キスリングキャンペーン
協賛作品
通り過ぎる千もの、


[1]
 総旗艦ブリュンヒルトにおいては、艦長の指揮権下にある艦隊警備隊と皇帝直属親衛隊が、艦内防衛における二重構造を作り出している。カイザー・ラインハルトの病室の外に控えていた親衛隊長ギュンター・キスリングは、叛乱軍侵入の報を受けるや、そこを副隊長に任せ直ちに隊本部へ向かったが、「初動で遅れるな!」と部下達を叱咤したとき、その二重構造の中に存在する己と相手の競争意識や排他精神は念頭にあったのか、無かったのか。
「総員配備だ。第1隊と第2隊は御座を固める。他は前へ出て早期撃退を図れ」
本部はすでに騒然とし、細かい人間関係のことなど考えていられなかった。
「敵戦力は?包囲できる数量なんですか?」
「連絡は」
「入ってません」
銃器の触れあう重い金属音の中で声が張り上げられた。
「では斥候を出そう。ひとまずは船首方向に重点配置、状況が判明し次第対応。第3隊、出られるか?」
「JA」
彼は長銃を担ぎ上げた。機械式開閉のドアを白手袋の掌で押さえたまま、応えた部下を促し、
「後続は準備が整い次第、各中隊長の判断で投入!」
戸口で振り返って指示を下す。踵を返した背で、ドアの閉まる鋭い音を聞いた。裏道にあたる廊下はまだ静かだ。
「戦力が揃うまでに四方を埋めておこう。必要とあれば設備を接収して――まてよ、退避はどうなっているんだ?」
 警備隊は常から動いているはずだったが、精鋭を指揮するキスリングはいまひとつ彼らを信頼しきれていない。
「それ、うちの管轄じゃないでしょう。警備隊の動きがあるんじゃないですか」
「待ってられるか」
低く舌打ちしたとき、肩帯に留めてあった通信機がアラーム音を立てた。
「私だ」
『防衛司令官がお会いしたいそうです』
「――防衛司令官?」
『副艦長のマットへーファー中佐が兼任していますが』
「それじゃこっちも副長でいいだろう。俺は手が放せん」
『そのように伝えます』
「ああ。ユルゲンスには私が指示する」
『了解しました』
 キスリングは目線だけを動かし、先に行けと部下達を促した。足を止め副隊長を呼び出そうとすると、
『第4隊、出動します』
連絡とほぼ同時に斥候が駆け戻ってきた。
「敵軍、橋頭堡を確保!」
 ――早い。
 勢いをつけさせては拙いと、彼はとっさに判断した。
「第4隊、現場に急行しろ」
『JA』
通話が終わるのを待って、部下は報告を続けた。
「装備は白兵仕様、数およそ800、隊章はローゼンリッターです」
「よし、我々も現地へ向かう」
 悪鬼の代名詞を、彼はこともなげに無視してみせた。内心では何と厄介な敵かと歯噛みしないでもなかったが、臆病が身を守ってくれる時期はとうに過ぎたのだ。殊更何を口にのぼらせる必要があるだろう。彼は今や責任を伴う地位にあり、部下を怯ませるわけにもいかなかった。命令に従って駆け足に通路を進む隊員の1人を、彼は呼び止めた。
「いざとなれば隔壁をおろして侵攻を食い止める。管理部門に行って来い」
「了解!」
進路を変えながらの敬礼へ首肯で応えた彼は、先を急ぎつつ改めてユルゲンスを呼び出す。ざっと状況を説明すると、副隊長は玉座近辺の指揮に誰を残すか上司に相談した後、すぐに移動を始めた。
「連中が来たら譲ってやるさ。こっちは白兵装備を整えてもいないからな。だが来たらの話だ。下手に出ることはない。それから、命令系統の独立は保持!」
『わかりました』
少し苦く、しかし機械的に答えてユルゲンスは通信を切った。殺戮の現場まで、もう角3つ分の距離しかなかった。



