出生地・・・
江戸より数十里北。
日本有数の軍勢を持ち、誇り高き武士道の郷。
民は義に厚く、思慮深く忍耐強い。
その地名は『会津(會津藩)』
徳川家に忠義である事。それは、武士階級だけでは無く、商人、農民、足軽に至るまで、
藩全体の心の向くところでありました。
幕末。
徳川三百年の歴史が終ろうとした時。(この地では会津戊辰戦争)藩 全てで戦に臨みました。
それは、女、子供に至るまで、刀を持ち、槍を持ち、徳川様の為。幕府をお守りする為。
ただそれを一心に戦いました。
会津に攻めて来たのは薩摩、長州の(薩長軍)この時、錦旗を掲げ(官軍)となっていた為、
錦旗に弓を引いたとされ、賊軍の汚名を着せられ、荒れ果てた、そして、生活に困難な地へと
国替えになり、民は悲惨な暮らしをさせられました。
ただ徳川家に忠義であった為だけに・・・
この戦は、(中略あり)京の鳥羽伏見の戦から江戸開城を経て、
北越(北越戦争)、会津、奥州、蝦夷【えぞ(北海道=五稜郭)】まで新政府軍(官軍)が旧幕府軍を攻め、
新しい世を作る為にと、北へ北へ攻め続けました。
この時代に、会津は京都守護職を幕府より命ぜられ、京に潜伏する過激派不逞浪士の取り締まりを行っていた。
この過激派の浪士と言うのは、後に官軍となる長州藩や、脱藩者。
そして、第一次長州征伐・・・(後略)
初めは薩摩藩も会津藩と桑名藩と共に、長州藩や脱藩者の暴挙を抑えようと結ばれていた。
この頃、日本を守ろうと攘夷(じょうい)運動の真っ只中!!
既に長州藩と薩摩藩は、密かに同盟を結んでいた。(薩長同盟)
彼らは、幕府側に攘夷実行を迫り、幕府も帝に意思を伝え様としながらも、なかなか出来ずに時が過ぎ、
そして、滅んでゆく幕府の権威に戸惑っていた・・・
しかし、これは倒幕を企み自分達の天下にしようとしていた長州藩が描いた絵で、
実際には攘夷など考えては居なかったのです。
(攘夷と言いながら裏では諸外国と貿易して、武器等を買っていた)
わざと、出来もしない攘夷を幕府に迫り、帝の信頼を薄くさせ
『それでは我々が何とか致しましょう』と帝を取り込み、先ずは幕府を倒そうと始まったのが、
徳川三百年の歴史が終る、上記の長い戦です。
この時代の有名な人達は、、、桂小五郎(後の木戸孝允)、勝海舟、坂本竜馬、西郷隆盛・・・。
そして、京の街を取り締まって居た会津藩には、壬生狼と恐れられた、『新選組』。
フルで言うと、【京都守護職 会津藩御預 新選組】
この様な歴史がある会津に生まれ育ちました。そして、現在も・・・
会津は、水戸の一ツ橋家とも少なからず御縁があります。
一ツ橋慶喜(後の第十五代将軍 徳川慶喜)様に仕えたのが最後です。
長くなりました。