「統一教会史 上巻」

 前編 史前史

 11、釈放そして自由南下

 文鮮明先生は当初、つまり一九四八年度には共産党によって五年刑を言い渡されていたが、その年の秋、北韓で共産党による政権が樹立され、その記念として減刑措置が言い渡され、先生の刑は3年4ヵ月に減らされた。そして六・二五南侵に対する国連軍の逆襲により、一九五十年十月十四日、受難二年八ヵ月ぶりに出監され、自由の身となられたのである。

 その後、先生は十日間歩き続けて、十月二十四日、ようやく平壌に帰ってこられた。

 朴正華氏は既に八月中旬頃出監し、その頃には平壌に帰ってきていた。しかし、歴史的な転換期であるその時に、白黒と分別するのが困難な渦中において、彼は不幸にも足を骨折してしまったのである。

 文鮮明先生は玉世賢おばあさんの家に寄宿しながら、三年前に先生が収監されるときまで、教会で信仰を育てていた人たち、すなわち以前に食口としての因縁があった人たちを四方八方に訪問されたのである。

 ここでひとつ特記すべき事実は、一九五十年十一月、文鮮明先生が玉世賢おばあさん宅に寄留しておられたその時に、聖歌「聖励の新歌」と「栄光の恩賜」の二曲を自ら作詞されたことである。

 死の沼のような恐ろしい監獄生活から逃れ出てまだ一ヵ月も経たない時であったが、その歌詞の中には人生に疲れたとか、恐ろしいほどの難しい峠を克服したとか言う自慢は少しも見出すことができない。そればかりか、そのような険しい路程を経てこられた痕跡すら表わされていないのである。却って私たちは、新しい歴史建設への感激と勇進に富む語句で満ちていることを知るのである。

 先生は獄中で苦労された三年間を、恨めしい苦難の路程とは思わず、あたかも上級学校に進学するために当然履修せざるを得ないという、下級学校での誇らしい学業過程を終えられた程度に思われたようである。

 しかし、先生のそのような心の持ち方とは裏腹に、その姿は非常にやつれられ、見る人をして興南において受けられた数年間の生き地獄生活がいかほどであったかをいくらかは予測させることができた。

 先生は、そのような状態であっても自らの健康は考えすらしないし、しかも平壌滞在四十日間は、全面的に昔の食口たちを収集するのに使われたのである。近くであれば先生が自ら訪ねられ、遠くであれば金元弼氏を通じて訪ねさせて、先生の出獄の便りを伝えて、信仰的な勧告と激励を与えられたのであった。

 なかでも先生にとって最も印象的なことが二つある。

 一つは、先生が出監される以前に既に八十歳になっていた一人のおばあさんのことである。

 このおばあさんは、既に四十三年間も伝道生活をしながら神に召され、直接霊的指導をされながら統一教会、いわゆるその時の先生を訪ねてきた人である。

 先生におかれては、そういう人たちに責任を持たずして、無関心でもって放棄してしまったならば、神によって召されたその者の功績を認めないことになるから、そうなると神によって讒訴される事になる。そういう事が分かっているため、どんな事があっても捜し出さなければならなかったのである。しかし、三年近い間に死んだかもしれなかったし、とうとう一週間を費やしても捜せなかった。

 そして、一九五十年十二月二日に全平壌市に後退命令が降りた。敗北しつつある北韓共産軍のために中共軍が大量に投入され、人海戦術で潮が満ちるように押し寄せてきたので、国連軍と韓国軍は作戦上後退するしかなかったからである。

 人々は事態の緊迫のため、皆われ先に逃げようと必死に急いでいた時、先生は天倫と名分を立てるために、最後の瞬間まで残っておられたのである。

 十二月八日(四日は間違い)、中共軍が東平壌に既に入場したという話を聞いている頃、ようやくそのおばあさんを捜し出した。

 早速、金元弼氏を通して訪問させると、そのおばあさんは死ぬ運命の直前の立場にたっていた。

 そこで金元弼氏は大声でもって「先生が帰ってこられましたから、一週間ぐらい前から捜しまして、自分が代わりに伝えに来ました。」と伝え、かろうじてうなずいているのを見て帰ってきたのであった。

