| 「統一教会史 上巻」 前編 史前史 10、獄中の獄−興南監獄生活 元来、救いを待ち望んでいる地上人類が神の呼びかけに積極的に応えれば、イエス様は栄光の中で神の国を建設できたはずであったが、かえって民の不信により追われ、十字架にかかって地獄の苦痛を受けてこられた。故に、イエス様の後を行く復帰路程は獄中の基準から出発しなければならない。 すなわち、栄光の立場で出発しようとしたイエス様の道であったにもかかわらず、それが十字架路程として展開されたために、統一教会の歴史も獄中の生活から出発するという摂理的意味があったのである。 一九四八年二月二十二日午前十時、文鮮明先生は、既成教会の異端視と、共産当局の宗教抹殺政策とが重なるなかで再び苦難を受けるようになり、ついに共産警察により拘束された。 例外はなかった。 歴史上、神のみ旨を受けて、責任を持って生きる人で、平坦な道を歩んだ人がどこにいただろうか。 出発のときから覚悟して出た道であるから躊躇することはなかったが、救援摂理が延長されていく事実がなによりもうらめしかった。 他の一部の食口たちも連行され、拷問を受けたり、家宅捜索をうけたりした。そして共産警察の蛮行は、文字通り人情も事情もなかった。従ってあたかも喪家のごとき雰囲気が教会にただよっていた。 四月七日、数多くの既成教会信徒までも含んだ傍聴者たちが興味深げにぎっしりと入り込んで、緊張に満ちた雰囲気の中で、先生に対する公判が開かれた。 先生は法廷に入るや否や大きく背伸びをされ、心の余裕を表された。裁判官は、「電気はだれが作ったのか」などについて本件とは何の関係もない詰問をした。彼らは裁判の形式的な手続き経て、単審五年刑を言い渡し、最後に言いたいことはないかと先生に尋ねた。 裁判長のことばが終わるや否や、先生は直ちにその判決文の中にある「虚構」という二つの文字を削除して欲しいと要請された。 すなわち、先生のあらゆる教えと行為は、虚構ではなく真実であることを間接的に主張されたのであった。 先生の要請を受け入れると裁判長は答えた。 実刑の加減に関することではなく、単に判決文の一部を修正させるに留まったことは、先生にどれほど余裕があり、どれほど深い思慮で摂理路程を歩んでおられるかということを見せられた例であるといえる。 それほどまでにいわれのない刑を受けながら、法廷を出られるとき、先生は平然と手を振り、意味深長な笑いを見せながら、食口たちに別れの挨拶をされた。 その後大分たって証された話であるが、その瞬間の先生の胸には別の新しい希望が湧き起こっていて、ある面においては軽い足取りであったという。それは、獄中で将来神が予定しておられる人々に会うようになるであろうが、果たしてどのような人々なのかという、好奇心にも似た気持ちであったと言われたのである。 先生が問われていた罪状は「社会秩序紊乱」であった。 そのような嫌疑を受け、断罪を受けるようになった経路はこうである。先生が始めに平壌で集会を開かれたとき、真理のみ言を聞いて食口たちは人生の目的と神のみ旨を知った。そして、これこそ自分たちが昼夜捜し求め続けてきた生命の道であると思うと、一時は他の全てのもが全く無意味なものに感じられた。 そうなると、彼らは家のことも仕事もなおざりにして、出来るだけ教会に留まろうとしたが、そこから副作用が起き始めたのである。それまでは彼らはそれぞれ家庭にあって忠実な婦人であった。ところがその生活態度を急に変えて、時間さえあれば出て行こうとするので、夫や息子など家に残された家族たちは理解することができなかった。 こうして夫婦は争うようになり、家庭に不和が起こってきた。その上既成教会の牧師、長老など中心幹部たちが集まって、中堅信者が一人、二人もれていく事実を重視し文鮮明先生を教会を破壊する異端者とみなし始めた。 教会の近所でも、朝から泣き、夜遅くまで祈祷し、讃美歌を歌い、時には喜びにあふれて笑ったり、騒ぎ立てるので、教会に関係ないほとんどの人はこれをよく思わなかった。 そうすると毎日のように家庭に反対され、隣近所からは告発され、既成教会からは投書された。そうでなくても共産党局では、どうにかして宗教勢力を減少させたいとして、その法案を求めているところであった。ところが、自己分裂の様相を教会側から表わし、処罪を要請するのであるから、もっけの幸いと罪に定めたのであった。これは、草創期の熱意がもたらした被害の一例である。先生は平壌刑務所に一ヵ月半ほど収監されたが、五月二十、咸鏡南道にある興南刑務所に移された。公称は「徳里特別労務者収容所」である。 この収容所という名前の監獄は、咸興から東南十二キロの距離に位置した興南にあった。この興南は、一九三十年代に世界屈指の窒素肥料工場が日本の財閥によって建てられることにより、急速に膨脹した工業都市であり、その窒素肥料工場が解放後、「徳里特別労務者収容所」という監獄となっていたのである つまり、解放前に作って積んでおいた肥料の山を移しかえる仕事が、この収容所の囚人たちに課せられた重労働であった。 この時期における神の導きの業を一つ二つ挿入する必要がある。 