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by.瑞菜櫂さん |
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軍務尚書執務室は、一番入り口の受付室、軍務尚書の執務机がある主執務室、セキュリティの厳しい資料室、殆ど使われていない控え室の合計四室で構成されている。通常、執務室と呼ばれるのは、主執務室のことだ。 シュルツの執務机は、受付室の中にある。時々、執務室内の作業机も使うが、そこは殆ど軍務省官房長官兼調査局長のアントン・フェルナー准将の専用となっていた。 僅かな手荷物を自分の執務机の上に置き、シュルツはその長身を弓のように反らして、深呼吸をする。優美とも言えるほど端正な顔には、憂鬱さの欠片もなかった。 黒い革張りの椅子に軽く腰掛けると、コンピュータの電源を入れる。二重のロックを外した後に認証番号を入力すると、漸く作業用の画面が現れた。 デスクトップに常駐しているメッセージボード――一定の法則で系統づけられるコードナンバを有したユーザだけが見ることのできる共通画面を提供するオンラインソフト――に、シュルツ宛のメモが二つ貼り付けられていた。 『今日は、調査局の方で作業をする。 この文書、ついでに報告書に纏め上げておいてくれ』 このメッセージボードは、彼を含めた軍務尚書の側近四人しか見ることが出来ない。その中で、誰がこれを書いたか、サインを見るまでもなかった。 (軍務尚書の秘書官が、調査局の報告書を作る『ついで』とはなにか、今度じっくり聞いてみよう) シュルツは悪戯を思いついた少年のような表情をすると、取り敢えず、メモと共に貼り付けられていた文書ファイルを作業用フォルダへ移す。 そして、もう一つ貼り付けてあったメモを見た。 『次の休日、ローテーションが合えば、我が家に来ないか? マリアンネとアップルパイが、卿を待っている!』 マリアンネとは、軍務尚書直属の軍官僚、ヘルマン・デートリッヒ・グスマン少将の一人娘の名前だ。グスマンはシュルツと同じく甘党なので、よくティータイムの誘いをかけてくる。 今年一〇歳になるマリアンネは、美形で穏やかな笑顔の父親の同僚を、甚く気に入っているらしい。未だ家庭を持たないシュルツは、グスマン家の心地よい暖かさが好きだった。 微笑みの色を濃くしながら、予定が合えば是非に、との返信を書いたところで、メッセージボードに彼宛ての新たなメモが現われた。 『中佐宛てのラヴレターを、七通お預かりしています。 尚書閣下に稟議書をお届けにあがる時に、持って参ります。多分、また増えているでしょうけど』 これは、側近中唯一の女性、調査局員ファビア・ゲオルク・ワイツェッカー少佐からである。 (またか・・・) ワイツェッカーのメモに対して謝罪と礼の返信を書きながら、シュルツは深いため息を吐く。 容姿のせいか、性格のせいか、その両方か。シュルツは男女を問わず、すこぶるもてる。だが、彼自身は、今は仕事に精励していて、あまりその方面に興味がない。当然、ラヴレターも受け取らないのだが、そうなると彼に接している人物の中で比較的声を掛けやすい女性のワイツェッカーを介して・・・と、考えるもの達が現れた。それだけでも困惑するのに、ワイツェッカーとシュルツの仲を勝手に勘ぐって、彼女に嫌がらせや言いがかりをつけるものが少なからずいるのだ。 確かに二人は、ラインハルトとヒルダ程ではないにせよ絵になる組み合わせだが、シュルツはワイツェッカーを女性としてみたことはないし、ワイツェッカーも同様だと思っている。 (第一、私では荷が勝ち過ぎるよ、少佐の相手は。フェルナー准将か、軍務尚書閣下ぐらいでないと無理だろう) 年齢も階級もシュルツの方が一つ上だが、ワイツェッカーはその隙のない笑顔のせいか、年上のめいた印象を与える。三〇にもならぬ女性の身で、軍務尚書の側近に成り果せている彼女は、やはり一癖も二癖もあるのだった。 ―――自分で入れた朝のコーヒーに口をつけながら、シュルツはメールボックスを開く。既に、伝達事項やら、面会申請やらで数十件の未読メールが溜まっていた。 