「統一教会史 上巻」

 前編 史前史

 2、先生の幼少時代

 以上のような特徴の具体的な展開が、これから後に書く内容の中に表されている。以後の史実は先生の特徴的な性格を更に認識させるものでもある。

 先生は、幼少時代には他の人以上に目につく全ての事物に対して深い関心を示されて、好奇心と冒険心の強い少年であった。その上こうと思えば直ちに実践に移す性格であり、一度着手したら結果が見えるまでやり遂げなければ気が済まないといった恐るべき気質を発揮されていた。

 先生が過ごされたのが純朴な農村であったこともあって、幼い先生が関心を寄せられたのは、水の中や土の中、それに空(木の上)に生きる生物に対してであった。

 それで先生は野原にいる草で巣を作って卵を生む鳥や昆虫、それに動物の生態に対して、生物学者以上の情熱を持ってそれらを連日連夜追いかけ回り調査をされた。

 例えばあるときには、雛を育てているかささぎが、毎日巣を覗きに来る先生に脅えて、しばらくは不安そうにカク カク 鳴いていたが、やがて決して自分たちに害を及ぼそうとしているのではなく好奇心旺盛な近所の人間が友達として訪問してくるのであると悟って、それから恐れなくなったという。先生はそのような体験をされたのであった。

 またある時には、冬の雪の道に高麗いたちの足跡を見つけ追いかけて狩りに出た。昼夜を分かたず歩き、翌朝になって何十キロ離れた隣りの村まで追いかけて捕まえてしまったり、またある夏、村の前の池で鰻の家を発見して、歯で巧妙に鰻の尻尾を捕らえて、その鰻が底をつくまで毎日捕り続けられ、そして家の中と、多くの親戚の家と、遂には隣の家までが、その配られた鰻の臭いにこりて悲鳴をあげるようになったという。

 また、ここに、先生の執念と闘志があますところなく現わされた一つの実例がある。

 先生が十歳の幼い頃の話である。年が三歳も上の隣の少年と喧嘩が始まった。

 最初は当然、年長の少年が幼い少年に馬乗りになって押さえつけていた。ところが何時間かの後にはこの喧嘩の形勢が完全に逆転した。幼い少年の方がかえって大きい少年の上にのしかかって、下に押しつけられている大きい少年の耳を両手でつかんで無常にその頭を地面に打ち続け、とうとう降参させてしまったのである。 もちろん、小さい方の少年は今日の文鮮明先生である。そして大きい少年が負けたのは、力で負けたというより、先生の闘志と持久力に耐えられずに降参するようになったのであろう。

 一方、七歳から十四歳まで、書堂で漢文の勉強をされたが、千字文、幼文初習、史略、名心宝鑑、小学などの本を読まれた。そしてすでに人と異なった才能を現わしておられた。習字の場合、書堂の先生から見本をもらって習う心要がないばかりか、かえって助手をつとめられ、更には毛筆を口にくわえて書いたり、或いは足の指の間に毛筆を挟んで立派に字を書かれたり、人が真似できないようなことをされた。

 このことを見ても、やはり人とは異なった考え方と、人とは異なった行動される先生の独特な個性の発露と見られる。

 一方先生は、十歳前後のまだ幼い時から、人とは異なった高い夢を胸深く育てながら成長されていた。

 田舎で成長されたにもかかわらず、将来偉大な博士になろうと決心していた。

 それも、単純に何か一つの博士にでもなろうというような漠然とした理想ではなく、三つ、ないし五つ位の各種の博士号をひとりで収得しようという野望であった。

 そして、将来この世の誰よりも権威のある有名な学者になろうという思いに胸ふくらませて、熱心に勉強 をつずけられた。

 書堂での漢文の勉強は十三歳までされた。そして一九三四年、十五歳の春、平北定州にある私立五山普通学校三学年に編入、初めて新学問を履修し始められた。

 この時の通学距離は約十キロであり、歩行通学としては非常に遠い方であった。しかし先生はその時からすでに歩き方が速く、共に通学していた一学年下の文昇龍氏などは、歩調を合わすことができなかった。遠く引き離されては半分走って追いかけ、それを繰り返しながら通学したのであった。

 このように、遠距離からの通学であったが、一日も欠席や遅刻をされたことがなかった。

 この通学区間には多くの未就学少年たちがいて、通学する学生達にいたずらすることがしばしばあったが、誰も先生には挑戦しようとせず、静かに避けて通るのだった。多くの通学生が、行き帰りに先生と共に隣村を通過するのが常であった。