 いまひとつは、朴正華氏に関するものである。彼は前にも述べたように、片足を骨折してギブスをしており足が棒のようであったから、身動きが出来なかったのである。 

 本来なら、このような場合には彼の父母や兄弟姉妹たちが彼を連れて避難しなければならなかったのであるが、健康な人たち同志で逃げてしまって、彼は不具の体で一人残されていた。朴正華氏は、その頃彼の姉のところにいたが、彼が一緒にすんでいた姉夫婦は自分の子供たちを連れて南下してしまっていた。実際、彼らとしてもどうすることも出来ないことであった。中国軍の大群が地鳴りを響かせながら入ってきているときであり、健康な足を持っていても、無事避難することが出来るか疑わしいほど危険な状況だったのである。

 それで朴氏は自分の家に僅かセパード犬一匹と米と薪だけ残して一人で折れたギブスの足を引きずりながら、どうにか飯を炊いて食べるように残していったのであった。

 丁度そのとき、まさしく朴氏が内心で考えるには「自分と固く約束して誓った先生だに自分を捨てて南の方に行ってしまわれたのだろうに」そう思うと、朴氏は寂しさのあまり涙が止まらないのであった。朴氏がそう思うのも無理はなかった。

 それは十二月二日に後退命令を受け、既に殆どの人が出発してしまっていて、その日はもう四日になっていたから朴氏の嘆息も、もっともなことだったのである。

 ところが金元弼氏がおばさんを訪ねて帰って来た途端に朴氏の居場所に関する消息が入ったので、金氏はその足ですぐ朴氏を訪ね〓今先生が出発しようと待っておられますから早く行きましょう」と伝えたのであった。 そして丁度その家にあった自転車を出して、傷つきギブス姿の朴氏の巨体を乗せ、先生はハンドルを持って前で引っ張り、後では避難の荷物を背負った金元弼氏が押ししながら今の万景台というところで船に乗り、大同江を渡って平壌を後にし、自由の南韓に向い厳しい避難の道を出発したのが一九五〇年十二月四日であった。 その頃、平壌の町全体が修羅場と化しており、阿鼻叫喚の真っ只中にあった。

 中共軍は人間を爆弾の代わりに投入し、受け止められない程の多人数が押し寄せて来たので、国連軍の飛行機が爆撃するのに、時には敵味方を完全に区別することが出来ず、平壌の町は混乱に覆われていた。

 国道や大きな道路は後退する国連軍に明け渡すように指示されていたので、小さい道に押しやられて、押しつぶされる避難民の群れの中に先生の一行も加わっていた。

 巨体の怪我人を自転車に乗せて引っ張ったり押したりしながら川を渡り山を登る文鮮明先生一行の血みどろの姿、それでもなお摂理を進めなければならない神は涙ぐんでおられたのである。

 果てしないとも思える避難の道を数え切れない北韓の難民が長蛇の行進を続けている。北韓三十八度線以北の酷寒は受難の民族に、その歴史の一ページがなお一層深刻なものであったことを記憶させた。

 平凡な避難民の群れの中で、誰よりも苦難の多い道を辿って行かれる悲惨な少数の男たちの姿があった。

 この方達こそ、神の切なる願いを受けて思慮深くその時を歩んでおられた文鮮明先生と、その弟子の金元弼氏、そして先生が監獄におられた頃からの弟子である朴正華氏であった。

 後方からは中共軍が人海戦術で押し寄せてきていたので、道路を埋め尽くしていた避難民たちは騒ぎたてた。時々、得体の知れない飛行機の機銃掃射を受け、民衆は右往左往して混乱に陥り、家族を失い、四方八方に離散してしまった。

 そしてある日の朝のことであった。

 すぐ後ろには無数の中共軍が怒濤のように押し寄せてきていたので、こうしていては皆が死んでしまうと切迫した情勢が分かる朴氏は、とうとうこう言わざるを得なくなった。

 「このままでは明らかに自分のために、先生と愛する金兄弟が犠牲になりますから、どうぞ先に行って下さい。自分は残ってここで死ぬつもりです。」と言ったのである。

 この言葉を聞くやいなや、文鮮明先生は非常に立腹された。

 「死ぬとか生きることか言うのは、自分一人によって自由にやれるものじゃない。どうせ神に誓った我々の命であるから、死ぬも生きるも自分で決めずに神に任せよう。どうせ決意して出発したんだから、行くところまで行くんだ。」と叱ったのだった。