先生自身が予想していた通り、全く面識のない人々が、他からの教示によって本人の意思に関係なく、監獄のなかで先生を迎えるようになっていた。 そのはじめの話は大体次のようである。 それは、金氏という青年がいたが、彼は日本の陸軍士官学校の砲兵科を卒業して日本軍に服務中、大尉として終戦を迎えた人である。 終戦後、彼は北韓の人民軍に入隊して、ある砲兵司令官の信頼する臣僕として服務していたが、その中でも年一回づつ北韓の機密を南に流していた人であった。 ところが、その上官である砲兵司令官が軍事最高会議のため中国に出張中にこの事実がとうとう発見され、当初死刑の宣告を受けて死ぬ日を待っていたのであった。 その上、自殺を企てて発覚され鉄の鎖で縛られていた。 その青年は何の信仰も持っていなかったが、ある日の夜、不思議なことに夢うつつに白髪の老人が現われて金氏の名前を呼びながら、「お前は絶対に死なない」と言われた。また付け加えて「おまえは南から平壌に上がってくる青年をお迎えする準備をしなければならない。」と言われるのであった。 しばらくして砲兵司令官が帰国してみると、自分の愛していた部下が死刑宣告を受けて獄につながれていることことを知り、直接自分が身分を保証するという条件でやっと死刑を免じてもらい四年八ヵ月に減刑されたのであった。 ところが減刑で喜びの余り、つい南から来られる先生を迎えなければならないというおじいさんの話を忘れ、そのまま約一ヵ月が過ぎた。 ところがある日のこと、前と同じように夢うつつの中に再びそのおじいさんが現われ「お前は私が話したことを忘れてしまったのか。」と叱るのであった。それから後この金氏は、十九日間体が痛くてどうにもこうにも出来ないような苦痛を与えられた。 その頃金氏の父親は、愛する子供が死刑を宣告されたことを知って本当に心を痛めて病気になっていた。その上自動車にひかれて死んでしまっていた。すると、今度は幻の中に父親が現われて話した。 即ち、「おじいさんがお前に、南から来る青年を迎える準備をせよと言ったけれど、その青年をこれから私が見せてやるから、私の後をついて来なさい。」と言いながら先に立って案内するのであった。 金氏はお父さんの後を追って行くと、宮殿のようなところに出た。 そこに階段があって、それを三段上がってそこで拝み、また三段上がる。それから次には一段上がっては拝み、というふうにして行った。 金氏は、夢の中でそのままついて行った。するとその終わりには輝かしい玉座があり、そこには一人の青年が掛けていた。 そして導いてくれた父親が「顔を上げてあの方を見なさい」と言われて顔をあげたけれど、あまりにも光り輝いていて見ることができなかったのである。 帰りに階段を全部降りてしまったところで父親は消えてしまっていたという。 しかし、先生はあらかじめそのように待っている青年がいることを知っておられた。そして先生が入られた監房はその青年がおる監房であった。その青年は初めて先生を見たときから心をひかれて、何とか話してもらいたいという衝動を感じていたのだが、三日目に先生に対して「私たちにお話してくれませんか」と丁寧にお願いした。 そこで文鮮明先生はこの人たちに、神のみ旨と人類のために先生自らが歩まれてきたその路程を「ロレンス」と言う人の名に譬えて話された。その話が終わってから、先生はこの青年に向かって「あなたは誰にも言えない自分だけの悩みを持っていないか。」と言って、おじいさんが現われたときの話をその青年に聞かれた。 それでその青年は驚いて、今までの出来事を先生に全部詳しく語った。そこで初めて自分が幻中でおじいさんに教えられた玉座に座っていた青年は、今自分が話している人であるということを知るようになった。その時からその青年は先生についていくことを決心したのであった。 これと似た実例を一つ付け加えて先へ進もう。 約二、三千名を収容しているこの収容所の総監督をしている人は朴氏(朴正華)と言って、彼も刑を受けて服役中の囚人のひとりであった。 彼は青年の時は基督教に従順であったが、現実的な事情により人民軍の警備隊に入隊し、将校として働いていたが、容貌から見ても思想的に見ても人望の厚い人であった。 文鮮明先生は、その収容所の性格、雰囲気、そして自らの特異な立場等を考えて、ふだんはほとんど語らないで過ごされた。 あるとき、先生が作業場での昼食の時間を利用して、総監督である朴氏に近寄って、洗礼ヨハネが使命遂行失敗したことについて話された。 既成教会の全ての信者たちは、洗礼ヨハネは偉大なる聖者として絶対視する傾向があったが、もともと基督教の幹部であった朴氏は「そんなことはあり得ない」とかえって先生を叱ったのだった。 実のところ、その人の一言は先生の生命を左右する立場にいたのである。例えばその監督が、「あの人は思想的に不安である」或いは「反動分子」であると刑務所幹部に話したら、即刻先生の生命が危険にさらされるのであった。 そのような観点から見ると、先生がそういう話をするということは、その人が摂理上、意義のある人だということを先生は知っておられたということになる。 一方、その朴氏が「そんな事はあり得ない」と言って反発した時、先生は「あなたがそんなふうに言ってはいけないんですね」とおっしゃられた。 