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[1]
まるでくちはわに噛み付かれたみたいだった。フェルナーは暗視ゴーグルを毟り取るように外し、左眼を蔽う不透明テープを剥いだ。
「撤退だっ」
とっさに口を突いた言葉に、闇の重さが圧し掛かる。
「エリアからの離脱を目的に設定しなおす。各分隊長で誘導しろ。その後は好きにして構わん。番号若い方から3隊は時間稼ぎだ。陽動も散らして来い」
「この計画は捨てますか」
ハウプトマン少佐が機関銃を構えながら確認した。彼はそちらを振り返りつつ無造作にガス弾の安全ピンを抜き、
「ああ、この員数じゃ無理だろ。降伏できなくなるような撃ち方はしなくていいからな」
応え終わる前に館の門前へ放り投げた。大抵のことでは慌てないから使える男ではあるのだが、細かに指示したのは、こいつは実は目の前の事に熱中しているだけじゃないか、と危ぶんでもいるからだ。
「それにしても、流石にローエングラム候とその腹心だ。俺ごときの小細工が通じる相手ではないな」
銃を構え己を皮肉るように呟くと、それに何か答えたらしいのが、銃声の応酬の中に消えた。無心に四半時も引き金を引き続けた後で少佐は舌を噛み、
「あー、すんません、ここんとこもろに当たってますね」
「そろそろ引くか」
フェルナーは言って銃口を上げた。
「じゃ、居残りを拾って来ます」
「俺は反対まわりで行く。裏から抜けよう」
「了解しました」
通りの植え込みに沿って身を隠しながら裏手に出る。人影はもう殆どなかった。
「通り向こうに移ったのか」
彼が呟くと、物陰から出てきたひとりが「撒いてきました」と答えた。
「それじゃこのまま消えるとしよう」
言葉の上を軍靴の音が過ぎった。ハウプトマンは耳をそばだててそれを数え、
「4・・・5人ですね」
「やるぞ」
彼は命じながら自身でもエネルギーパックを装填しなおした。
「了解」
「来ます」
「よし、一人目をヒットしたら展開する。ドライ・ツヴァイ・アインス・ゲート!」
潜めた声の後で石畳を蹴ったら吸い込まれるように照準は定まり、打ち倒し突破し振り返って援護するのは、もはやただの習慣だった。目的のない乱闘は興奮を呼び起こさない。彼は苦虫を噛み潰し、鈍銀の銃をふるった。工作専門部隊ではないとはいえ、彼が掌握しているのは気圏内配備要員だ。機先を制すれば、同数の相手に負けることはまずない。
「直進していいんですか」
十字路の先を警戒しながら問うて来た部下へ、
「ああ、マキシム・シュトラーセまで出ればだいぶ拓ける」
と彼は首肯した。路上にちらつく光はまともにくらったサーチライトの残光だろうかと思っていたら、
「――あ、見つかったみたいですね」
ハウプトマンが平然と言った。彼は低く舌打ちをした。
「相手にするな、散開!」
鋭く声を上げて追い立て駆け出したまでは良かったが、右折しようとしたら角に躓いてバランスを崩した。暗視ゴーグルをしていた右目の奥がずきずきと痛んだ。強烈なドラゴンライトの残像が消えない。銃弾が首筋を掠めていく。彼は身を起こし再び走り出した。白い光と警戒のサイレンがいつまでも遠巻きに煩い。打開策を決める前に落ち着いた方がいい、と考えた彼は焦慮を圧殺して足を止めた。運動の後の深い呼吸が身体を折らせた。
「大佐」
少し先から聞き知った声が降ってきた。
「何だ?」
彼は不機嫌にハウプトマンを見上げ、身を起こした。
「これから、どうするつもりですか」
「適当に何とでもするさ。お前はこれからどうする」
威勢だけはいい返答に、ハウプトマンは小さく苦笑した。
「戻ります。報告する人間が居なくちゃ混乱するでしょうから」
「つきあわせて悪かったな」
彼はそう、胸を張ったまま詫びた。
「いえ」
男は首を左右に振り、砕けた敬礼を見せて踵を返したが、ややあって立ち止まり
「・・・大佐、またいつか誘ってください」
と、掛け値なしの笑貌を晒した。彼は握り拳を持ち上げ、
「おう」
声は石壁に響いてゆっくりと消えた。
[2]
当てもなく彷徨いつづけた彼はやがて四方を壁に囲まれた空間に出た。袋小路といえばそうなのだが、追手の気配はもう無い。あたりの石材に腰をおろし、重たくなった足首を回す。どうしたものかとは考えてみても、そう簡単に答えの出る問題でもなかった。夜が明けるまで息もうと決め、物蔭に滑り込んだ時、銃声を聞いた。骨髄反射で腰を上げ音源へ向かう。制式銃を構え、家壁に身を添わせて交叉に飛び出す。再び炸裂音がした。ここまでの方向は間違っていないはずだが、反響のせいでどの道を選べばよいのか見定めがたい。直感というほどの確信もなく右折すると、三度目の銃声。
(・・・銃声?)