[2]
 1つ角を曲がると、エアコンディショニングのつくりだす微風にのって血の臭気が漂ってきた。ギュンター・キスリングともなれば吐き気を催すほど青くもないが、大気が含むそれは、単純に臭気だった。同じ血と肉で己も造られているというのに。彼には時折、それがやりきれなくなる。
 ――台所のさ、蟻の通り道なんかに死骸を置いとくと、来なくなるだろ。あれと一緒じゃない?
 いつだったか洩らした困惑に、旧い知己はそんな風に笑った。それでも、本能から脱却できないのは卑しいことではないかと彼は猶疑う。理性から離れることはすべからく悪ではないかと。
 命を落とした同胞のために、彼は短く、2秒に満たない瞑目を捧げた。角をもう一つ曲がり、2手に別れて壁沿いに進む。臭気はますます濃くなる。彼は深く息を吸った。臓腑に黒々と憎悪が根付く。最後の角を前に立ち止まり、片手を広げた。合図と共に一斉に盾を列べさせる。
「来たぞ!親衛隊らしい」
 30メートルほど向こうで声が挙がった。帝国なまりの同盟語に、こちらを意識したとしか思えない帝国語が続いた。
「おいであそばした、と言うべきさ。なにしろ、皇帝陛下の親衛隊でいらっしゃるからな」
「新無憂宮の着飾ったマネキン人形たちさ」
 キスリングは銃口を並べさせ、第2射、第3射と人員を割り振った。
「こらあ、新無憂宮の∞%$£∴#&×§!さっさと宮殿にもどって、舞踏会の警備でもしてやがれ」
 自身も盾の影に身をしずめ、ビーム・ライフルを構える。傍らで若い隊員が、顔を真っ赤にしていた。羞恥か憤怒かは分からないが、何にしても必要以上に力が入るのは好ましくない。彼は青年の肩をぽんと叩いた。
「ただの挑発だ、気にするな」
生真面目な彼には罵倒を返すという発想もない。だからこそこの手の罵声は、無意味なものに思えた。
「馬鹿の相手をしても疲れるだけだからな」
余裕を作為している自覚もなく小さく笑って隣から視線を放し、まだ続いている怒鳴り声を聞き流して安全装置を外し、唇を舐める。
「Schiessest!」
引き金をひく直前に鋭く、擦過音で命じた。光が意志に追いすがるように通路の先へと飛び出していった。応射も来たが、長距離火力ではこちらが優っているようだった。このまま潰せるか、と考えたとき、艦隊警備隊が到着した。
 長距離戦で消耗させた方が有利だ。相手は、名に聞こえた白兵の猛者。しかし警備隊が出て来たらその場は譲ると、言質を与えてしまった手前がある。聞く耳持たぬ緊迫の眼差しでマットへーファーに促され、彼は床についていた膝を浮かせた。
「下がれ!」
 立ち上がると首筋を汗が伝った。命令は速やかに実行されたが、白兵戦から一歩引いた位置で、彼は不満顔を突きつけられることにもなった。
「後方援護だ」
先回りしてねじ伏せるように言ったところで、通信機が受信を知らせた。
「何だ?」
『大至急艦橋に来るようにと――』
「状況を考えて物を言えっ」
八つ当たりの怒声に弱気ないらえが、
『・・・メックリンガー上級大将が言ってきたんですが』
 キスリングはポーカーフェイスに戻り、それから眉を曇らせた。
 彼の御仁は今や幕僚総監。皇帝に直属し独自の命令系統を保証されている親衛隊と言えど、”大本営”の防衛を目的として動くなら、無視できる筋ではない。その上大家が出てくるのは、状況が思わしくないことのシグナルだ。
「分かった、すぐに向かう」
彼は思考と感情を切り捨て、首肯した。


