| 猫 |
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真っ白な猫が、僕の目の前で「ニャア。」と鳴いた。 子猫のような小さな形をしているくせに、生意気な目つきで妙に断定的な口調でそう鳴くのだ。 僕はポケットを探り、最近居着いてしまった居候君のために鍵を出した。 扉が開くと僕の方を振り向きもせずに部屋の中へ入っていく。 そして、暖房をつけるといつのまにか部屋の隅に置いてあるソファーの上で欠伸をしている。 僕の食料から少し分け前を分けてやっていたはずだったのに、いつのまにか立場が逆転しているのだ。 猫は遠慮という言葉を解さない動物なのだろうか? 僕と猫の付き合いは短い。 まだせいぜい一月といった程度だろうか、猫は最初もっと小さかった。 顔は可愛らしかったような気がする。 少なくとも、あんな偉そうなふてぶてしい顔で僕のことを見たりしなかった。 ただ、猫が人間にあれほど懐くとは思っていなかった。 足にすりよってきた猫は、僕にとっては信じられないものだった。 友人は、野良猫じゃなかったんだろう、と言って笑ったが、僕はその不思議な感覚が未だに尾を引いているような気がする。 今もまだ、その猫が不思議な存在のような気がするのだ。 ある日階段を上ると猫の姿が見当たらなかった。 毎日僕が帰ってくると僕の前に姿を現すのに、今日に限って気配すらない。 猫は気まぐれだ、というのは有名だが、あの猫には妙な律儀さがあった。 僕の猫は白くて小さくて非常に偉そうだ。 猫は次の日に帰ってきた。 「どこに行ってたんだ?」 猫はちらりと僕の方を見ると、呆れたように鼻からため息を洩らした。 この猫はどうやら僕の言っていることが分かっているようだった。 それもまた不思議だった。
そうして「そんなもんだよ。」と口にするのだ。 それでも僕は不思議でたまらないような気分になることがある。 僕の猫は他の猫とはどこか違うのだろうと思うのだ。 「そうかも知れないね。十年後には分かれた尻尾が生えたりしてね。」 友人はそう言って揶揄すると、また笑った。 友人は僕の猫を見たことが無い。 だから、毎回僕の話を聞いては笑うのだろう。 僕は何気ない風を装って、その友人に猫に会えばわかるよ、と促した。 友人は、やはりいつものように笑った。 馬鹿にしているようには見えないその笑いの意味を、僕はずっと気付かずにいた。 ただ、特に不快にも感じず、何故笑うのかとちらりと感じた程度だった。 僕はその後も猫との生活を続けた。 あの日を覗いては、急にいなくなることもなく
この猫もいつしか僕の目の前から姿を消すのだろうか。 僕はソファーで伸びている猫をぼんやりと見つめながら、ふとそんなことを考えていた。 それからは、なんとなく猫から目を離すのが心配になった。 いつか訪れる死に対する恐怖が朧気に僕の中に浸透したのだと思う。 僕は自分の死についてすら、全く遠い出来事であると認識しているにも関わらず、 そうして、妙な鬱気分を時折感じるようになっていた。 友人が死んだのは、そんな折だった。 僕はその事がまるで現実ではないような妙な気分になった。 猫の死について恐怖を抱いていた僕は、その友人の死については可能性すら考えていなかったのだ。 僕はその友人との最後の会話の内容すら覚えていなかった。 平穏な日常の出来事はあまりにも一般的で 僕には、友人の死が奇怪な出来事のように思われた。 事故死だ、と涙ながらに告げた友人の母親の声すら、僕には遠く感じた。 非日常が僕の平穏を奪うのだ。
僕にはそんな単純な問いの答えすら分からないのだ。 友人に最期の別れを告げてアパートに帰った日から、僕は独りになった。 猫も友人も姿を消してしまった。 僕には寂寥と奇妙な感覚とだけが残された。 遠く離れたところにいる僕の近しい者達が、僕の投げた綱を引きちぎって背をむけて行ってしまうような 僕は戸惑っているのだろうか?
気紛れな猫は三日たっても姿を現さなかった。 僕のことを忘れて、いつのまにか遠いところでまた偉そうにしているのかもしれない。 そう思うといくらか気分が落ち着いた。
生きているのと死んでいるのでは全く違うのだ。 僕は「奇妙」で括られた自分の世界を垣間見た。 引き摺られてはいけない。 何故かそれが自分の弱さの形、のような気がした。 僕は、沈みきった自分に辟易しながら重い視線を上げた。 そこには白い猫がいた。 僕は自分を嘲笑した。 少なくとも、卑屈な思考が過ぎったことは間違いない。 それは幻覚だと瞬時に感じた。 猫は悠々とソファーの上で伸びている。 僕は、その猫の尻尾が確かに割れているのを見た。 幻覚は鮮明で立体的だった。 僕を慰めるには充分な出来で、僕はやはりその猫は不思議だと感じた。
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