| 6巻 |
P41 |
キュンメル事件
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その日、7月6日、皇帝ラインハルトに随行してキュンメル男爵邸を訪問した者は16名であった。キュンメル家の当主の従姉であり皇帝の主席秘書官であるヒルデカルト・フォン・マリーンドルフ伯爵令嬢、皇帝の主席副官シュトライト中将、次席副官リュッケ大尉、皇帝親衛隊長キスリング准将、そして侍従4名、親衛隊員8名である。 |
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P47 |
キュンメル事件
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ハインリッヒは笑った。従弟の衰弱した心身をかろうじてささえるエネルギーの源泉が悪意であることを、ヒルダは実感して、救われがたい気分になった。彼女は、血の気のない顔の中で熱狂にきらめきを発している従弟の両眼を正視できず目をそらし、ひそかに息をのんだ。黄玉の瞳と、足音をたてない独特の歩きかたのために「猫」とか「豹」とか呼ばれるキスリング准将が、さりげなくもとの位置から移動しつつあったのだ。
「静かに!」
はかったようなタイミングで発せられたハインリッヒの声は、大きくも強くもなかったが、激情の鉱脈が空中に露呈していたので、キスリングの瞬発を未然におさえこむに充分な迫力があった。
「静かに。あとほんの数分だ。ほんの数分だけ、ぼくの手に宇宙をにぎらせておいてくれ」
キスリングは救いを求めるようにヒルダを観たが、彼女はそれに応えられなかった。 |
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P53 |
キュンメル事件
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「ことわる」
「私は見たいのです」
「卿には関係ないものだ」
「・・・お見せなさい、陛下」
「陛下!」
この声はシュトライトとキスリングが同時に発したものである。彼らは皇帝に妥協を求めた。至近の距離に味方がいるからには、たとえ秒単位でも時間が必要であり、それをかせぐ手段ほど貴重なものはないはずだった。子供っぽい抵抗をこころみて暗殺者を激発させるのはおろかというものだった。
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P53 |
キュンメル事件
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ホルマリンづけの標本を思わせる生気のない手が、跳躍する蛇の動きで伸び、皇帝の胸にかかったペンダントをわしづかみにした。それに対する反応も常軌を逸していた。ラインハルトの、これは画家がモデルにと望むほどかたちのよい手が、半死の暴君の頬をしたたかになぐりつけたのだ。人々は肺と心臓の機能を急停止させたが、起爆スイッチが男爵の手から石畳にころがるのを見た瞬間、生き返った。キスリングが、ほんものの猫もはじらうほどすばやくハインリッヒに躍りかかり、椅子ごと引きたおしてのしかかった。
「乱暴しないで・・・!」
ヒルダが叫んだとき、すでにキスリングはハインリッヒの細い手首を離していた。彼の力強い掌のなかで男爵のひ弱な骨格に亀裂のはいる音がして、黄玉色の瞳をもつ勇者をひるませたのだ。不当な暴力をふるったような後味の悪さをおぼえながら、キスリングは一歩しりぞいて、大逆の犯人を、短い金髪の美しい従姉と、急速にせまりくる死とにゆだねた。彼の出る幕ではなかった。 |
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P56 |
キュンメル事件
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居城たる新無憂宮にもどったとき、皇帝ラインハルトは完全に偉大な支配者たる自己を回復しているように見えた。だが、誰ひとり予期しえぬ破局の原因となったペンダントに関しては一言も説明しなかったので、シュトライト中将もキスリング准将もいまひとつ落着しない気分だった。 |
| 9巻 |
P41 |
ヴェスターラントを忘れたか!
