| 「統一教会史 上巻」 前編 史前史 8、平壌におけるみ言伝播 文鮮明先生は、一九四六年四月までのまる六ヵ月間、「イスラエル修道院」に入っておられたが、その大部分の時間を修道院の系列の上道洞集会所(教会)引導者として過ごされた。 しかし、伝統的な基督教指導者たちを前面に立てて神の摂理を広げようとした第一次計画はなされず、イスラエル修道院を摂理進展のための土台にしようとした第二次計画も成就されなかったのである。 そこで、文鮮明先生はカイン的立場(対象的立場)で韓国と同じような版図を形成しているところの北韓に行けという神の命令を受け、一九四六年六月六日、ソ連進駐軍によって新しく共産主義体制を作っていた平壌に到着された。 平壌は昔から「東洋のエルサレム」と呼ばれるほど、基督教信仰の深いことで名高い都市である。都市の真中から見れば、何間か離れたところごとに一つの教会の尖塔が建てられ、聖日の朝になれば礼拝堂の鐘で市街が一杯になるような感じがした。 日曜日など全然商売が出来ないといわれるのも、市民の大部分が礼拝に行くためである。聖日になれば教会に行って賛美し、神に祈るのが当然であるというのが、平壌の人々の一般的な姿であった。 神がこの地を選ばれたのも、先生が平壌に摂理的なみ旨を持ってこられたのも、平壌がこのように他では見い出すことのできない特殊な基督教都市であったからである。 この時はまだ平壌の市民意識の主流が基督教信仰であったため、教会や信徒に対して露骨に弾圧が加えられるということはなかった。 先生が初めて集会の場を持たれたところは、篤実な信仰家庭である金氏宅であった。 平壌ではほとんどの人が信仰を持っており、全ての信仰者たちは互いに連絡しあっていて、一人びとりが、どこかにもっと立派な何かがあるかもしれないと四方八方に目を向けていたのである。そして、歴史的な大転換期を迎えていた解放直後の平壌市民たちは一層何かを期待していたのであった 文鮮明先生は、目立つほど本格的な活動は展開されず、身近にいる人たちから徐々に静かにみ言を伝えられた。しかし、内容のある者は、結局それに応じて人に知られるようになるものである。人の口と耳を通して、噂は徐々に広まっていった。そして、人々が段々と集まってくるようになった。 集会を始めて一ヵ月足らずで十余名の食口(教会員)が誕生した。皆多年にわたり基督教の信仰を持ち続けてきた篤実な信仰者たちであった。 人々はその生命の躍動が目に見えるようであり、信仰の真髄を体得したようであった。 当初先生は、集会をされるつもりはなく、それぞれ自分のいる場所で祈祷し、都合のよい時に互いに心を集めて礼拝しなさいと言われたのであった。 しかし、食口たちは「来るな」と言われても、一日に一度は必ず先生がおられる所に尋ねてきた。そればかりでなく、朝早く、誰よりも先に来たいと思い、夜明けになるや否や、門の前につめかける者が、四、五名、ときには十余名いて、門が開いたら入って来るのであった。 先生は一人でいるときは主に聖書を読んでおられたが、当時使用されていた聖書はボロボロになり、その上赤線で傍線が引かれていて、読むのが難しい程であった。 また祈祷の時間を持たれていて、食口たちも集まれば常に祈祷された。先生と食口たちは、神と歴史的な心情を深く体恤して多く泣いたのである。そのように祈祷はすなわち涙であったし、真昼であろうが、夜中であろうが、早朝であろうが、かまわず祈祷しながら、声を出して泣いたのである。それで近所の人々が噂し始め、「泣く教会」とあだ名をつけたほどであった。 他の人たちの目にどのように映ろうとも、食口たちは一つに結束し、しばらくでも分かれていることはできないという心情で一杯で、一旦帰ってもまたすぐに教会を訪ねてきて先生を囲み、先生のみ言を受け、先生に質問をし、また、見えないところで起こっている家庭や既成教会などからの信仰的迫害を報告したのであった。すると先生は、御自身が受ける迫害の上に更に食口たちの困窮を聞き、苦しまれたのである。 しかし、「これからは、我々の手でみ旨を成そう」と決意され、万難を排して和動された。そして迫害の鞭で打たれるような現実の状況ではあったが、心は常に天国であった。礼拝時間には皆が声高らかに讃美歌を歌い、それも数十回繰り返して歌ったのであった。従って、聖霊が働いて、礼拝の雰囲気はいつも霊的な炎のるつぼであった。 食口たちの大部分が、神の声を聞き、幻を見、夢で啓示を受け、異言を語り、予言をなし、隣の人の心霊を見通した。