その晩、総監督のところにも幻のおじいさんがあらわれ、「今日お前に話して下さったあの青年はどういうお方か知っているか。そのお方の言うことは全部正しい、絶対にそのお方についていかなければならない。」というふうに教えられた。 あくる日の昼の時間にも、先生は朴氏に近づいて行って話をした。朴氏は昨晩おじいさんから警告を受けているから、本当に申し訳なくて黙っているので、そういうときに先生が「昨晩何か夢をみなかったか」と聞かれた。「この人は、どうしてそういうことを知っているのかな」と不思議に思いながら、朴氏は先生に昨晩起こったことを全部話したのであった。 そうすると、先生はまた朴氏にお話するのであった。どういう話かと言う、とても信じられないような話をされた。今度はイエスの母親は本当に責任を全うしなかったというような、今までのクリスチャンにとっては全く信じられないような話をした。 そうすると朴氏は、ヨハネのことまではまだよかったのであるが、今度こそ本当に怒ってしまった。その時先生は「そういうふうには考えてはいけないんだがな」と言われてその時には軽く別れたのだった。 その晩、そのおじいさんがまた現われて「お前はあの方がどういうお方だかわからないのか」と言いながら、今度は本当に耐え難いような苦痛を体に与えた。 もう少しで息が絶えてしまいそうな苦痛に陥いるので、朴氏はおじいさんに「あの方のお話を絶対に信じるから、許して下さい」と言わざるを得なかった。 次の日の昼食の時間、先生はまた同じようにそういうことが起こらなかったかと尋ねられた。そうすると朴氏はそれ以上逆らうことができず、深く悔い改めて、今度こそ先生の話を信じ服従することを誓った。 そこで先生はもうひとつの試験をされた。その日も、もう全く信じ難いような話をされた。 すると朴氏は愚かな人でそこでもまた強く反対した。そうすると天からの罰が与えられ、本当に耐え難い苦痛を受けるのである。 それが三日続いて、三日目に初めて永遠に先生の前に屈伏して刑務所の中で先生を恩師として仕え奉ったのであった。 以上は獄中においてさえ必要な人を準備し育てられる神の摂理の周到性を見せた例である。 この刑務所生活の内容は、人間が担当し得ないほどの重労働であり、宿舎と食事は言い表わし難いほどであり、非衛生的な生活条件をも甘受しなければならず、更生を願う修養の場であるというより生き地獄の標本であり、死に至る予備校と同じようなものであった。 であるから古参の在所者たちが、新しく入って来る人たちの顔を見て健康程度を判断し、第一印象で「どのくらいの期間しかもたない」と予言すれば、ほとんど正確にそれ位の生命で終わり、あとは担架で運ばれていくということが常識化されているほどであった。 食事は毎食雑穀の御飯が少しづつ配られた。おかずは全くなく、汁は薄い塩のおつゆが少しづつ配給される。大きく頬張れば三口で無くなってしまうほどのこの雑穀の飯は、普通の人を基準としてもあまりにも少量であり、まして重労働者に対するものとしては、食べて生きてゆけというよりは重労働に酷使するための最少量の穀物にすぎなかった。 文鮮明先生にとっても、その巨体に対してあまりにも量が少なかった。しかし、初めの三週間はかえってそれを二つに分けて半分は隣の人に与え、残りの半分だけを食べられた。そして、その半分が自分に与えられた全てであると自ら思われた。 そのようなことを続けられて、決めた期間が過ぎた後一人分を全部召し上がり「今日から私は二人分を食べる」と思われた。実際にもその時までより倍の量をとられたことになるから、人より元気が出るのを実感することができる。 だから食事時間になって、皆それぞれ器に飯を受けて食べているが、普通の人は口に半分位入れると自分が食べていながらも、自分が食べているという事実を忘れているという状態であった。 自分自身は御飯を食べていながら、自分の頭と目は、他の人が食べているものに気を取られて眺めている。他の人が食べている物を見て、自分の口や頭は自分自身も今食べているということを忘れて、食べているにもかかわらず、関係のない他人の口に入って行く御飯の固まりを欲しているのである。そうしながらも、手は相変わらず無意識に動き、口を動かし続けてみな呑みこんでしまう。 そして全て食べて空になった器を発見してその時になって初めて驚いたように、「こら、僕の御飯を誰が盗んで行ったのか」と怒鳴る。このような気持ちで神を慕う者だったら、恐らく歴史的中心人物になれるであろうと先生は語られた。 このような状況下にあって、毎回一人分余計に召し上がると思われることは、大変な力と慰めになるのであった。 また夜になれば、就寝時に一日の日課の最後として一斉にコップ一杯の水を配った。 これもまた渇きを癒すためには不足であったが、先生は渇きを抑制し、タオルにくまなくそのコップ一杯の水をかけて濡らしておいて、朝早く皆が寝ている間に四時に起床し、全身を拭かれた。 これを出獄時までされたので、その悪条件のもとにおいても、先生は立派に健康を保つことができたのであった。 監房には出入口があり、内側に手洗所があった。