軍務尚書が出勤してくるまで、あと三〇分。既に本日の予定は出来ているとはいえ、未読メールの中には割り込ませた方がいい予定もあるかもしれない。最終的な判断は軍務尚書が下すが、その手間を極力少なくするのも、彼の仕事のうちである。 シュルツがコーヒーカップを置くと、広い執務室内にキーボードを打つ音が静かに響いていった。 「査閲局から、フェザーン士官学校視察について、打ち合わせをしたいとの申し出が来ております」 「フェルナー准将に任せる」 「内国安全保障局局長が、今後の方針について閣下のご意見を拝聴致したく、お時間を頂きたいとのことです」 「却下」 「獅子の泉<ルーヴェンブルン>建設の件で、工部尚書閣下から面会の申請が出ております」 「可能な限り、早く」 半白髪の元帥は、ペンを滑らす手を休めることなく、簡潔かつ敏速に返事をしていく。それに応じるシュルツも、告げる用件はPDAを見ているとはいえ、与えられた指示は総て脳内へと記録していた。 軍隊において後方勤務、特に事務系統は兎角軽視されがちだが、軍務省の、少なくとも現在の軍務尚書の側近の仕事は、常人の勤めうる範囲を遥かに超えている。軍務省は、他の省庁より抜きん出て胃薬の消費量が多いことで有名だが、軍務尚書の側近四人は誰もそんなものを必要としないということは、省内では常識である。軍人というより、モデルといった風情のシュルツも、仕事に関係して胃薬を飲んだことはない。 「現在までの面会申請は、以上です。先程お伝え致しました本日の予定は、既に閣下の端末の方へ送信してあります」 PDAから顔を上げ、年齢を問わず、多くの男女を魅了する微笑みを浮かべた彼に、半白髪の元帥は書類に目を落としたままの姿勢で短く返答をした。 本来、軍人は無表情を常とする。まして、厳めしい表情ならば兎も角、笑顔など、上司によっては叱責の対象ともなる。 幸い、シュルツの上司は、軍人としてこの上なく理想的な表情以外をせぬ人物であったが、余程のことがない限り、部下にそれを強いることはない。ただし、余人が喜悦する彼の笑顔に、何らの価値も見出していないようではあったが。 「それと、資料室の今月のカードキーを預かって参りました。既に変更されていますので、お気を付けください」 そう言って、シュルツは胸ポケットから、数千万桁にも及ぶパスワードの記憶された、カード型の記憶媒体を取り出す。同時に小さな物体が落下し、軍務尚書の執務机の上を転がっていった。 「あっ・・・・・」 それは、苺模様のフィルムに包まれたキャンディだった。 手元に転がってきたそれに軍務尚書はペンを止めると、空いた手で拾い上げる。数瞬、それを薄茶色の義眼に映していたが、無言のまま、シュルツの方へと差し出した。 「も、申し訳ありません!」 「―――息抜き程度なら、よかろう」 感謝ではなく、陳謝するシュルツに、軍務尚書は短い言葉でその必要がないことを告げる。 勤務中の飲食は原則として禁止されているが、喉を潤す程度のものは例外である。その時に、小さなキャンディひとつ口にしたところで咎めるまでもない。 寛大なのか、無関心なのか分かりづらい上司の反応に、シュルツは素直に安堵の表情を浮かべる。礼を言って受け取ったキャンディをしまおうとしたが、一瞬、琥珀の瞳に思案を浮かべると、胸ポケットを探った。 「閣下。よろしければどうぞ」 視界には入るが、仕事の邪魔にならぬところに、新しいキャンディを乗せた手が差し出される。 書類に流れるような字体で己の名を書き終えると、軍務尚書は再び手を止め、純粋な好意だけに満たされた秘書官の顔を見上げた。 「いや。私は、甘いものが苦手なのだ」 謝絶の理由まで述べたのは、寡黙な元帥にしては珍しい気遣いであっただろう。 「そうですか。失礼致しました」 そういえば、と。シュルツは、受付室に戻りながら、記憶のページを軽くめくる。 (閣下は、いつもエスプレッソしか口になさらない。 以前、会議中に間違えてクリームコーヒーをお出しした従卒に取り成しを頼まれたこともあったな。もっとも、当の閣下はまるで気にしておいででなかったが) 脳内のメモを予定表へと入力し、再びメールボックスを立ち上げる。ふと、メッセージボードに目を移したら、ワイツェッカーからの新しいメモが貼られていた。 