下品な大笑いをして、僕も愛想笑いを浮かべる。ハツエさんは脳出血で麻痺してしまった右手をかばうように左手を乗せて上品に笑っている。
「だけどあなた、人生は短いのよ。若き日というのはもっと短いの。女性だけじゃなく人に関心を持つということは大切なことなのよ」
ハツエさんは笑みを崩さずに言った。
「そうですね。だけどハツエさん僕は女性が嫌いってわけじゃないんですよ。それじゃあ僕はこのあと入浴介助があるから」
「土曜の件、よろしくな」
「わかった」
僕は手摺りのついた長い廊下を歩く。周囲は消毒液と紙オムツの臭いが入り混じった独特の匂いがする。この匂いが身体に染み付いて4年経つ。4年前の僕は人生のどんな香りも知らなかった。その香りにどんな思いが詰まっていてどんな物語を持っているのか。たった一つだけ確実な香りの元に生きていた。山の匂い、海の匂い、人の匂い、僕にはどれも必要なかった。あのアパートの玄関の隅に置いてある小さな小瓶のあの香りだけで充分だった。あの香りに全ての想いを閉じ込めた。他に何もいらない。他に誰もいらない。
 
毎日が単調に過ぎていく。僕はここで「死」という概念さえも単調というサイクルに取り込もうとしている。僕は変化を望まない。複雑化・多様化する21世紀の社会など必要ない。シンプルに。よりシンプルに。たった一つの想いだけ抱えて生きていく。たった一つの香りを大事に抱えて生きていく。
 
土曜の夜、同僚3人と前回コンパがあった居酒屋に飲みに行った。話題は決まって女の話か仕事の愚痴。僕は相槌を打つくらいで話の輪には入らないけれど、彼等の話を聞くと実に様々な女性がいて、諸々の恋愛の形がある。浮気、不倫、二股……。それぞれがそれぞれの主張でその行為を正当化しようとしている。
「なぁ広人、ひどいだろ。こいつの彼女。散々貢がされた挙句、あなたは優しすぎるなんて言われて別れたんだぜ」
「優しすぎるから別れるなんて理由になってないね」
「だろ? 広人もそう思うだろ? そんな女ろくな生き方しねぇよ」
「そうだね。だけどそれなりに理由があったんだろうし」
「お前どっちの味方なんだよ」
居酒屋のやっと4人が入れる小さな個室に笑い声がこだまする。僕は煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐いて目を閉じる。
 
「今まで本当にありがとう」
 
煙草の煙の行く先をぼんやりと見つめながらあの日のことを思い出す。別れる理由。人はそれぞれ自分にしか理解できない「それなりの理由」の元に生きている。

表紙