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華は散るからこそ、華開く時が輝かしいのだ 〜 あなーきーに生きる 〜


華が美しいのは、その散る儚さ故に、華開く瞬間に燃やし輝かせるであろう命のきらめきを見せるから、美しいのだろう。
人は、生きてなお、苦しみや絶望と絶えず向かい合って、その一つ一つに何らかの自分の中で解決を見つければこそ、
次のステージへ進めるのだろうと思う。
事実、生まれながらに人は苦しみの中から誕生したのだ。
お産の苦しみを母親に与え、かつ自分は狭い産道に息絶え絶えに苦しみながら、出てくるのだ。
産声を上げる。。。その意味は、自発呼吸への切り替えにあらず。。。
それこそが、絶望へ向かい合わなければならないことへの嘆きの叫びなのだ。

 愛とは絶望と裏切りでしかない。。。
そう唱えた博愛主義者。。。尻の青い、「ロックとはぁ!」っと叫ぶもの達が、得てして「愛とは」「恋とは」と声高らかに
歌い上げているが、では、恋とはなんぞいや?愛とはなんぞいや?っと問い掛けられて、納得のいく答えを持つものも
そうそういるはずもないだろう。。。
では、抱きたい女がいたから、抱かれたい男がいたからっという理由が、はなつまみにされる訳は?
。。。。そんなものはあるはずもない

しかし、愛とは絶望と裏切りでしかないっとはいえ、そこには人生すら変えてしまうような、甘露があるようだ。
で、あるが故に人は切望するのだろう。
そして、裏切りを招くのは、単に愛を求めた人へのエゴが生み出すもの。絶望とは、愛を求めたが故に自ら掘りあげた穴。
世界的スーパースターであり、なおかつ世界的な著作をもつ、イエス・キリスト(キリスト教を敵視しているわけでないので誤解の無いように 汗)
彼は、12使徒の一人である、ユダの裏切り(ユダ自身が策略にはめられた)を知りながらも、なおのことその中に身を投じた。
正統な解釈は、新(旧)約聖書を読んでもらえれば、事足りるだろう。
俺が思うに、博愛主義を唱えたイエスが取り得る。。。っというか、取りえざるを得なかった行為だろうと思う。
自分を敵視するもの、全てに対して、説法を身をもって体現してきた自分が、ここでそれを反故するわけにはいかないと。。。
それゆえに、貼り付けられる自分の姿を知りながらも、彼は、甘んじて受けたのだろう。
そして、それゆえにユダは永遠の悩みを身にまとい、地獄へと落ちたのだ。のちに裏切りの苦悩をJudas Painと呼ばれる。。。っと聞いた

しかし、そこまでして、人は何故に愛を求めるのだろうか?愛の甘露とは、最高の麻薬なのだろうか?
そして、快楽を求める事は、それほどまでに背徳なのだろうか?
個人を責めることによって、自分の道徳観を満足させてるだけではないか?責めることによって嫉妬を隠そうとしているのではないか?
それすら、偽善行為だとは思わないのだろうか。。。。
人も生命である以上は、本能がまず、そこに立ち、道徳や背徳によって縛り付けながら、生きている。
単なる獣でしかない。知恵をつけた事によって、獣と区別をつけただけでしかない。
それすらも、単に自分達の勝手な線引きでしかなく、地球からすれば。。。さらに高次元のものからすれば、
人間も犬猫と一緒でしかないっという事に気付くべきだろう。
そして、そうして自分達から引いた線の中には、意味なく同属を生命を奪える唯一の個体種でもあることを自分達で知らしめた事を知らなければならない。

だからこそ、愛に飢えているのかもしれない。。。


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