 丁度この頃、文一族には蕩減の役事としての大きな試練が始まっていた。結婚した二番目の姉と兄が恐ろ しい精神異常となり、末の叔父の家では大艱難が相次いで押し寄せた。

 例えば、牛が急死したかと思えば、数日後には馬が死んだ。一夜にして豚七匹が死んだこともあった。それも、井戸に落ちて溺れて死んだのであった。たいがい、井戸には地上三、四尺ずつ危険防止用の垣根があるのだが、運悪くその井戸にはそれがなかったのである。災難は続き、ちゃんとおいてあった臼が倒れ犬の骨が折れたり、煙突が倒れてその横においてあった醤油瓶を割った。また、母親がしばらく家を空けた間に飼い犬が入ってきて、その家の子供の耳を食いちぎるということも起こった。その主人である叔父は、賭博で多くの金を失った。このようにわずか一年間にこの多くの災害を受けたのは、何かきっと悪い因縁のせいであると考えて引っ越ししたが、甲斐なくその家はその後完全に滅んでしまった。その当時はそれがどういう意味を持っているのか誰も予測することができなかったが、これは天において、文鮮明先生一人を見つけて摂理の前線に立たせるために必要な蕩減役事と深い関係があったのであろう。

 一方、先生が有名な博士として出世しようと大志を立てておられたことも、今になって思えば、幼少期にありがちな純粋な希望に過ぎなかった。成長されるにつれ事物を見る目が深まり、価値を判別する思考の能力も急成長していかれた。

 それに伴い先生の考えは、これまでとはあまりにも次元が異なった方向に急転していった。すなわち先生は、人生の究極的な問題を追求していった結果、とうとう人間が存在する最高の価値はそのようなところにあるのではなく、最も永遠で、最も普遍的なところにあるという事実を悟られた。

 十六歳になられた一九三五年四月、先生は定州公立尋常小学校四学年(現在の中学校)に転学された。この時から先生は、自転車で遠距離の道を通学された。

 この頃既に先生は、幼年日曜学校の教師として子供たちを指導しておられ、特にそのみ言により多くの子供たちから深い尊敬を受けておられた。

 新しい学問を始められた頃から、文鮮明先生の思考の中心テーマは際立って変化を見せ始めた。

 その思考の基準は、単純な平面的な欲求を越えて、立体的な価値観に立脚していた。

 すなわち、深刻に考え始められたことは、「私が偉大な博士になって有名になり、願い通り不足なき富貴栄華を備えたとして、それは私にとって何になるだろか。更にあの多くの不幸な人間達にとって何の意味を持つというのだろか。私一人のそのような成功が、他の人達に何の関係があるのか。」という疑問であった。

 一旦、人生を見る目が開かれ、ひとたび世界と人々の人生を深く考えるようになった時、並々ならぬ大きな壁にぶつかってしまった。

 人々は疾病と貧困による不幸、死に対する絶望など、文字通り苦痛と悲劇と不幸に満ちあふれた不可思議な地獄に監禁されているということを先生は身に染みるほど感じておられたのである。

 3、神の召命

 少年文鮮明先生は、御自身の将来について深刻に考え始められた。

 このように不幸に満ちた人間世界で、「私が成すべきことは何であろうか?」頭脳明晰であるばかりでなく、物事を徹底的に考えつめられる先生は、人間の価値と御自分の絶対的使命を追及されるにおいても、簡単に解答を出して納得することは出来なかった。

 長い間苦心探求された末、とうとう人生の目的とするべきことの輪郭に光明がさし始めた。

 全人類をしてこの苦痛、この不幸、この悲劇、この罪悪から開放させること、これ以上に世の中に価値があり、やりがいのあることがどこにあるだろうか。

 そうだとすれば、私がこれを担当しよう。思えば我々の祖先たちも、皆このような不幸の中で生きてきたし、現世の人たちもこのような束縛の中で生きており、またこのままおいておけば我々の後孫たちも、いつまでもこのような地獄の生活を継承するだろう。

 それは考えただけでも恐ろしく身震いするような人生の悲哀だった。

 過去に生きてきた先人達を開放し、現世の人を救済し、我々の後には再び不幸も苦痛も罪悪も訪れないように、永遠の理想郷を作って後孫達に受け継がそう。これこそ私の使命である。と先生の決意は固まって行った。 そしてこのしばらくして後の先生が(数え年で)十六歳になられる年の四月十七日、復活節のことであった。 この日が本当の復活節であることも、先生が霊的にイエス様に会われた中で初めて明らかにされた。

 今日でも一般基督教では復活節記念日が年ごとに異なる。イエス様が亡くなられた日を知らないで復活日も調べようがなく、西暦三二五年「ニケア」公会議において「春分後の初めて迎える満月直後の日曜日を復活節として守ろう」と規定したためであった。