 朴氏はその言葉の前に、感謝して何も言うことがなかった。

 文鮮明先生は、この苦難の路程に関して蕩減復帰原理の観点から次のように説明された。

 「私たちは、この国を愛し、この民族を救おうとされる神の願いを自分の願いとするものがあれば、そこに於いて喜びをもってなおかつ幸福な道を行って国を救えるならば、それは最も理想的なことだ。しかし、蕩減復帰の摂理の路程というものはそんな風になっていないんだ。国を救おうとするその出発の時から、その過程を通過する時も、苦労の道を克服しつつ行かなければならない。そうして将来の勝利の基台を作っていくのでなければ、国を救うことは出来ないのである。」

 平壌を出発して数ヵ月後、先生一行は三十八度線付近に位置する黄海道に到着された。

 黄海道の首都海州から延安までは鉄道があり、その中間ほどに青丹という小さな村の駅があった。

 先生の一行は、最初丁度その近所のある空家に入られた。そして、もしか事があった場合には、直ちに三十八度線を越えられるように、待機していたのである。

 そうするうちに後退命令が出たらしく、周辺の動静を調べてみると、夜中にこっそりと警察民兵隊の一、二人が逃げ出し始めていた。事情を深く探ってみると、彼らは龍媒島へ行ってそこで船に乗り、仁川に直行しようとしていたのであった。

 それで先生一行もその方法を採ることにして、ともかく乗船に成功するために計画を練った。

 それは不具同然の朴氏がいること、何の身分保証もなく、その上に刑務所を出たばかりゆえ、北韓の兵隊と同じように頭は丸刈り式に短く刈っておられた先生の事情を考えた上での事であった。そういう状況であったので、いつどこで受けるかわからない検問や、検索の時には必ずあやしまれるだろうと思うと、何とかして南下の時間と距離を短縮してその路程を簡単にしたいと思われたのであった。

 龍媒島と呼ばれる小さな島は、先生が泊まっておられた青丹付近から見て、西南の方にある青龍半島の南端のハクサンリ村から、海岸道路で六キロ離れたところにあった。

 そして先生の一行は決心がつくとその夜、直ちに道を出発し、八十里を歩いて半島の南端に着いた。

 そこから龍媒島までの十五里の道は、満潮時にはおだやかに海水に塞がれていて、干潮時には水が引き、どろんこの道ではあったが、徒歩で往来することが可能である。

 しかし、いつ海水が満ちてくるかその時間も分からなかったので、潮が満ちてくれば、海の真ん中で水葬の運命を免れる術がなかったわけであり、それこそ一大冒険を断行する道であった。

 部落民に尋ねてみると、今から二時間半以内に、あそこまで行かなければ大変なことになると答えたので、決断を下し、海水の中に入って行かれた。

 われわれが推察するに、その泥水に覆われた地面は非常に滑りやすく、水は大体膝の上まであり、途中には腰を下ろして休めるような適当な岩一つも出ていなかったのではなかろうか。

 午前三時頃先生は四十歳に近いそのギブスをあてた巨体の負傷者を背負って歩を進め、元弼氏は避難の荷物を背負って水中に自転車を引くという難行であった。

 普通の弱虫たちには、陸路でさえ思いもよらない悪条件の事を、水面下の道で行ったのである。

 つまり十五里にわたる海中の道を、重い壮丁を背負いながら、一度も休むことなく渡らなければならず、泥水の中に倒れてギブスでも壊してしまおうものなら、避難の途中でもあり、また孤島に向かっているのであるから、完治する何の術もないという行き詰まった形勢だったのである。

 それでも先生は、その海中の道に歩を進めながら心の中で「復帰の道においてこれ以上の困難が訪れようとも拒まず受入れ、こういう道が一生続いても行こう。そういう覚悟を神の前に誓うことの出来る良いチャンスである」と思いながらみ旨に対する決意を更に固めて行かれたのである。