[3]
 艦橋へのドアは自動人物認識装置を備えていて、キスリングが掌の3分の1ほどの釦を叩くように押すと、殆どタイムラグもなく横へスライドして開いた。数歩の階段を彼は足音もなく登った。目の前に指揮シートがある。斜め後ろが彼の定位置だった。そこまで上り詰め、彼は御座ごしに己を呼び出した男を見遣った。
 当然の事ながら、シートは空席だ。そんなことは状況からして分かり切っていたし、艦橋に入った瞬間にもありありと意識させられていた。だから殊更な感慨があるはずもないのだが、主のいない指揮座はやはり痛々しいほど空虚だった。
「ご用と伺いましたが」
 言葉とトパーズの瞳を向ける先には、幕僚総監メックリンガーがいる。
「別室へ移ろう」
と、幕僚総監は振り返りながら言った。キスリングは声こそ立てなかったが、不審を露に身構えた。男は気取って、
「マットへーファーは当分抜けられそうもないからな」
 そんな戦況を艦橋詰めの人間に洩らして、不安を買うこともなかろうと言うわけだ。キスリングは無言で点頭した。船首方向に向かって左側に、作戦会議室がある。彼の予想した通り、芸術提督はそちらへ足を向けた。
 室内は無人だが一連の電子機器が起動され、艦内全域の警備データ、或いは戦況が刻々とアップされていた。
「確かに・・・中佐は抜けられそうもありませんね」
キスリングは淡々と呟いたが、では本件に関して彼と同等な立場にあるはずの己はどうなのだと考える腹の底では、不快と不信とが蠢いてさえいた。
「艦隊警備隊は艦長の指揮下になる。艦長の了解は取ってあるのだから、彼のことはもういい」
メックリンガーは背を向けたまま、押し付けるような言い方をした。その後にふいと、
「妥協をしたことがあるか」
「は?」
聞き返すや相手が繰り返そうとしたので、キスリングは慌てて言葉を継いだ。
「ありません。少なくとも、任務に関してはないつもりですが」
 メックリンガーはちらりと真意の読めない笑みを浮かべて向き直った。
「私はあるし、必要だとも思っている」
「はあ」
それで?とまではキスリングには言えない。
「共和制府を相手にしての話だ」
 この危急に世間話をしているつもりはない、と幕僚総監は念押ししたいらしかった。
「停戦ですか?」
 この戦況でそれでは降伏と変わりがない。親衛隊長としては無論承伏しかねる話だ。
「皇帝陛下は何と」
 あの光輝に満ちた軍神がそんな話に賛同するはずがないと、縋るような思いで彼は問いを重ねた。最終的に優越するのは、カイザー・ラインハルトの意志なのだ。キスリングは幕僚総監を真っ直ぐに見据えた。そこにあったのは、思いがこごるのを見澄ましている目だった。
「皇帝陛下は、こう言われた」
 メックリンガーは一度言葉を止めた。キスリングは焦りを表に出さぬよう、居ずまいを糺した。。
「もしも敵軍の領袖がたどり着いたら、会談を設けようと」
「――たどり着かなかったら?」
 そうする自信が、キスリングにはあった。代償の大きさは承知の上だが。メックリンガーはひたと視線を返してきた。彼にしては珍しい高圧的な口調で、
「分かっていると思うが、キスリング准将、妥協は”今”必要なのだ」
 今――ラインハルト・フォン・ローエングラムが存命していて、共和主義者がある程度の実体を曝している内に一定の協定を結んでおかなければ、ここまでして彼らの政治体制に拘る連中は、盤石とは言えない新帝国に後の厄を招きかねない。そうして今すぐの和睦は決してあり得ないことも、ギュンター・キスリングは厭と言うほど理解していた。否はないのだ。震える息を、抑えつつ吐く。
「彼の映像を下さい。連中は随分と好戦的で、手を抜く訳にはいきません」
 らしくもなく皮肉を帯びた依頼にメックリンガーは無言で頷き、該当するファイルを何枚か印刷するようコンピュータに命じた。
「親衛隊本部のコンピュータにも送って貰えますか」
受け取ったら直ちに戦場に戻る気のキスリングが急いた声を放つと、男は答えずに振り返って顎を引き、
「了承したものと考えるぞ」
と、両目を眇めた。
 精確を期するなら、メックリンガーの案は皇帝の意志そのままではない。確認はそれを踏まえての気遣いとも取れたが、一旦高圧的に出ておいてこれは、思い切りキスリングの勘に障った。
「小官に、裁量権はないんでしょう!?」
彼は呻くように答えていた。


[4]
(冗談じゃない。)廊下へ出るなりキスリングは舌打ちし、大股に歩き始めた。コストからいってもリスクからいっても納得できる話ではなかった。だが不純物が混入しているにせよ、これは皇帝の意志なのだ。もしも己がナインと言ったら、メックリンガーは代理人であるという立場を強調してみせたことだろう。幕僚総監は最後の問いに、同情を含んだ眼差しで首肯したのだ。キスリングは悪寒を押し付けられたような気分だった。通路を閉ざし、空気を抜いて、連中を皆殺しにしてやりたい。浮かんできた考えを揉み消す。訓練された躰は筋肉の動きを阻害する物を許さない。寒気は背骨の中で震幅し、増幅された。