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(前略)したがって、このとき、ラインハルトに随従していたのは、フェザーンにおける帝国軍中枢部そのものであった。それだけに、警備の責任は重大である。別に今回にかぎったことではなく、親衛隊の幹部士官は、しばしば精神的重圧からくる胃痛との親交関係を強いられた。副隊長ユルゲンス大佐が、小食にもかかわらず「鉄の胃袋」とあだ名されるのは、なぜか一度も胃を痛めたことがなかったからである。
異変を察知したのは、この「鉄の胃袋」であった。その原因を、彼は後日こう語った――他の者は皇帝陛下を見ていた。自分は皇帝を見つめる者を見ていたのだ、と。
大佐にささやかれて、キスリングも黄玉色の瞳をひとりの男にとめた。兵士をよそおって軍服を着用した、30代半ばの男。だが、行動に、集団の一員としての秩序がない。キスリングはみじかく、的確に指示を下した。
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P42 |
ヴェスターラントを忘れたか!
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二重に電磁石の手錠をかけられ、両脇を兵士にかかえこまれ、電圧銃で抵抗力を奪われた犯人は、冷ややかに見まもるラインハルトにむかって、苛烈な叫びを放ったのだ。
「金髪のこぞう!」
玉座につくまでは、ラインハルトが耳なれていたほどの、それは罵声だった。むろん、その一語はローエングラム王朝においては、不敬の大罪を構成することになる。弑逆事件という広大な池に、雨粒の一滴がくわわっただけのことであるが。
なおも叫びを放とうとする口もとに、キスリングが平手打の一閃を叩きつけた。頸椎を捻挫するのではないか、と思われるほど容赦のない一撃が、さすがに男をたじろかせた。
「不逞なやつめ。きさまも秩序の破壊をたくらむ地球教とやらの狂信者か」
「地球教徒などではない」
切れた唇から、血と憎悪をしたたらせながら、男はうめいた。
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P43 |
ヴェスターラントを忘れたか!
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「何が皇帝だ。名君だ。きさまはの権力は流血と欺瞞の上に成りたっているのではないか。おれの妻子は、ヴェスターラントで、ブラウンシュバイク公ときさまのために、生きたままやきころされたのだぞ!」
ふりかざされたキスリングの手が、こんどは空中で急停止した。決断なり命令なりを求めるように皇帝を見やったが、金髪の覇王は、激烈な弾劾の前に、半ば茫然と立ちつくすだけである。
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P87 |
皇帝陛下と伯爵令嬢の問題の夜の後
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「ヴェスターラントの件が、よほど、御身に衝撃的であったのだろうか・・・」
その噂を、親衛隊長のキスリング准将は無表情に聞き流している。彼は、国務尚書マリーンドルフ伯爵の令嬢が皇帝の私室で一夜を過ごしたこと、皇帝が花束をかかえてマリーンドルフ邸へ早朝の訪問をおこなったこと、双方の事情を知っていたが、むろん口には出さなかった。「沈黙提督」エルンスト・フォン・アイゼナッハ上級大将にはおよびようもないとはいえ、口の堅さはキスリングの身上のひとつであった。
ラインハルトが夜ごと別の女性のもとを訪れたとしても、キスリングは口を箝して、他者に明かすことは絶対になかったであろう。その点においては、これまでのキスリングの口の固さは、むしろ宝の持ちぐされであって、ようやく真価を発揮したとすらいえる。キスリングにしてみれば、皇帝たる者、愛妾や情人の幾人かはいてもよいと思うほどなのだが。 |
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P114 |
ウルヴァシー事件
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23時37分、ラインハルトは、ミュラーおよびエミールと、地上車の後部座席に乗り込む。運転席にはキスリングが、助手席にはルッツが乗り込んだ(中略)
地上車の周囲に数条のエネルギービームが射こまれて、白煙を噴きあげる。キスリングの運転技術と、地上車自体の回避システムによって、直撃はまぬがれたが、ラインハルトはミュラーらの判断の正しさを認めざるをえなかった。ヘッドライトのむこうに、また車内の赤外線モニターのなかに、銃器をかかえた武装兵の群が浮かびあがった。背後からは、複数のヘッドライトから放たれる光の箭と、警報が追いすがってくる。
キスリングが低く口笛を鳴らした。
「一個中隊はいそうですな」
(中略)
キスリングらの残留の申し出を、ルッツははねつけ、かわりに銃のエネルギー・カプセルを受け取った。
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