その時先生はいくらでも一等地である門側を占めたことができたにもかかわらず、自ら進んでその臭い手洗所の横を選ばれた。摂理的立場から見ると、天の代身者であるゆえ、身体を他の人たちが勝手に越えて通ることを嫌われたためである。 そしてそのような不遇の中にあっても、先生は少しも自分の立場を慨嘆されず、上には神を思い、下にはあらゆる人々を世話することを忘れなかったのである。 それは第一には自分についての祈祷は遂に最後までされなかった。何故なら神は現実の立場は言わなくても既に皆御存知であり苦しみを受けておられるのに、その上にまた生かして下さいと訴えるということは、幼い子供が駄々をこねるようなものであり、更に親を苦しめることに他ならない行為であると考えられたのである。 常に神のみ旨成就のことしか頭にない先生は、平壌において食口たちを導いていた間、祈りの時は言うまでもなく、説教をしながらも涙を流さない時はなかった。しかし刑務所に入監されてからは神と人々の前で二度と涙を見せなかった。 天と地の前に自らの弱い姿を絶対に表わしたくないと思われたためであった。 その代わり先生は、獄中生活を始めた日から、平壌に残してきた、自ら導かれた食口たちのために、懇切に祈られた。毎日三回ずつ一人一人名前を上げながら、み旨の中でその信仰を守り堅く立つことを願われた。時間のないときは、その名前だけでも順番に上げて祈られた。 ある時には霊界の反応を通して食口たちが離れたり、み旨から遠ざかっていることを知るようになったが、そういう場合でも、ある決められた時期が来るまでは、彼らの名前を記憶し祈ることを中断されなかった。 何故なら彼らが神の前に立てた功績が残っている間は、彼らを最後まで擁護し見守らざるを得なかったからである。それは先生の立場が、神に代わって地上に生きているという位置におられたためである。即ち神に対しては人類を代表した立場で、犠牲と忠誠を尽くすのであるが、堕落世界に対しては神に代わって摂理を推し進める働きをしておられたからである。 とにかく神としては、人間が神に対して立てた功績に対してだけは、少なくとも報いてあげざるを得ないというのである。このようなことからも、常に人間が神を裏切ったのであって、決して神が人間を捨てられたのではないということを我々は知ることができる。 それではそこでなさった作業はどのようなものであったのだろうか。 まず先生の囚人番号が五九六番であったということだが、この「五九六(オグリュク)」は「悔(オグル)」しい(ハダ)の転音のようにも思われて、思いを寄せている人たちに意味あるものと思われた。 作業時間は、午前九時から午後五時までの計八時間で、昼の時間の三十分を引けば七時間半となる。 ところが問題は時間ではなく、その時間に行われる作業内容である。時間というのは適当に「過ごしてしまう」時間もあれば、徹底的に「成し遂げる」時間もあるからである。 すなわち、文鮮明先生と共に過ごした人たちが興南監獄に於いて持った作業時間は、朝九時から回り初めて、夕方五時にピタッと止まってしまう高速機械の開店にも似ていたのであり、そのような日々を送られていた。 先生と他の全ての入所者たちは刑務所から作業所までの四キロの距離を朝晩歩いた。今、その作業内容を見てみよう。 作業をする一チームの構成人員は十名である。 肥料を掘り出す仕事、叺に入れる仕事、重さを計る仕事、叺を縛る仕事などを十名がそれぞれ分担するのである。 一日の一人当たりの責任は百三十叺づつで、合わせて千三百叺を一組で縛り終わらなければならないのである。その時の状況を一般社会のそれと比較して次のように簡単に要約して先生が説明されたことがあった。 「この世の基準なら一日に三食、油物を食べて最高にやったとしても一日七百袋だよ。この工場の場合はその倍に近い。食べ物は少ないし、大口なら三口で終わってしまう。そして重労働するものだから、朝食べて工場に向かうその道でもう足が何回も曲がるのだよ。そういう足を引きずって行って朝から働き出す。それはもう悲惨極まりない。」 このように作業の責任分担は悲惨と言えるほどであり、それを果たすことは多くの病弱者を含む囚人達には力に余ることであった。 そしてそれを成し遂げるためには、言わば電光石火の早業が必要なのであり、しかしそうであったとしても力不足は免れなかった。前の人が掘り起こした肥料を、二人が叺の両端を分けて持って、後からついて行きながら、中にシャベルで四杯ずつ入れる。その後でこれを秤に上げて計っていくのであるが、初めのうちは近い所に置いて秤に持ち上げて置くのであるが、掘っていくうちに最後には四、五メートルも投げて秤に上げなければならなくなる。 そして重量(四十キロ)が合えば降ろして縛る。言葉にすれば何でもないようであるが、担当者はまるで機械のようになって作業しなければ責任遂行には程遠い結果をもたらす。二人がそれぞれシャベル四杯ずつを入れるとしても、加減の必要のない適量でなければならないし、そこで過不足が生じれば更に足したり減らしたり大変なことになるのである。 