ヒッタイト帝国の話

ヒッタイト帝国とは、「天は赤い河のほとり」(天河)の舞台となっている場所です。
「天河」は、驚く程史実に忠実に描かれています。
そこで、調べた史実を元に物語風にまとめてみました。

UPDATE : 2000/8/9


ヒッタイト帝国は、紀元前2000年〜1200年の間小アジアを中心に栄えた国である。
ヒッタイト人がどこから来て、またどうして滅んでしまったのかはまだまだ謎が多い。
彼らは、紀元前1750年ごろ小アジアに突然現れた。
 
ヒッタイトの最初の王の名は、タバルナ。タバルナは、王の称号としても使われるようにもなる。
タバルナは、ハットウシャを王宮所在地とした。また、タバルナは、遠征によって勢力範囲を拡大していった。
タバルナの後ヒッタイトを引き継いだハットウシリ1世もまた、遠征を行い北シリアの諸都市を征服する。だが、遠征中に病気になり、後を若いムルシリ1世が継ぐ事になる。この時すでに、ヒッタイトでは民主主義的制度があった。それは、王の権利を制限する貴族会議(バンクス)である。
 
ムルシリ1世は、さらに東へ遠征する事をきめ、バビロンをめざし、ユーフラテス河に沿って南へ進んだ。バビロンは、ムルシリ1世により滅ぼされ、ヒッタイトは、大国という名声を得るのである。
しかし、彼は遠征から帰った時、暗殺されてしまう。遠征で長い間国をあけていたため彼の親族は、彼に背いたのである。
次に王になったのは、ハンティリ1世である。しかし、彼が王位についてからヒッタイトの国家と勢力は、下り坂に向かった。また、王位をめぐる争いが70年以上も続き次々と暗殺が行われた。
 
その時代を終わらせたのはテリピヌである。
彼は、王位継承を規定した。それは、「王は、第1皇子がなるべし。第1皇子なくば、第2皇子がなるべし。皇子の王位継承者なくば、第1王女と結婚した男子が王となるべし。」と決められている。テリピヌは、また、この継承が暗殺によって変えられないように貴族会議(バンクス)に暗殺者の裁判権を与えた。また、テリピヌは、200項の法令集をまとめたとされている。
また、ヒッタイト王には、宮廷の儀式とバンクスの他に王の自由を制限する3つめの制度があった。それは、タワナアンナである。タワナアンナは、王妃の称号であったが、ヒッタイトの場合は、政治に介入する事ができ、王の財産の管理をし宮殿をも支配することができた。
また、タワナアンナは、先代の王妃(皇太后)が死んではじめて今の王妃が名乗る事ができた。
テリピヌの時代遠征も行われたが、ほとんどすべての外国領土を失った。
そして、その後1000年は暗黒の時代であった。
そのヒッタイトをシュッピルリウマ1世が大国に築いていく事になる。

シュッピルリウマ1世は、今までヒッタイトを苦しめてきたガシュガ族と戦い一時的に勝利を収めた。そして、フルリ人の国であるミタンニに遠征を行ったが敗北してしまう。そして、彼は、条約を結ぶ事を考えた。
彼は、条約を結ぶとともに彼の親族の1人をそれぞれの外国の同盟者と結婚させる事にしていた。
シュッピルリウマ1世は、キッズワトナ帝国と条約を更新した。
そして、アナトリア西のアルザワと闘ったおり、「戦車100台と兵士1000人」の軍事援助を要求している。
そして、再びミタンニへ遠征した。
 