 とにかくこの日、少年文鮮明先生が祈祷しておられると、突然イエス様が現れ、重大な事を頼まれた。それはその頃、先生が内心深く決意しておられた人類救済事業に対する召命であり、公式下命であった。

 初め先生は何度も遠慮された。先生御自身も願い、決心されていたことであったが、いざ公式的な召命が下されると遠慮しなければならなかった理由は何であったのだろうか。私的な単純な決意と、相対的契約関係ではその責任のあり方が全く違う。その上、神の厳重な召命であったし、先生の年齢は、あまりに若かった。どうして簡単に受け入れることができるであろうか。

 しかし、そのように断られる先生に、あなた以外にこの重責を担当する人がいないのだからと、イエス様は改めて頼まれるのだった。

 そしてとうとう、先生はこの大命を受け入れられた。実に天地の心が一点上において通じあう厳粛な瞬間であった。

 この後先生は、ただこの一言により、昼夜別なくただ神の摂理のために身も心も捧げられるようになった。 それからの先生は、幼い年齢にもかかわらず、幾重もの立場を重ねることになった。例えば、学校の先生や生徒達の前では他の人と同じ一人の学生であり、父母や兄弟姉妹の前では平凡な家族の一員でありながら、その内面生活では、常に神の摂理を進めるために心を砕いておられたのである。

 内的には絶えず深く霊界と通じなければならなかったし、外的には神の摂理を進める使命を持つものとし ての人格を備えるために、各方面おいて不断なる修行を積まなければならなかった孤高な先生の路程であった。 その中でも最も重要なことは、人がこれまでなし得なかったあらゆる分野における根本的な疑問を解くこと、即ち、神と人間と自然と歴史に対する根本的な問題を解決することであった。

 真理、すなわち原理を悟るために全身全霊を注がれたのである。普通の人であれば学業に熱中しながら、一方では、人がとんだり跳ねたりして遊ぶ年頃に、先生はそれほどまでに高次元な考えをしなければならなかったのである。

 このような生活を三年間過ごされて小学校の卒業を迎えられた。御歳十九歳、即ち満十八歳であった。

 西暦一九三八年三月、その頃は言うまでもなく日本統治下にあり、先生は日本の植民地教育を受けておられた。おりしも前年度、既に日中戦争が始まっており、戦争勝利と言う国家的な大目標を口実に、韓半島に対する日本の強圧政策は日増しに激化している頃であった。

 文鮮明先生が卒業を迎えられたのはそのような時期であった。

 そこで卒業式と関連して有名な逸話がある。その頃の文鮮明先生はまだ人々の前に現れておられた訳でなく、当時は一卒業生に過ぎない立場でありながら厳粛な卒業式の会場で、特別所見を発表されたのである。

 卒業式にはいつも、町長、村長、警察署長等あらゆる地方有志達が皆参席するばかりでなく、卒業生の父兄達も全員参席して、非常に厳粛な雰囲気がかもし出された。

 全ての卒業式次第が終了した直後に、意外にも一卒業生すぎない文鮮明先生が自ら進んで堂々と壇上に上がって一時の間演説をされたのである。

 すなわち、今日の教育は問題であり、教師達のうち誰それは、かくなる長所と短所があり、これからの指導者はこのように改革していくべきだ、といった教育に対する全面的な批判と是正方案を披露したことは、一卒業生としてとんでもない事であった。

 故にこの唐突な演説がどれ程妥当性を持っていたものであったとしても、植民地教育を強行していた戦時下の日本当局には心良く思われるはずがなかった。

 そしてこの事件が先生を有名にしたことは言うまでもない。問題は中学時代及び日本留学時代を通して継続した要視察人物となったことである。そのため先生は、いつ、どこにおいても安心して住むことができない程日本警察の監視と取締りを受けるようになったのである。

 一方この頃の自我の芽生えた少年時代の先生は、神を深く敬いつつ常に自然に親しみ、子供同士で遊びたわむれるよりは、天に対して至誠を尽くしている人たちを訪ねて行って、彼らの周囲に座っていたり見ていたるすることを好まれたのである。

 このような敬虔な信仰生活をしておられたので、自然に座ったり立ったりする場所や行こうとする方向が良い所であるか悪い所であるかを判別出来るようになり、明日は晴れるであろうか雨が降るであろうかということも分かるようになった。人に対するときも直ちに相手が善なる立場の人であるか、悪なる立場の人であるかを見分けるようになったといわれる。

 そして先生は、このように心に染み一つなく白紙の状態であるときには、家族が病気になるような兆候も十分に感知するようになったという。またいつでも信仰心から心身を修養し清浄な生活をするようになれば、自然に頭がガラスのように澄んでくるようになるのであった。

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