叺を投げるとそれが全部秤の上に落とされ、秤の上で計るという作業は避けることのできない必要過程である故に、重量の過不足が生じていては時間の損失となり責任数量を完全に果たすことができない結果となる。計量が終わればまた約二十メートル程引っ張っていって、紐で縛って積むようになっている。 このようにして肥料の叺を積めば、作業班の仕事は終わり、次の運送は別の人たちがトロッコで運搬する。トロッコは、元来その語源は「トラック」であるが、線路の上を二人の人間が手で押して運搬する小型荷物車輌を日本人がこのように呼んだのである。彼らが荷物自動車のトラックとは異なった意味合いを持たせて呼んだこの言葉が、韓国の言語としてそのまま使われることになってしまったのである。 この場合、その手の動きは神の手のようでなければならないし、一括作業であるから機械の連帯作業の如く正確でなければならないのであった。 肥料を叺に入れて秤に投げ上げるためには、掘って行くに従って秤を移しながら、秤の水平をもとっていかなければならない。しかし、そうすると時間がかかるので、簡単に動かすことができない。その距離が約五メートル以上離れ、到底投げ上げることはできないときになって始めて動かすようになるため、殆ど投げることになるのである。順序正しくすれば、毎分一回秤を動かさなければならないし、その度ごとに水平をとるのに、また七分程の時間を要する。 そのため、距離が遠くなったとしても、できる限りそのまま続けるのである。大体計算してみると、二十秒に一叺縛らなければならない。そして叺に入れ始めてから計算し、縄で縛り、移し、積むまでに平均五分かかる。 これは大変な力がいるのである。いくら健康な人であっても半年以上続ければ肺病などの難病にかかるという重労働である。 その中でも、最も力のいる仕事を先生は自ら願って請け負われた。厳寒の冬に、普通の下着だけで仕事をしても、溺れて助けられた人のように汗でびっしょり濡れる。この窒素肥料を素手素足で扱い続けると、手足の皮がどんどん剥がれて、とうとう肉が赤くむき出しとなり、血が出てくる。 また手足に軽い傷を受けることもある。 もう一つの悪条件は、きれいな水が多くないということである。従って作業後に手足を洗うといっても黄色い汚物が混じって流れる非常に非衛生的な不潔な水なのである。しかし、余りにも暑く、べとべとするので、そのような水でも洗わざるを得ないのであった。 そのため体に傷があったり、皮膚が弱い人がこのような水で洗うと、毒が入って出来物ができ、悪化して重体になる場合がしばしばであった。どれひとつとっても生きていくには相応わしい生活条件ではなく、一刻も早く死んでしまえという意味が潜んでいるに違いなかった。しかし、もちろん文鮮明先生は、そのように上着を脱いで仕事をしたりはされなかったし、そのような汚い水で体を洗うこともされなかった。 その時もある天的な修養の基準を立てなければならなかったため、勝手に素肌をあらわすことができなかったのである。そして、早朝に規則正しく行う温布摩擦で皮膚を清潔に保つようにされた。人々は仕事を終え食事を終えれば、へとへとに疲れてしまって半死体のようになってしまうのである。 そのような中でも先生は勝手に横になり、寝坊することはなかった。 いつも人よりずっと遅く就寝され、人よりはるかに早く起きられたので、前述の弟子となった金氏も、当時二年以上共に同じ部屋に居ながら、文先生の休まれるところをついぞ見なかったと今日も思い出して語られる。 さらに日曜日には死んだようにぐったりとなるのであるが、先生は聖日であるから殆んどまる一日を神様と、神様の仕事と、神側の食口たちを思うのに捧げられた。 文鮮明先生御自身も直接次のように確言されておられる。「十二時以前には絶対に寝ない。昼寝を絶対しない。日曜でも絶対寝ない。・・・・百人、千人入って来ても全員寝るのが日課になっている。しかし私は絶対寝なかった。」 それではここで、これと関連して直接先生のみ言を通して、先生御自身がその環境にどのように対処していかれたかを調べてみよう。 「先生は朝(仕事を始める時)なんか最も難しいことを捜すんだけれど、みんなはそうじゃないよ。楽で易しい仕事を捜す。しかし、考えてみればそうならざるを得ないよ。朝御飯食べて約十里(四キロ)の道を歩けば、行くまでに力は皆抜けてしまい、倒れそうになるほどである。 そのような足を引きずってやっと辿りついて、それから八時間の労働をしなければならない。それは夢にも思えないことである。 しかし、それでも仕事をするのである。もし座り込んでしまったら皆眠りに陥ってしまうであろう。疲れの十字架を背負って生きているわけである。 その体でもって働くんだから、容易い所を捜さざるを得ないよ。そうしたら長くないよ。先生はそこから、もしも一歩でも踏み外せば死んでしまうという境地でそうしなかった。 死ぬことは定められている。それがどんな気分か分からないだろう。どの程度かというと、朝起きて、唾を二つの指で引き延ばせば、チューインガムのように長く伸びてしまう。何故か。それは胃に何も入っていないから、胃腸が活動して何もないので、胃だけが自動的に活動すれば熱を出す。