名実ともに心霊と真理で礼拝する教会であった。」 そして、礼拝に臨む時はもちろん、平素も神に対して誠の限りを尽くされた。 当時、先生は礼拝時間には白い服を着てこられ、礼拝を導かれた。それで、食口たちも白い服を着て礼拝に参席するようになった。 そして、礼拝の始まる一時間前から、膝まづいて準備をされた。従って、誠意がなかったり、よくない目的で礼拝に臨んだりして、心が礼拝にない場合には、霊通した食口たちによって指摘され、叱られたり、激しい場合には追い出された。 文鮮明先生は、全天下を相手に語られるように大声で熱弁をふるい、血と汗を流しながら神のみ旨を叫ばれた。そうすると食口たちは、そのみ言を人の声としては聞かず、神のみ言として受入れ深く感銘を受け泣いたのである。 都下の教会から各々信仰深い中堅信徒たちが一人、二人集まるようになると、教会は日がたつにつれて、盛況を呈した。しかしその反面、信徒を失う既成教会や、信仰上衝突するようになってしまった食口の残された家族たちや、朝夕わかたず泣き声を聞かなければならない近所の人たち、そして、宗教の抹殺を図る共産当局、それらがみな悪辣な世論を流布して反対の声を高め、次第に本格的に妨害し始めた。 当時原理のみ言は、今日のように体系的な講義としては示されておらず、主に聖書講義の中に含まれていた。 すなわち、「神様の創造理想」「天使長の横的愛によってゆがんでしまったアダム・エバの堕落経路」「聖母マリア、洗礼ヨハネなど使命担当者たちの責任未遂によって招来されたイエスの十字架の悲劇」などと題する説教の中で内容が紹介され、聖書解釈ということで、聖書の文字の裏にある内容を説得力をもって解明してくれる程度であった。 そして、食口たちの数は二十名前後であったが、金仁珠、車相淳、金元弼などは、その頃、すなわち先生の伝道初期に入ってきた食口たちであった。 9、共産治下の受難 当時平壌には、日帝の時から存続していた腹中教と呼ばれるイエス再臨準備集団があった。 きわめて不自然な環境の中で生まれて、一生を苦難と迫害の中で過ごしながら、神のみ旨を広めることもできず、とうとう十字架の受難に会い、恨み多き一生を終えられたイエス様の悔恨を晴らし、再び来られる主がイエス様の前轍を踏むことがないように、事前に万全の準備を整えようとする特殊信仰集団であった。 許氏(許孝彬)という女教主を中心として集まった約三百名の信徒が、持てる限りの財産をはたいて、イエス様が生まれる時から成長する時まで、年々着用される韓国服と洋服を各一着づつと、生活必需品一切、そして成長した再臨主に着せてさしあげる衣冠一揃を、普通の人には想像することもできないほどの誠意をこめて整えたのであった。 あらゆる服地は、いくら短いものであっても必ずまだ手がつけられていないものを裁って買うなければならないし、それらを買ってくる途中や服を作る間に、少しでも汚れたものに触れれば、捨てて新しく買わなければならない。服を縫う場合にも、必ず三針縫っては糸を抜いてしまわなければならない。そして、再臨主の冠をソウルの地で仕立てて平壌まで運ぶ途中、車中において頭上にずっと冠を捧げて持ってきたという話がある。それは、あくまでも置く場所が無かったためというより、棚や膝の上に置いて思いがけなく汚れた物に触れる危険性があったためである。 そのような独特の信仰生活を続けていたので、信徒たちが最後まで残るはずがなかったし、残った信徒たちの財産はみななくなってしまったのであった。 このような状況は、当然社会的な批評も良いはずはなく、その上伝統的な基督教会が腹中教を完全に、異端、あるいは邪教とみなすようになった。 一九四六年に入って、基督教など宗教に対して共産当局が全面的に、弾圧することはまだなかった。しかし、ある明らかな条件さえ整えば、徹底的に一掃するやり方で、無理の無いない範囲内で宗教勢力を縮小させていた。まずは、蛇が互いの尾を噛み合って回るように同じ宗教勢力同志を闘わせて自滅するように仕向ける離間政策に特に力を注いでいた。 丁度、このような方法による去勢作業の第一目標として登場したのが、腹中教幹部拘禁事件であった。教団の信徒以外の人には誰にも理解されなった腹中教は、基督教等一切の環境から、排撃されていたので、共産警察は、たやすく弾圧の手を広げることができた。そして、主要幹部たちは皆逮捕されてしまった。