 凍るような水中の道十五里を注意深く、ありったけの力を尽くして進み、夜明け前に一行は目的の島、龍媒島に到着した。

 しかし朝が来て、昼になって島の周りを調べまわっても先生の一行を乗せてくれる船はなかった。時々、警察官を乗せて発つ最後の船を見た。小さな船に定員の三倍を越える人々が乗り込んで騒ぎたてていた。今にも沈むかのように危なっかしく波打つ滄海の中で、人々は生命の本能の求めに応じて、自分だけは生きてみせようと乗り込んでいたのである。

 そこには同志も親戚も知人もなく、人情も事情もなかった。人間の道理もなく、明日の運命を推測する余裕すらなかった。

 ただ「私」が騒ぎ立て「刹那」が脈打つ非常地帯だった。

 十余歳になる幼い娘が一人で船に乗せられ、最初は泣き叫んでいたが、やがて遠ざかってゆく母親に向かって悲しみの歌の一節を歌い出した。

 「私にどうしろと言って一人残していくのですか、お母さん−」今日に至るまで、か細くこだましているかもしれない戦争孤児の悲しみの代表的な歌である。皮膚をきる厳冬下、北韓の孤島で、境界線に一節の悲歌を反復させながら、うら寂しそうに泣き濡れていた。

 それほど殺伐とした孤島で、寒さと共に一昼を過ごし、午後四時頃そこに残されていた警察隊員達と共に再び青龍半島に帰ってこなくてはならなかったのであった。

 一度でも歩くのが大変な氷水の中のぬかるみの道十五里を再び歩くのは想像をするだけで全身が痺れてくるようであった。

 このような苦労を経、かなり経ってからのこと、経験を共にしてきた金元弼氏でさえ、水面下の道十五里を往復したことが、余りにも困難な事のように回想されて、報告、証詞の際、先生にお尋ねしたことがあった。 「あの時どうやってあの寒さの中、十五里の滑る水面下の道を、重い男を背負って一気に往復することがお出来になったのか分かりませんね。」

 これに対し先生はお叱りにでもなるかのように顔色を変えながら、

 「ああ、このことが出来なければ天の摂理がみな崩壊するのだとすれば、出来ないことがあろうか。これよりもっと大変なことがあっても、どんなことでも出来ないことがあろうか。」と厳粛に答えられたのであった。

 今一度、先生の「み旨」しか知らない「み旨」だけのために生きておられる実生活の一面を伺い知ることが出来た。

 一方、龍媒島から陸地に帰ろうと決められた頃、先生は「今日は誰かが我々を歓待してくれるだろう。」と語られた。

 ところが実際には、この日の夕方、青龍半島に戻られるや否や、却って思いもよらない侮辱を受けることになった。

 それは郷土防衛隊による検問であった。先生はまだ興南監獄から出て、いくらも経っていなかったので髪が短かったのであった。

 それで人民軍敗残兵ではないかと尋ねられたので、そうではないことを理解出来るよう詳しく説明した。

 それでも相手は信じようとしなかったが、そうするうちに遂に無礼にも手出しまでしたのであった。

 しかしそれでも最後まで耐えて、実は基督教の教役者であると言うと、聖書の聖句など基督教の知識があるかどうか尋ねてくるのであった。

 そこで答えてみせたが、まだ半信半疑で、今度は所持品を検査しようとした。ところが、丁度先生の所持品から聖書が出てきたのであった。それで聖書を見てやっと検問を終えて行きなさいと言いながらも、どうしたことか南へ行かないで、そのまま戻れと指示するのであった。

 そこで怒りと安堵が交差する中で、行けと言う方向に闇の中をいくらか歩いて行った。

 文字通り寒さと空腹で疲れ果て、腹立たしさ、痛さ等、人間のあらゆる苦しみが一時に訪れたような状態の中で、前途はその時の暗さほどに暗澹になるのであった。

 その時であった。何という救いであろうか、歩む前方の窓を通して光が漏れた。一行はその道に向かって歩を進めた。

 すると三十前後の教養を身に付けた様子の青年夫婦がいて、迎え入れてくれたのっであった。若い主人は、そこで小学校の教職をしていた人で、教会では讃美歌隊の指揮者もしてきたということであった。また結婚して間もないとも言っていた。