『現在、一一通めです。今日中に二〇通いくか、賭けません?』 一一の文字をわざわざ赤くしているところにワイツェッカーの茶目っ気を感じたが、嬉しくはなかった。 シュルツは思わず出そうになったため息を咳払いで誤魔化すと、僅かに残っていたコーヒーを飲み干す。本当はさきほどのキャンディを口にしたかったが、流石に今はやめておくべきだろう。 これ以上増えないうちに、昼休みにでも調査室へそれらを取りに行こうと思った時、シュルツの脳裏に全く関係のない思い付きが浮かんだ。 (甘くなければいいのか) その日の昼休み。調査室で一三通のラヴレターを受け取った後、軍務省ビルからいやに急いで飛び出していくシュルツの姿を、何人かの省員が目撃している。 余程忙しくない限り、お手製の弁当かパンを、アトリウムや軍務省ビル横の小さな広場で食べている彼の常ならぬ姿に、目撃者は一様に首をかしげた。 「失礼致します」 一五時を少し過ぎた頃。軍務尚書執務室へエスプレッソを運んできたのは、緊張した面持ちの従卒ではなく、隣室で執務中である筈の秘書官だった。 何故、彼自らそんなことをしているのか、軍務尚書は不思議に思ったが、寡黙な彼は敢えてそれを問う気にはならなかった。 広い執務机の上を秩序をもって占拠する書類の群れを器用にかわし、白磁にカラーの花を咲かせたデミタスカップが静かに置かれる。 薄茶色の義眼は、白と黄と緑と黒以外ある筈のないその場所に、鮮やかな青の存在を見いだし、それに手を伸ばした。 「シュルツ中佐」 退室の敬礼の腕を下ろしたところで、低い響きが彼を呼ぶ。銀のトレイを持ったまま、シュルツは再び執務机の傍に歩み寄った。 「これは、なんだ」 「キャンディです。レモンミントの」 軍務尚書の親指と人差し指の間には、青と黄色の水玉模様の、小さな丸い包みがあった。 「無糖ではありませんが、本当に僅かしか砂糖は入っておりません。ミントとレモンが効いているおかげで、甘みは気にならないと思います。 それに、糖分は疲労回復にもなりますから」 他意も衒いも存在しない『軍務省の精神安定剤』の笑顔に、軍務尚書は唖然とする。とはいうものの、普通の人間には無表情が心持ち緩んだようにしか見えない程度だったが。 「あの・・・やはり、ご迷惑でしたでしょうか」 ある意味、普通の人間ではないシュルツは、その僅かな変化に気づき、顔を曇らせる。 もし、彼が犬であったらば、耳は伏せられ、しっぽは力なく垂れていただろう。そのくらい、情けない顔をしていた。 微量のため息を吐くと、軍務尚書は秘書官の問いかけに否と答える。 「有り難く、貰っておく」 そのときのシュルツの表情の変化は、まさに急激といってあまりあるものだった。 流石の軍務尚書も、軍人がこれほど素直に感情を表していいのか不安になったが、時と場所をわきまえぬ人物ではないからと、一応納得した。 「中佐」 再び執務室を辞そうとしたシュルツを呼び止めると、軍務尚書は顔の前でゆっくりと手を組む。 「私はそれ程、疲れているように見えたか?」 「―――はい。いつもより、エスプレッソが一杯多く必要な程には」 スピーチ原稿を作るのは専門家がいる。執務補佐は副官の仕事だ。結局のところ、秘書官の仕事はスケジュール管理とそれに伴う折衝に尽きるのである。それらを円滑に進めるためには、洞察力と状況対応能力が必要だ。 シュルツはそれらを過不足なく備えていたが、なにより彼が最後まで初代軍務尚書の秘書官を務め得た理由は、その為人に帰結する。 『軍務省の精神安定剤』は、冷厳と謳われた義眼の元帥にとっても、必要だったということであろう。 黒髪の秘書官が退室した後、軍務尚書は可愛らしい包みから半透明の球体を取り出し、エスプレッソの代わりに口内へ滑り込ませた。 広がる香気と僅かな甘さは、決して不快なものではなかった。 その日から、シュルツの胸ポケットには、甘いキャンディと甘くないキャンディが種類を変えつつも、いつも同居していた。 それは、彼が軍務尚書の主席秘書官の席を退いた後も、途切れることはなかった。 |
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