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by.ゆきだるまさん |
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それは、どんなに振り払おうとしても、執拗に彼に付きまとっていた。一生縁が切れることはないと彼も信じていた。 あの時までは。 彼の名前は長い。ファミリーネームだけで15文字もある。両親はいろいろ考えてくれたようで、 ファーストネームは短い物を選んでくれた。しかし、それでも姓名合わせて19文字になってしまった。 初対面の人は二度、三度と名前を聞き返して、あきらめたようにファーストネームで彼を呼ぶようになる。 「ファーストネームで呼ばれた方が簡単でいいや」 それに、ファミリーネームで呼ばれるよりも親しみが沸くような気がする。幼い彼は、それで満足だった。 しかし、社会に出て行くに連れて何事にも弊害が出てくるものだ。学校に行くようになり、クラスが替わるたび彼には受難が訪れた。 自己紹介をすると必ずみんな笑うのである。中学校の卒業生総代の名誉も、氏名を呼ばれた際の爆笑の渦の中で、 重苦しい思いに変わっていった。自分には何の落ち度もないはずなのに、と彼は純粋な心を傷つけていた。 しかし、彼の受難は仕官学校入学と同時に更に増大することになる。 そこでは、お互いにファミリーネームで呼び合うという規則が存在するらしく、彼がどんなにファーストネームで呼んでくれと訴えても、必ず長い方の名前で呼ばれる。授業を離れたプライベートなときにはファーストネームで呼ばれる事もあるが、教官も同級生も、先輩も舌を噛みそうになりながら、必死になって長い名前を口に上らせる。 さらに任官してからは、「覚えずらい」「発音しにくい」「署名欄に入りきらない」などと苦情を言われることが増え、 果ては「どうしてそんなに変な名前なんだ」と、上官に叱責されることもあった。 彼は半ば諦めの境地に入り、「自分でもよく舌を噛まずに発音できるものだと思っております」と自虐的に笑うしかなかった。 それくらい彼の名前は複雑だった。 「スーン・スールズカリッター少佐であります!」 ビュコック元帥の副官に任命された彼は、勢いよく新任の挨拶をした。 前任者が心臓発作で倒れたための急な人事異動であったが、 同盟軍兵士の憧れと尊敬を一身に集める老提督に仕えることになって、 彼は心地よい緊張と高揚感に包まれていた。 実際、彼は鼻が高かった。同期の友人にビュコック提督の副官になると伝えると「本気で変わってくれ」と羨ましがられたくらいだ。 しかし、その幸福感も姓名を名乗ったところで急速に萎んでいく。 今までに受けてきた、名前に関する数々の理不尽を思い出して口の中が苦くなってくる。 「ビュコック提督は道理の解った方のはずだ。そうでなければ、これほどの尊敬を集めるはずかない。 長い名前くらいで嫌味を言われたり、叱責されたりはしないだろう。ましては笑ったりは、絶対にされないだろう。」 彼は、内心ではこう考えつつも、今までの上官との初対面の場面を思い浮かべて、 緊張が悪い方向に走り出すのを止められなかった。 強張ったように緊張する彼に向って、ビュコック提督は穏やかに微笑むと静かに声を発した。 「よろしくたのむよ。スーン・スール少佐」 彼は、一瞬何が起こったのか解らなかった。 「…か、閣下…?」思わず、目を点にして聞き返していた。が、続く言葉は辛うじて飲みこんだ。 「今、別人の名前を呼ばなかったか?単なる間違い?まさか、閣下はボ…ぼ…。 いや!そんなことはない!断じてない!ひょっとして人事の間違いで…。 じゃあ、この異動は別人に権利があるのか!」一瞬の間にこれ以上の思考が頭を駆け巡った。 蒼ざめて一人百面相をする彼に、頭脳明晰な老提督は改めて声を掛けた。 「スール少佐と呼ばれるのは嫌かね」 問い掛けられて我に返ってみると、そこには悪戯の行方を楽しんでいるような優しい瞳が彼を見つめていた。 洒脱で、ユーモアに富み、孫をいたわるような慈愛のこもった笑顔。 今までの上官達とは違い、彼の名前をからかったり、嫌味を言ったりは決してしないであろう穏やかな風情。 彼は深く息を吸いこんだ。 目の前が開けた思いだった。 「この方がアレクサンドル・ビュコック元帥なのだ。 同盟軍の至宝、唯一無二の提督、自分がお仕えするべき閣下だ。」 彼は、一足飛びに暗い落ち込みの谷底から、光り輝く雲の上まで浮上をはたした。 目の前にビュコック提督がいなければ、宇宙の彼方まで飛んでいったかもしれない。 「いえ!閣下の呼びやすい名前でかまいません!!」 ほんの少し頬を染めて晴れ晴れとした笑顔で、彼は勢いよく叫んだ。 それを見たビュコック提督は、満足げに頷いて重厚な微笑を作った。 心の中で「なかなか面白い男だ。これからは毎日、退屈せんだろう」などと考えていたことは億尾にも出さずに。 実際のところ、この慈愛のこもった笑顔と穏やかな風情の持ち主は、 一人で青くなったり赤くなったりしている彼の反応をかなり楽しんでいたのである。 もちろん、娯楽として。 その時から、彼はスーン・スールになった。 敬愛する老提督と別れ、その人のために滂沱の涙を流したときも、守るべき人を守りきれずに一人だけ帰還したときも、 スールを支えたのは、「自分はスーン・スールだ」という自負だった。 そして生涯、誇りを持ち続けた。 あのアレクサンドル・ビュコックによって蘇生された、おそらくは宇宙でただ一人の人間だとという誇りを。 |
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ゆきだるまさん |