通り過ぎる格子のために疲れた豹の目は
もう何も捉えることが出来ない
彼には千もの格子があるかのようで
千の格子の背後に世界は見えない

 彼は頭を振って余念を追い払い、詰め所に飛び込んだ。
「御座付近の構造を出せ」
「は!?」
「警備を増強する」
「前線の状況はそんなに悪いんですか?」
がたりと椅子を蹴って立ち上がりながら、緊迫の面持ちの部下が訊いた。
「わからん。だが会談になる可能性が出てきた」
「どうしてまた」
「上層部の意向だ」
「隊長、構造図でました」
「効率を考えると、3割増強が限界ですね」
「それでいい、布陣しろ。それから――この人物との会談を皇帝はご所望とのことだ」
「それじゃとっつかまえてくれば話は早くないですか?」
「自力でたどり着いたら、なんだと」
キスリングは肩をすくめ、コピーを取って配布するよう別の人間に命じた。振り返ると部下は口許を歪めており、
「まるでたちの悪いゲームですね」
 口を慎め、と窘めるべきだったのかもしれないが、キスリングはそうする気になれず踵をかえした。ともかくこれでリスクを減じる手は講じたことになる。
「副隊長!」
 部屋を出ながら通信を開くと、応答は雑音の向こうから得られた。
『JA』
「状況は」
『ポイントfozi−hrn6704で交戦中です』
「防衛ラインでどのレベルだ」
『+9です』
 艦内地図に書き込まれたいびつな円は、12色の色鉛筆を2回ずつ使って24本。予想したよりはるかに早い侵攻スピードだ。
「これから私も向かう。人出以外で本部から出せる物はあるか?」
『いえ、補給ラインは生きていますから』
「分かった」
 悪寒はまだ続いていた。これは本来ならば身を震わせる怒りであったはずだと、今や彼は理解している。(冗談じゃない――俺の部下を無駄死にさせてたまるか!!)だが彼には、服従以外の選択肢はない。忠誠以外の指標がないのと全く同じように。どうすることもできないのだ。

この上なく小さな円を描いて回る
豹のしなやかな硬い足並みの忍び行く歩みは
大きな意志が麻痺して佇む
中心を巡っての力の舞踏のようだ

 彼は荒々しく角を曲がった。目の端にモスグリーンの軍装が2つ飛び込んできた。長銃を詰め所に忘れてきたことに気付いた。だがどのみちライフルに適した距離ではない。右腰のブラスターを抜いた。一人が指定の人物であることが見て取れた。どうして銃口をそちらに合わせてはならないだろう。キスリングは安全装置を外し、引き金に指をかけ直した。いまひとりと目があった。


[5]
 あざやかな緑の瞳は敵意に爛々としていた。「Go ahead!」睨み合ったまま男は言い、若い方の背を勢いよく押した。キスリングはじりじりと上げていたブラスターをそちらに向けた。自分が信じられなかった。(頭に血が上っているんだ。)それがどんな言い訳になるのか分からなかったが、白手袋に包まれた指は今や引き金を引こうとしていた。
 引いてしまったら何がどう変わるだろうか。頭の中は真っ白だった。刹那、視界の左端から白銀の光が飛び込んできた。戦闘ナイフだ、と悟るのに1秒はいらなかった。身を引きながら銃身で刃を受け、叩き落とす。碧眼の男が飛びかかってきた。体当たりしながらキスリングの右手を強く払う。横転したときには親衛隊長はブラスターが何処に飛んだのか見失っていた。カッとなった。(おいおい、まるで先までは冷静だったみたいな言い草じゃないか。)自嘲して相手の襟元を掴んだ。勢いのままに、取っ組み合った格好で彼らは床を転がっていた。そうしながらキスリングは辺りに視線を走らせる。装甲の相手に、素手では対応しきれない。注意が分散した一瞬、膝の裏に硬い爪先がかかり、体位をひっくり返された。
 男は彼の両肩を押さえ、勝ち誇ったような笑みを浮かべて早口に何か言った。キスリングにはよく聞き取れなかったが、マネキン野郎、と、面罵の声だけは耳朶を打った。とっさに左腕をつっぱって相手との距離を作った。抵抗されるのは待っていたとばかりに左肩を沈め、勢いをかって右から押し返す。王侯に仕える軍人のそれも親衛隊長ときては、いくら精悍に鍛えようと所詮飼い慣らされた猫だが、鼻梁に皺を刻み気合いと共に牙を剥いた瞬間には、彼は豹だった。