それで熱によって、唾がそうなってしまうのである。そういう立場で、どういうふうにしたかというと、朝出るとき、『働くために出るんじゃない。ある理想世界を旅行するために出ていく』という気持ちや、あるいは『今日は何かを新たな体験する』という気持ちで出発するのである。それで働く時には、その働くことには精神を注がない。精神はみんな自分の理想世界にいっている。未来の理想世界に入って働く。だから、手だけ動かす。だからね、その二時間毎に休むんだがね、十五分位休みがあるんだが、鐘を打つんだね。その鐘の音がわからない。それが聞こえない。そういう生活をしないと、立ってゆかれないんだね。」 一方、その監房では、貴重でないものがないというほどに、どうでもいいようなものがみな重要視された。 紙屑一枚、布の切れ端、ガラスの破片、そのようなものがみな、彼らにとって、乞食に与えられた宝石のように貴重なものであった。 針金を一本手にいれれば、歯とガラスと角を利用して、立派に針を作って使った。糸屑を集めては、それをつないで立派に使うといったこともあった。従って誰かが、肥料叺の倉庫や、作業周辺のどこかで、何か少しでも使い道のあるものを得たならば、たちまちその噂が全刑務所内に広がった。 針一本得れば、それこそ大ニュースとして一躍その人は有名になり、羨望の中で話題の主人公として浮かび上がってくるのである。 それほどであるから、刑務所内では原始磨製石器時代の人たちの如く、驚くべき技術とアイデアが発達したのである。 そして、多くの在所者たちが、マラリヤにかかって死ぬほど苦労しながら、食べるためには毎日働かねばならなかった。 共産党の生活原則の中に「働かざる者食うべからず」という言葉があって、病気で仕事に出ていかなければ御飯を半分しかもらえないために、体が痛くても安心して休むことができないのである。 またこのような話もあった。ここに丁度基督教の牧師が一人入監しており、その娘婿も一緒に入っていた。 ところが、この娘婿がマラリヤにかかってなかなか治らず、長い間病んでいた。その時義理の父である牧師は少なからぬ「キニーネ」(マラリヤの良薬)を持っていたが、それを分けてやらなかったというのである。我々は、聖職者である牧師といえども、その人となりは、千差万別であることを知ると同時に、極限状態になれば人心がそれほどまでに薄らいでくることを思い、恐ろしくなる。 実は先生御自身もマラリヤを一ケ間病みながら耐えられた。しかし一日も休まず仕事を続けられたのである。しかしながら、先生がこのように困難に耐えながら毎日仕事を続けられたことには意味があった。一般の人とは、その意味する内容が違っていた。それは神のみ旨を成就するために忠義心に満ちた思いで死の道を歩んだ先知者、先賢者たちの恨みを、十字架路程を通してはらすためであったのである。はったい粉一杯を出監の後、一坪の土地と交換しようという話が行き交うほどであるとすれば、我々はその事情をいくらか予測することができる。 それだけではない。ある時病弱な老人が、疲れ果てて死にそうな顔で、その粗悪な雑穀の御飯を口に入れて、飲み込もうとした瞬間に息が絶えてしまうこともあった。そうすると口の中にいくらか御飯粒が残り、大部分は口外に流れ出してしまう。 我々は老いて、一時間でも長く生きようと必死の努力をしていたこの老人の衰弱した姿を想像しただけでも、それがどれほど醜いものであるか直ちに感じることができる。 一般社会でそのようなときは、無関係な間柄であれば逃げてしまいたくなるほどである。しかるに、その口をほじくり出して食べる人もいるほどである。 同じ部屋にいる人々が互いにとびついて今度は私の順番だと言い、勝負をつけるため戦いながら死者の口の中からと口の外に散らばっているご飯粒をかき集めて食べる具合であった。この部分に関して先生が直接おっしゃった生々しい証詞がここにある。 「いくら疲れていても、ご飯のため足をひきずって仕事の場に出て働き、気力が尽き果てるまで働く。そこでは死力を尽くして本気で働く、そうするうちに宿所に向かって帰るというのは最高の希望である。 それで、ありったけの力を出して、ご飯を食べるために帰って来る。帰ってきて夕飯をもらって食べるが、ある人の場合、食べている途中にご飯を口の入れたまま行ってしまう。そのまま死んでしまう。そうなると横でけんかが起こる。実は、そのご飯を前から狙っていたのである。ある人は、その口に入っているご飯粒まで出して食べる位だから」 そのような中で先生は約三年間に及ぶ苦役をされていったのである。 このような環境の中では、家族たちが面会のとき持ってきて差し入れしてくれる何升かのはったい粉は大きな財産なのである。それで持っている者が盗まれないようにするは、はったい粉を枕にして寝なければならなかった。そうしなければ夜間に盗まれてしまうのである。このような、はったい粉保全策は、ここでは当たり前のことであった。 そのとき先生にも、玉世賢おばあさんなど食口たちが面会のときたびたび、はったい粉の袋を持っていって差し入れをされた。 しかし、先生はそれを枕にして休んだりはされなかった。 