 それなのに、避難してくる途中はどれほど辛かったでしょうと同情し、心から夕飯をふるまったのであった。 夜になると自分達は寒い上の部屋に移って、下の部屋に夫婦の寝具を出して敷きながら、ゆっくり休んで下さいと勧めるのであった。それで一晩ゆっくり休んだが、二日目の朝も同じように手厚く接待してくれたことは言うまでもない。

 龍媒島から出て来た夕方、「今日は誰かが我々を歓待してくれるだろう。」と言われた先生のみ言は、このようにして成就された。しかし、共に歩んで、その前後の事情に通じている弟子達でさえ、先生が検問で大切なお体に手出しされるという屈辱を受けられたことによって一晩の恩人に出会うことになったのだと悟ったのは、それからしばらくしてからのことであった。

 その後の避難の路程も、言うまでもなく、それまでと同じく困難なものであった。ともかく避難はまた続けられた。平壌を出発して二十余日経った一九五〇年末、哀歓の波が韓半島を吹き荒れた。六・二五の年も暮れていこうとするある日のことだった。それが、どの辺であるのか知る由もなかったが、夜が更けると全ての避難民たちは、疲れた足を止めて寝る準備をしていた。

 先生と共にいた者たちも、そのまま座り込んでしまいたかったが、どういう訳か先生は、このまま続けて行こうと激励された。そこで、そこからまた十二キロほど歩いて夜半過ぎにやっと歩みを止めた。調べてみると、一行は遂に自由民の心の故郷であるソウルを目前に眺める臨津江の岸に達していた。そこで初めて先生一行は、家屋に入って二、三時間休まれて、起き上がられた。夜が明けるとまた先生は突然、川を渡ろうと促された。

 そこで一行は急いで臨津江を渡り安全な南韓の自由地帯に入って、初めていくらか安堵の息を漏らすことが出来た。

 ところが何と、それから幾日か過ぎたある朝方、作戦上の必要があってだろうか、国連軍が避難民の渡江を中止させた。そのため、その辺に残っていた難民たちは、それ以上渡って来ることが出来なくなった。彼らが一旦は挫折し、また予想だにしなかった困難を受けるのが見られた。

 このような困難の中で文鮮明先生一行は、十二月二十七日、学業や信仰の数多くの苦楽の跡を記した第二の故郷ソウルを流れる漢江の岸の黒石洞の町ヘ、昔の追憶の感慨を抱きながら足を踏み入れられた。

 その時既に先生の白い絹のパジ、チョゴリは真っ黒く脂垢が付いていた。先生の風貌はまさに乞食に変装して南原の地へ現れ、待ち焦がれていた春香一家を失望させた李夢龍の姿を連想させるほどであった。
そこにいることを期待して探していた人の中の一人である、先生の古い親友の郭氏は、既に釜山に発っており、そちらの住所だけを残していた。

 先生は結局、解放以前に学生時代と日本留学後帰国して後、しばらく下宿しておられた、李寄鳳おばあさん宅に寄宿されることになった。

 ところが年末十二月三十一日の朝のことであった。先生が検問を受けることになり、洞会事務所を経て、黒石洞派出所まで有無を言わさず連行されることになった。

 次の日、防衛軍招集を受けた金元弼氏が、別れの挨拶のため派出所に文鮮明先生を探しに行った。別れは逼迫しており、痛む心情の中から元弼氏は、「一人で強く自らを守っていくために指針になるみ言を一つ下さい」と先生に頼んだ。

 するとその時、その場で下さったみ言がすなわち、「常に心に導かれながら生きよ。」と言うみ言であった。全ての行動挙手において心を師と仰ぎながら生きよ、という単純に見えながらも次元の高い教えであった。

 ところがその直後、検問の結果先生は解禁され、元弼氏と同じ防衛軍招集を受けることになった。しばらくして派出所付近に集まっていた防衛軍候補者たちは、身体検査を受けに古宮である秘苑に引率されて行った。 そこで身体検査の結果、二人共不合格の判決を受けた。そして不合格証を新しく受け取り、これを持って前述の黒石洞警察官派出所へ再び行って提示し、避難民証を新しくくれるようにと言った。