通り過ぎる格子のために疲れた豹の目は
もう何も捉えることが出来ない
彼には千もの格子があるかのようで
千の格子の背後に世界は見えない

 緑の目の男はまだ何かごちゃごちゃ言いながら足を跳ね上げた。咄嗟に身を離した彼の脇腹を、とぎすまされた踵がかすった。いっそ立ち上がってしまえば上背の分だけ有利になるか。敵兵の鎧はあちこち崩れていて、こちらから全くダメージを与えられないこともなさそうだった。だが相手はそれを許さなかった。斜めから彼の喉元に拳を叩き込み、再び馬乗りになる。息が詰まった。多少でも呼吸が楽になるのを待たずに、男の体へ交差させた腕をかける。両肩を開いて投げると、追突音のあとに呻き声が上がった。だが男は身を起こすが早いか、心臓への一撃と共にのしかかってくる。かしゃりと音を立てて、プレートが一枚床に残った。
 それからどれほど優劣が入れ替わったか、キスリングはすぐ先の視界が壁面によって遮られているのを発見した。上位にあったのは親衛隊長その人。彼は遠慮会釈なしに、相手の頭を行き止まりへ打ち当てた。足許で金属が鳴った。ブラスターだ、と言葉にして思うより早く彼の手はそれを拾い上げていた。好機だ。ただ一度の。
 身を起こしかけた男の目から切り札を隠し、上を取った。男は両手で彼の胸元を掴んだ。遠くで短い合成音が流れた。
『私は宇宙艦隊司令長官ミッターマイヤー元帥である。・・・・・・・・・。』
 キスリングは銃を握った右手を大回りに振りかざした。侵入者が反応する。その左手を同じ側の手で押さえた。残りの手は肩でブロックできる。
『戦うのをやめよ』
 彼は男の左こめかみに銃口を押し当てた。
『和平こそが陛下の御意である』
 そのまま、動けなくなった。

この上なく小さな円を描いて回る
豹のしなやかな硬い足並みの忍び行く歩みは
大きな意志が麻痺して佇む
中心を巡っての力の舞踏のようだ

『戦うのをやめよ!和平こそが陛下の御意である』
 男の視線を痛いほどに感じる。彼は銃口を地に落とし、身をもぎ離そうとした。とたん強烈な蹴りを腹に食らった。きれいに鳩尾に決まっている。体躯が折れた。膝をつき、こみ上げてきた物をこらえる。侵入者はまだ立ち上がっていなかった。
「ふざけるなッ」
キスリングは再び銃を掴み、今度は眉間にひたと据えた。男の背は壁だ。相手に立ち上がる意志のないことが見て取れた。怒りと嘲弄が緑の瞳の中に渦巻いていた。そうして、キスリングは――キスリングはもう一度、思い知らされる他なかった。忠誠と服従だけが己の選択肢なのだと。

ただ時折瞳の帳が音もなく上がると
――その時何かの影は入って
四肢の張りつめた静けさを巡り
心臓に至って存在を止める

 彼は再びしずかに照準を外し、銃をホルスターに納めた。立ち上がると体中が痛みを訴えた。唇が濡れているのに気付き手の甲で拭った。血が白い手袋を汚した。面を上げると、己の物か相手の物かしれないが、廊下にも血の痕がひとかたならなかった。
「名前と職位階級を」
 彼は肩で息をし、目を合わせぬまま男に訊いた。殺さないのは彼の選択だった。この混乱の中、抜け道や言い訳はいくらでもある。忠実であることは彼自身が己に課した義務だった。殺すこともできる。だが、他のあらゆる感情とあらゆる価値に優先する忠誠が、彼の拠って立つところだった。他の全てに逆らってもそれを守ることが、彼にとっての理性だった。
 再び問おうかというほど彼を待たせてから、侵入者は応えた。
「オリビエ・ポプラン、空戦隊隊長中佐」
 キスリングは吐息を答えに代え、踵を返した。
「おい、あんたは」
男が後背から声をかけてきた。
「俺は捕虜じゃないんだぜ?」
 彼は立ち止まり、振り返った。
「ギュンター・キスリング准将、親衛隊長だ」
そうして音もなく、彼のあるべき場所へと歩を進めた。

灰色で表記した詩はリルケの「豹/パリ植物園にて」です。