その頃、既成基督教と共産警察当局によって平素から蔑視されてきた文鮮明先生も、腹中教と類似した集団の指導者であり、また先生は、解放後に南韓から上がってこられたゆえに、公民証もなく自ら進んで越北した宗教人であったので、李承晩博士の秘密スパイに違いないという嫌疑をかけられて、とうとう大同保安署に拘束された。それは、先生が平壌に到着されてわずか二ヵ月しか経ていない一九四六年八月二日(十一日の間違い)のことであった。 教会の雰囲気は、天が急に崩れたかのような暗澹たるものとなった。 皆は指標を失った旅人のようにぼんやりとし、船員を失った船の如く不安におびえた。そして先生は共産警察から言い表わし得ないほどの悪虐な拷問を受けられた。その頃の共産警察の実務執行者たちは、日本警察に思想犯として捕らえられ、苛酷な拷問を身をもって受け、解放後、釈放されてきた人たちが大部分であったので、肉体の事情など顧みることなくメッタ打ちにして、それによる肉体の打撲も耐え難い苦痛だったが、彼らには更に幾つかの特殊な拷問方法があった。それは食事をさせない方法と眠らせない方法である。普通、一週間食事をさせないで、食べ物で誘惑をしながら拷問するのである。 それが如何なるものであるか経験のない人は想像もできないだろうが、実際には一週間は言うに及ばず「三日間飢えて、泥棒しない人はない」という諺があるように、三日間飢えさせておいて御飯を見せながら誘惑すると、気が狂った人のように口が自然に開いて、あらゆることをみな吐き出してしまうようになる。 しかし、統一教会の信徒であればほとんどの人が一週間の断食を軽くやってしまう経験を持っている。であるから断食による拷問はさほどでないにしても、それより何倍もひどいのが眠らせない拷問である。この「眠り」も何日間も眠れなければほとんど半狂人となり、完全に自制心を失い眠らせてもらうためならばあることないことみな自白してしまうのである。 一週間少しも眠らせないように守る監視警官は、夜昼三時間交替で、少しでも目をつむる気配があったら大声で怒鳴るのである。 このことがどれほど困難なことであるかは、我々がまる二十四時間眠らないで過ごしてみただけでも直に 知ることができる。 しかし、特記すべきことは、監視する警官たちが見守る中で、何日間も少しも目をつむることなく平然と過ごされる先生に、警官たちはかえって内心恐れさえ感じ、トイレに行くにも何名かがついて来るほどであった。 先生は、時々数分間づつ、目を真っ直ぐに開き、瞳孔を停止させたまま睡眠をとられたという。すなわち、外形的には目を開けたまま、視神経の作用を休ませられたというのである。 それにしても身体に余りにもひどい拷問を受けられたのである。その時の拷問により、腹中教の幹部たちが死亡した事例から考えてみても、その拷問のほどをいくらか推測することができる。 先生も余りひどい拷問のため生命が危うくなり、丁度百日を過ごした十一月二十一日に釈放され帰って来られた。釈放されたことは不幸中の幸いであったが、事態は深刻であった。人事不省で横になっておられる先生の顔は痩せこけて白紙のように蒼白で、大きな桶一杯血を吐かれたのであった。そして回復の可能性が既にないと見て、最悪の場合まで予想する一部の食口たちの間には、対策を議論する人すらいるほどであった。 しかし、漢方医師(万水台の下の白重漢医院)の投薬を現実的な契機として、神の加護と、心を合わせて全力を尽くした全食口たちの看護によって、先生はやがて回復されたのである。 受難後、十二月に鄭達玉、玉世賢など多くの食口たちが入教し、翌年一九四七年初には、同じ景昌里の鄭氏宅に集会所を移した。そしてこの年末頃には、池承道おばさんが神の導きによって入教した。その後教会はしばらくの間は順調に発展していき食口数は約四十名になったが、信徒たちの家庭からの迫害は日に日に増していった。また既成教会の反発は激しくなり、とうとう共産警察に対して連続して投稿し告発するほどになっていった。共産当局も漸次体制が固まり、宗教抹殺のあらゆる方法を研究し、口実さえみつかればすぐ教会の去勢作業を進行させていた。この頃先生はまだ年若く、言葉少なく、その心が深く信心の篤い金元弼氏にその信仰の根本を慎重に託しておられた。先生の衣食住のほとんど全般を世話し、その上集会所を貸しておられたのは、景昌里の二つの教会の主人夫婦であった。一方、多く迫害を受けた食口たちは、金仁珠、鄭達玉、玉世賢氏等であった。イエス様当時のマルタのように、恩師に侍る時間もなく、長時間市場に出かけ、リヤカーを引き夜昼区別なく日雇い労働をして教会の生計を支えてきたのは車相淳氏であった。 |