案の定ある夜、はったい粉の相当量を盗まれてしまい、かなり大きな事件となった。盗まれた本人はそれほどでもないのに、同室の囚人たちが騒ぎたて論争が始まった。先生は頼みもしなかったのだが、同じ監房の人たちが自分が泥棒したという嫌疑を晴らすという意味もあって互いに騒いだ末、犯人を捜し出してしまった。 そして、さあ、やっと捕らえてあげたから、心ゆくまで犯人に制裁を加えよというのである。 先生はその時、みんなとは反対にその犯人に対して「どれほど空腹であったか」と言いながら「一度心ゆくまで取って食べなさい」とやさしく許され、その犯人にそのはったい粉を袋のまま渡された。はったい粉の泥棒は、犯罪人である自分に語られるその恵みの言葉が何を意味しているのか分からず戸惑いがちで、返事はおろか顔を上げることさえできず、あわててなすすべを知らなかった。 それで先生は仕方なく、御自分で充分と思われるほど分け与えて「食べなさい」と言われたが、それでも泥棒は動こうとしなかったのである。 しかし回りの者たち、すなわち泥棒を捕まえた者たちが、それではただでは済まない。泥棒を捕まえてあげた者には謝礼の一つもないのに、却って憎らしい泥棒に残った物をそのまま渡し「もっと食べなさい」と言い、それでも何もしないとなると、今度はそれを充分に分け与えて「早く食べなさい」と言うのであるから、一体このようなことがあって良いものかと言わんばかりに皆快く思わなかったのである。しかし結局回りの人たちにも与えられた。常識的にみれば回りの人たちの態度は間違ったものではない。ただこのことを吟味してみるなら、回りの人たちを不快にした先生の事の処理の仕方には多くの教訓が含まれており、我々に大きな意味と教訓を教えてくれるものと思われる。 その間、当初予測していた通り先生は十余名の弟子に会って言葉なき中で深く神の心情を交流しながら意味深い歳月を過ごされた。 大抵、神の霊的働きや先祖たちが夢に現れて指示するなどの霊的な役事により、また先生から漂う人格的雰囲気にひかれて別に話をしなくとも近付いて来たりした。また、どこでもそうであったが、弟子たちの数は増えていったのである。 しかし言葉でもって信仰と真理と人生を語り合うことは到底出来なかったが、それは、見つかった時には大変なことになるからであった。 各監房には共産当局から送られた情報員の資格を持った偽の囚人が一人ずつ入っており、それが誰であるか本人以外誰も分からなかった。そのため安心して行動できる時間も場所もない。ある特別な彼らの言う反動的な会話でも交わしてみつかった時には苛酷な過重処罰を受けることになるのである。 従って、このような環境の中で弟子を作るということは、真に神の働きがなくては考えることすらできない。 その弟子たち、例え身は囚人であっても、彼らの中には非常に有力な人たちもいた。前述したが、その代表的な例が監房の室長である金氏である。また総団長であり、自治委員長格である、すなわち囚人の頭である朴氏は、金氏以上に有力であった。 その方たちは、時々先生に「私が話をすれば、そのような重労働をしないで楽に過ごせるようにして差し上げることができます。」と進言した。その度毎に先生は「私は獄中に於いても、最悪の獄中生活をしなければならない。」として最後まで受け入れず、その恐ろしい重労働を続け、身をもってこれに勝たれた。 そのようにしながらも一年に一度の模範囚表彰の時には、毎年表彰されるほど誠実に服役された。 先生がこのように毎年模範労働賞をうけるほど忠実であったのは言うまでもなく、共産党局側に忠誠を尽すためではなかった。あくまでも、過去、現在、未来の三世の歴史を通して苦痛を受けたあらゆる人間の罪業を引き受け、代理で蕩減しなければならない立場に立っていることを知っておられたが故である。その天的な使命に忠誠を尽すために、自らより苦難の道を歩まれたのであった。 どのようにしても、蕩減を受けなければならないからには、徹底的にそして完全に晴らそうという気持ちからであった。 中でもある年の冬、十二月十二日から一週間、獄中で受けられた悪食経験は、先生にとって一生忘れることのできないことであり、歴史的な事実として後世にまで長く人々に記憶されなければならないものである。在所者たちは、その期間、毎日毎食、真黒い殻付きの御飯を食べるよう強要された。田舎でしばしば枕の中身として使われるものである。鉄板に譬えるならば鋼鉄板にあたるだろう。カチカチとして、角になっていて、モミの芽に象徴されるように、触れると角が痛くつきさすのである。 豆の殻など全て穀物の殻は家畜の餌として使われるが、ただ籾の殻だけは飼料とならず、むしろその茎が家畜の飼料として使われているのを見れば、それがどれほどであるか分かるであろう。そのような殻のついた籾を煮て人々に食べさせようとしたのであった。 遭難して漂流した者達が、幸い無人の孤島に漂着し、唯一の自生植物(食物)である籾を発見して、他に方法がなかったために、殻のついた籾を食べたという小説としての話があるが、政府当局が、意識的に殻のついた籾の御飯を食べさせたと言う話は、話の性格が前の例とは根本的に異なる。しかし、その時先生は、そこでさらにみ旨に対する決意を固められたのである。 