その頃シュッピルリウマ1世は、エジプト王妃アンケセナーメンより1通の書簡を受け取る。
その書簡とは、「夫は死んでしまいました。私には1人の皇子のいません。聞くところによると、あなたにはたくさんの皇子がいらっしゃるそうですが、その中の1人を私の夫にいただけないでしょうか。家臣から夫を選んだりすることは、なんとしてでも避けたいのです!」という内容であった。
シュッピルリウマ1世は、「余の生涯でこんなことは始めてだ。」と驚いた。
そして、エジプトへ使者を遣わし、事の真偽を確かめさせた。
アンケセナーメンは、2通めの書簡を送ってきた。シュッピルリウマ1世は、
のアンケセナーメン書簡を信じ、5人いる息子のうちザナンザをエジプトへ送りだした。しかし、ザナンザは、エジプトへは行けなかった。途中で消えてしまったのである。ザナンザの行方について、一番有力な見方は、次にエジプトの王となるアイが将軍ホレフレブに殺させたという案である。
とにかくザナンザは、砂漠のどこかで消えてしまった。
シュッピルリウマ1世は、ミタンニ遠征中であり、ミタンニの最後の砦となったカルケミシュをを落としシリアを手に入れた。
まさにその時、ザナンザの悲報を聞いたのである。
ヒッタイトは、シリアを手に入れた事により南側の国境は、都市カデシュあたりになった。
シュッピルリウマ1世は、占領した国々を征服せずに属国とした。
ミタンニ王トゥシュラッタ王の息子マッティワザが逃げ回ったあげく、シュッピルリウマ1世のところに現れた時、彼は、豪華な品物を与え、妹を妻として与えた。
シュッピルリウマ1世は、シリア領地を守るため、シリアには、息子のピヤシュリを副王としてつけ、首都にカルケミシュを選び、ヒッタイト人もしくはヒッタイトに忠実な民族を住まわせた。また、第2の中心地として、宗教都市ハレブを選び、息子テリピヌに収めさせ神官としての役目も与えた。
シュッピルリウマ1世は、ザナンザの暗殺は、エジプトが行ったものとしエジプトへの遠征を行い、勝利した。
しかし、その時捕虜として連れ帰ったエジプト人が疫病をヒッタイトに持ち込んだ。その疫病のため亡くなってしまう。
次に王となったアルヌワンダもまた、疫病にかかり短期間のみの統治に終わった。
そのため、1番下の息子ムルシリがその後を継ぐことになる。

やっとカイルの登場です。
ムルシリ2世は、年少であったため、シュッピルリウマ1世が拡大した領土を守り切れるとだれもが思わなかった。そのため、周囲の敵国は、ムルシリ2世に対して戦いを挑んできた。
また、彼は、バビロン出身のタワナアンナによって苦しめられた。(ナキアちゃん)彼女は、シュッピルリウマ1世の3番目の王妃であったが、いつも問題をおこし、異国のいかがわしい風習を宮廷に持ち込んだ。
その上、ムルシリ2世は、宮殿から1人の売春婦を遠ざけなければならなかった。ムルシリの苦悩はまだまだ続く。
政治的にはかなりの成果をあげたムルシリ2世だが、幼い頃の体験により言語障害があった。
また、彼の妻は、呪い殺された。それは、疫病がもたらした死であったのかもしれないが、彼はそう信じていた。
シュッピルリウマ1世の時代に持ち込まれた疫病は、ムルシリ2世の時代でも猛威を振るった。
彼は、疫病が自分の父が犯した罪の報いと思っていた。
彼は疫病を追い払う祈とうを多く行っている。その祈とうの中で、父の罪が自分に降りかかっているが、父の罪を告白したので慈悲を与え疫病を追い払ってくれたまえ。と神神に祈っている。いけにえをささげて。
ムルシリ2世は、帝国を収めるために戦いも行った。
南西のアルザワ、南東の没落した諸国、北のガシュガ族。
ただ、西部のアヒヤワとは友好関係を結んでいた。
アヒヤワの皇子達は、ヒッタイトの王宮でヒッタイトの皇子達と一緒に、キックリの新しい戦車学を学んだ。
ムルシリ2世は、シリアへの遠征も行った。カルケミシュの副王である弟ピヤシュシュリ(マリ)が亡くなったため反乱が起こる可能性があったためでる。
ムルシリ2世は、反乱者破り関係を正常化し新しい副王をつけた。
ムルシリ2世は、多くの敵国に狙われ、疫病に苦しみながらも30年の間父シュッピルリウマ1世から受け継いだ国を守り、息子ムワタリに引き継いだ。
(紀元前1345〜1315)

その後、ムワタリ2世(カイルの子)は、エジプトのセティ1世とカデシュで戦う。また、ハットウシリ2世がラムセス2世と戦い
勝利したすぐ後自分の娘をラムセス2世に輿入れさせている。

紀元前1200年頃、ヒッタイト帝国は、「海の民」に滅ぼされたことになっている。首都ハットウサは全域にわたって大火災
の痕跡があるが、滅亡との因果関係はっきりしていない。
ヒッタイト滅亡後、ヒッタイトが独占していた製鉄法は広く伝えられた。
 


主役のカイルくんの出番がみょーに少なくなってしまったけれど、今後調べて付け足していきます。史実の元になっているのは、カイルが書いた「年代史」が元になっているらしいので、調べていくともっとおもしろい事にぶつかるかもしれません。名前については、馴染みがあるので「天赤」で使われているものを使いました。歴代王の名前には下に「シュ」がつくらしいのですが。。。例えば「ムルシリシュ」。
 
 

(戻る)