軍の公用登録でも鉛弾式のシェアは確かに低くないが、今夜はどちらの隊もエネルギー・カプセルタイプを主力に設定していたはずだ。(別件か。)思わず舌打ちが出たが、確認をとるまでは足を止める理由にはならないし、目的地ももうさほど遠くない。三叉路を左に曲がると先に開けた場所が見えた。どのみち高く響く軍靴の足音を殺す事は考えずスピードを上げる。霞んだ右目の端で何かが動いたと思った瞬間には行く手は木戸に塞がれていた。回避する空間も停止するいとまもなく激突して足がもつれ、路地に腰をついた。
「五月蝿いわよ。何時だと思ってるの」
彼は歯軋りを我慢して声の主を仰ぎ見た。まだ若い。(餓鬼の為でもなけりゃ、女が夜中の騒ぎに口を出したりするもんか。)なのに相手には怯んだ様子はなかった。ドアについた右手を見た。戸口についた左手を。武器がないかわりに指輪もなかった。確信犯だ、と嗅覚で判断する。
「助けてくれ、追われている」
声がしゃがれた。
「・・・いいわ」
青い目を俯けて女が答えた。項から香気が立ち上るようだ。彼は立ち上がり、制式銃を腰間に収め、軍服の埃を払った。
足を踏み入れた家は、質素だが小奇麗な内装だった。汚れのない壁紙、天井。大切に使い込まれた戸棚、テーブル。背後で施錠の音がした。とたん、息苦しくなった。
「その代わり、出ては駄目よ」
鎖された扉はもともと嫌いだったが、恐怖症めいて喉が詰まるそうでは、第一線の軍人は務まらない。振り返り、家主を見る。リスクはお互い様。何も問えないことに気付いた。女の唇がふわりと動いた。いとも軽く、
「一体誰に追われてるの?」
「さあ・・・陸上部隊だったはずだけど、そろそろ管轄が移行してるかも」
答えながら猫毛に指を潜らせる。彼女は椅子を指し示し、座るように言った。
「何をしたわけ?」
言いながら冷めたポットを傾け、彼に紅茶のカップを差し出す。彼は礼を呟いて受け取った。
「別段何という事もない。戦争をしているだけさ」
「呆れた」
と女が囁いた。彼はカップに伏せていた顔を上げた。彼女は笑っていた。彼はテーブル越しに手を差し延べた。
「名前は?」
「ルティア」
それきり黙る。
「俺にも聞いてよ」
身を乗り出すとくすりと笑みが漏らされた。それを掬い上げるように唇を奪う。
「・・・何て呼べばいいの」
「フェルナー」
どうせ朝にはばれるさと、彼は開き直って本名を告げた。帝都の防犯体制を甘く見ているつもりはない。それでも失敗した事実は己の限界と腹を括るにしても、この上転ばされてただで起きる気はさらさらなかった。
「フェルナー・・・」
ソプラノヴォイスが名前をなぞった。伏せられた眼差しが、手付かずのカップを見ていることに気付いた。
[3]
聞き出さなければ安心して眠れない。
案の定の要求をフェルナーは受け入れ、寝物語だ、と吹き込んだその夜の顛末に、彼女は顔を顰めながら彼を眺め上げた。
「どうしてまたそんなことを・・・」
「きっと、何でもいいからしたかったんだろ」
と、彼は他人事のように笑う。ブルネットを絡めとり、
「軽薄さの内に自足していられるのは、幸せな事だわ」
突き刺さる言葉を無視してシルクの肌をあじわう。その時、木と鉄の打ち合わされる音が響いた。ノッカーか、と気付いた時には彼女は起き上がり、彼の胸に枕を押し付けていた。
「出ては駄目よ」
囁き、素早く口付けして身繕いを整える。彼は鷹揚に頷き、出て行きながら振り返るのへ手を振った。微笑が返され、戸の向こうに消えて、ひとりになる。明かりは枕元のランプだけ。影が不安げに揺らめく。
鎖された扉が苦手なら尚のこと、切り取られた立方形は息苦しい。それが最初に言葉になった思考だった。
彼は放り出していた上着からシガレットを取り出し、火をつけないまま咥え、上方を睨みつけた。どうしてこんな事態になったのか――問われて答えられないような物だったか?
何かせずには居られなかったのが、突き放して振り返って見ると確かに不可解で、気まぐれと取られても仕方がないような突飛だった。やむにやまれぬ気持ちはどこから沸いてきたのか。無論忠誠だの勤労精神だのではないのだろう。何かしなくてはという意思が、職務上の義務とは直接結びついていない。この曲折は、上司の暗愚だけには帰結させられない。己の内の不確かな欲求と、混乱した期待。
彼は吐息し、汚れのない天井に遠慮していた火をランプから盗んだ。数週間前、体に悪いから止めろとハウプトマンに言われたことを思い出した。
『餓鬼じゃないんだから自分で判断する』
体に悪いなんて知らないわけがない。その上で言っていいのは彼女ぐらいのもんだろと邪険に言い返すと、
『小官もそういう認識だったんですが、この間恐ろしいデータを見つけまして』
と、真顔でラット実験のデータ一式を差し出された。細かい数値は覚えていない。ともかくその時には、その程度のリスクで習癖を変えるつもりはなかったのだろう。紫煙がすうと立ち上ってゆく。雑誌のコピーには、こんな実験も続いていた。
2群のネズミたちをひとつの水槽に容れるのだ。容器がどれだけ大きくても、2つの家族は縄張り争いを始める。帰趨はじきに決するだろう。それから後は、標的が消失するまで決して止むことのない殲滅戦。
狩られるネズミたちの大半は、致命的な傷が原因で死ぬのではない。腹膜を破られたり多量に失血したりすることによって命を落とすものはむしろ稀だ。小さな傷からの感染症や餌にありつけないことによって死ぬものも居るが、多くはない。もっとも多くは、内分泌系の撹乱によって死に至る。いかなる行動を起こすことも叶わない状況において、ストレスは睡眠を奪い、不眠はある種のタンパク質の修復を妨げ、彼らは衰弱して死ぬ。
もちろん彼はそれほどやわではない。が、問題の本質は変わらない。重要なのは希望が、新たな行動の余地が残されているかどうかということだ。鎖された扉が、彼は大嫌いだった。
[続]
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