 このようにして、避難民証を得て始めて、どこへ行こうと身分の保証を受けることが出来る「身分証」が出来た訳である。その日の朝のことは、身分証を手に入れるためにもたらされた好機であると言っても過言ではなかった。それほど町は混乱と殺伐とした雰囲気に満ちていたのである。

 かくして一月三日、一行は希望を託すことの出来る目的地、釜山に向けて発った。

 これが中共軍の南侵によって押されていった、いわば二度目の避難であり、ソウルに至る「一・四後退」であったのである。

 相変わらず、朴正華氏を自転車に乗せて、押したり引いたりしながら行く道であったけれど、自由を尋ねていく希望の道であることには間違いなかった。そして、約一週間かかって一行は、聞慶(鳥嶺)を越えた。避難物資を背負って越える鳥嶺は退屈で息苦しい峠であった。全ての避難民は、我が身を引きずって行くのにも四苦八苦していた。ところが今までも何回となく繰り返してきたように、先生はあの巨体の朴氏を背負って越えてきたのであった。

 皆、嶺の尾根に上がって、誰が先ということもなく後ということもなく苦しい息の下から「アリラン」を合唱した。韓民族共通のメロディーであるアリランは、こんなときには自然に流れてくるもののようだ。しばらく行くと店村を過ぎ、洛東江が見えた。

 ここで先生は米を一升買い餅を作って、二人の弟子と共に一気に召し上がられた。長い間の飢えを一時なりとも癒された心暖まる一瞬であった。

 またある地方へ行っては、「ここは柿が有名な地方だそうだ。」とおしゃって、柿を買って下さったり、また別の地方ではその地方の特産物をおっしゃりながら、買って別けて下さるのであった。

 黄海道を経て、龍媒島までのぬかるみの十五里の道を、人を背負い自転車を引いて往復した苦労に比べれば、それはもう福地に着いたに違いない文字通り団欒そのものであった。朴氏は義城と軍威を前方対角点とした三角形の頂点のような「サンゲ」で松葉杖の最後の片方まで捨ててしまった。

 ついに、洛東江を渡って慶北氷川まで達した。

 先生は市場に出て小豆粥と餅を買ってこられて、お話されるのであった。丁度その日は、平壌で、ある食口がみ旨のために誓いをたてた日であった。彼は先生が監獄に入られた後、離教してしまっていたが、六・二五の後、先生は監獄を出てから平壌に行ったときに手紙を送って安否を尋ねた。ところが、その手紙ですらも受け取らなかったというのである。

 その時の手紙がこれであると、それを出されて礼拝した後、先に市場で買っておいた食物を分けて下さった。 その後、その恨みに満ちた手紙を破ってしまわれた。その間手紙を隠し持っていたというのは、約束した因縁のある者がたとえ裏切って離れていったとしても、時間的にその因縁が切れてしまう時までは、切り捨てることができないためであるとおっしゃった。

 言い換えれば、時が満ちる以前に切ってしまっては、残っている善の部分までも切ってしまうことになる。故に、あくまでも天の部分に害を加えてはならないということであった。

 こうして背負って苦労し、共に苦労を分かち合って千五百里の道を下ってきた一行、その中の一人の主人公である朴正華氏の足は良くなりギブスを外すほどまでになっていた。

 しかし彼は慶州までは文鮮明先生によって自転車で運ばれてきた。

 一行が慶州に達すると、朴氏は荷を軽くして差し上げる意味で、当分の間別れ、後日安定してから一行に連絡して再び会おうと提案し離れた。師一人、弟子一人という先生と金元弼氏と二人が寂しい足取りで見知らぬ南の地へと踏み出すことになった。

 二人はそこからいくらも離れていない蔚山までをまた徒歩で行かれた。蔚山では初めて数多くの避難民の隊列に混じって、汽車のお陰を被ることになったが、汽車といっても貨車で、それも乗られたのは火の粉が飛び散り、真っ黒な火筒の頭の部分の猫の額ほどの面積の所だった。

 こうして、目的地である釜山の草梁駅に降りたのが、一九五一年一月二十七日であった。

 狭い海風が、林立した国内外の船舶で壮観を呈す、埠頭の連戦を吹き抜けて行った。それは自由の息吹きであった。

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