「おお! 君たちはこれを食べて死ねと私たちにくれるのであろうが、私はこれを有難く受けてみ旨に励んで行く良薬としよう」と誓われたのであった。 その残酷な現実をも良い契機した先生だが、この事をいつまでも忘れないでおられるのは、この厳然たる事実は完全に消滅することはできないという鉄則に起因するようであるが、そのような先生が恐ろしくさえある。 先生の獄中生活の中で最も苦痛だった事は、毎日感想文を書いて提出させることであった。 先生はそれを書かなかった。というより書くことができなかったのである。共産主義を讃える反省文を書けば、彼らに同調するための偽りを行うことになり、また彼らにに対する服従を現すことになる。だからといって、何が悪いと批判しては、とうてい無事に過ごす事ができないと言うことを知っておられたためである。 それで、共産主義の思考方式やその体制の施策が悪いとも良いとも書かず、いつも白紙で出し、その方法で一貫した。ところがそれが問題となった。 そこには文字はなかった。しかし、常に仕事だけは最高にしておられたため、最後まであやふやなままで過ごすことができた。 刑務所内の少なからぬ在所者達に、亡くなった彼らの祖先達が現れ「あの監房の五九六番にあなたの食べ物を差し上げなさい」など啓示を与えた。それを通して、先生は全く知らない人々から多くの貴重なものを受けられた。 その頃、今日の玉世賢おばあさんが金元弼氏とともに、度々はったい粉などを携えて面会に行くと、古ぼけた服と、すりきれてしまったちぐはぐなゴム靴を履いて先生は面会場に現れた。 それで、その次に面会に行ったときに、新しい服と新しいゴム靴を差し上げて、これで弟子としての責務を果たせたのではないかと思い少しほっとしていた。 だから次に訪ねていくときには、新しいゴム靴を履き、新しい服を着てこられる先生の姿を予想して、いくらか安心して出かけたのであるが、ところがどうしたことか、先生は相変わらず前回の古ぼけた服を着、すり切れてしまったチグハグのゴム靴を履いてこられるのである。 このようなことが何度もくり返された。それなりの何か内的な事情があるのだろうか。それとも、いくら差し入れても、それが先生の手にまでは届かないのだろうか。そのように思いつつも、あえて尋ねることもできず、内心不思議に思いながらも、何人かの食口たち同志での話にとどめた。 そうして後になって、共に獄中で侍ってきた弟子達に尋ねてみた。すると、先生はその新しいゴム靴も新しい服も皆、その間、夢での啓示によって食べ物やその他の賜物を送ってくれたありがたい人たちに分け与え、刑期を終えて出ていく人たちに着替えさせていたというのである。そして、先生自身はそのまま古いものを体にまとって過ごされたと、先生の獄中生活の一断面を聞かせてくれたのであった。 であるから、先生にいくら新しいものを差し入れても、先生御自身の姿にはいつも変わりがなく、実際に恵みを受けるのは他の人たちであった。 そうするうち一九五十年の夏、思いがけない悲劇の日が来た。北韓共産政権の南侵で始まった、いわゆる「六・二五動乱」である。 六月二十五日、聖日の朝、北韓の共産軍は一斉に、平和に眠っていた南の地に向かって砲門を開き、戦車を走らせてきた。この戦争は一時、自由大韓が底の抜けたように敗走を余儀なくされ、一方的な攻撃の勢いは恐ろしいほどであった。しかし、国連軍の参戦により、わずか数ヵ月のうちには漸次勢力が逆転し、とうとう北韓一円が国連軍応酬爆撃を受けざるを得ないようになった。 興南もこのような天罰的ともいえる爆撃の中で、誰も生き残ることが難しい状況であった。一九五十年八月一日、百機以上のB二九爆撃機が総攻撃して興南工場を大爆撃した。 この時、先生には神から生命の安全に対する予告があった。先生を中心として直径十二メートルの円内には、爆弾の破片一つ入って来ないようにして下さるというのであった。 先生は啓示の内容までは明らかにされず、たとえ生きるにしても死ぬにしても、このような困難なときにはひとかたまりになっているのが良策ではないかと提議された。そして、み言に応じて集まって来た人たちは全員無事に避難することができたのである。 しかし、連合軍が目の前に迫ってきたとき、共産党は囚人達をまとめて処刑し、先生のすぐ前の人まで引っ張られて処刑されたのであった。すなわち、ある夜中のこと、一人一人の名前を呼ばれた。それは他の場所に移動するということだったが、先生はとうとう最後のときが来たことを直感し、深刻な祈祷をされた。事実、それは為し得る最後の道であった。 呼ばれて行った人たちは、一人一人井戸に逆さまに投げ入れられ殺された。次の番が文鮮明先生であった。時は午前二時頃、丁度その時連合軍の総攻撃が開始され、生き残った人は、皆獄門を押し倒して四方八方に避難して行った。 それは十月十四日のことであった。その時先生も何人かの弟子をつれて平壌へ向かって徒歩による長い道のりを出発された。 国連軍が先生の収容所に近い咸興の地に真っ先に上陸したことは、摂理的観点から見る時、先生を救い出すための神の作戦の結果とみなすしかないのである。 |