「統一教会史 上巻」

 前編 史前史

 12、避難の首都釜山での再出発

 外見は余りにもみすぼらしかったが、とにかく神の摂理の中心は、避難の首都釜山に一旦帆を降ろしたかった。

 釜山は南海岸にあるから暖かいとは言っても、一月下旬の釜山の天候は充分に冬を感じさせるものであった。 釜山は文字通り人で満船であった。その当時の実情を、直接文鮮明先生のみ言を通して調べてみよう。

 「釜山に着くというと、既に人でもう超満員であった。部屋はどこに行っても二、三人いたぐらいである。それはもう韓国の人という人が、皆釜山に避難してきたようだ。さながら、湯を沸かす釜みたいであり、足を置く所もないほどである。街に出ればいつも超満員であり、人々はいつでも真っ直ぐに立っていても、押し合いへしあいしているようだった。」

 先生一行の最初の夜がきた。

 いくらその身が貴い天の息子であるとしても、誰一人分かってくれる人のいないところでは、孤独な一旅人に過ぎない。それが、文鮮明先生の当時の事情であった。

 先生は、戸外で容赦なく吹きつけてくる冷たい風と対話しながら、一夜を過ごすことにした。

 草梁駅構内の寂しい待合室を宿代りにして夜を過ごされ、ご飯はありふれたバターの缶に炊いて召し上がられた。

 夜が明け二十八日、釜山における最初の活動が始まった。文鮮明先生と金元弼氏の二人は、釜山駅(通称 本駅)前へ歩いて行かれた。

 駅の向い側に四十階段という階段があった。それは四十段ある階段の通称に過ぎないが、釜山に行って僅か数ケ月でも住んでみたことのある人であれば、この名前を知らない人がないほど、しばしば人々の口にのぼるところの名称なのである。

 その四十階段の下に大邸館という大衆食堂があり、解放前の黒石洞時代に先生と友達になった郭氏の家族がその二階に住んでいた。それを先生が知っておられたため、始めに自然にそこに足が向いたのであった。

 なるほど、その二階には郭氏の母親が住んでいた。例の友達の郭氏は少し離れたところに別に住居を構えていた。

 その郭氏のところを頼って三日間を過ごされた。一方金元弼氏は、ちょうどその近くにあった食堂に従業員として就職し、住み込んで働くことになり、しばらく別れることになってしまった。

 それは一月の晦日のことであった。この日は午後三時頃、冬にも拘らず雨が激しく降り出し、非常に寒く陰惨な日となった。

 やはり四十階段の近くにおいてのことであった。

 その憂鬱な日に、非常に感激的で以外なことが起こった。その時より六、七年前の第二次世界大戦中に、共に東京に留学していて、生死を懸けて抗日地下運動をした友人の厳徳紋氏に出会ったのである。

 三十代前半の二人の青年は、互いにそれが夢であるかのように驚愕を押さえ切れず抱き合った。その時先生は三十二歳、厳氏は三十三歳であった。

 厳氏からすれば、文鮮明先生は氏の結婚に因縁が深い方であり、また日本による統治時代の末期、韓国の解放直前に先生が京畿道警察に拘束され瀕死の境の拷問を受けた時、死ぬことを覚悟して同志たちの名前を言わなかったために、幸いにもそれ以上は誰も逮捕されなかったが、もし拷問に耐え切れず活動していた同志たちの名前を言ったとすれば、厳徳紋氏も決して無事ではなかったであろう。

 そのような前後の事柄を統合して考えると、氏は先生から多くの恩顧を受けて生きてきた。にもかかわらず、解放とともに南北に別れ別れになってしまい、生死の便りすらも聞かないままに長い年月が経ってしまっていたのである。そんな二人であったので、この避難の首都での意外な出会いによる喜びと感激は筆舌に尽し難きものであったに違いないであろう。

 先生はその時、国防色に染めたズボンと白いチョゴリの韓国服を着てゴム靴を履いておられた。折しも雨の中であり、ズボンは泥水がはねて汚れ、顔は非常にやつれて、俗に言う「ひどくて話にならん」状態であったと、後日、厳氏は当時の先生の姿を述懐している。

 二人は性急に、二言三言それぞれの近況を尋ねあった。

 厳氏は、一部屋きりの彼の間借り先へ先生を引っ張って行った。まだ新婚同然の夫婦生活をしている一間に、どうして一緒に行けるかと遠慮する先生であったが、この避難のさなかにそれが何の関係があるかと、強いて願う友情に負けて、とうとうついて行かれたのである。

 事実この時は、戦時であり非常時であった。なんとか生命だけでも助かりたいと願う時であったから、このようにして懇切に友情を表すことは人道上、当然なことでもあった。

 厳氏の借間は、慶南道丁前の富民洞にあった。その日から狭い寝室生活が始まった。若い夫婦に、六歳の娘と三歳の息子、合わせて四人の家族が細々と生活していた。

 夫人の高喜緕≠ヘ当時、若冠二十四歳のお嫁さんであったが、幸いにもこのやっかいな新客の受入れを少しも面倒がらずに、夫のまごころに全面的に応じて従っていった。

 高氏は先生の韓国服を洗い、継ぎを当てて差し上げた。その時先生は、縫い物をする高氏を見て「このことが意味深いものとして記憶されるようになる日がくるでしょう。」と語られた。高氏が、このことばの意味を理解出来るはずもなかった。ただ、人情から見れば当然ありうる挨拶の言葉として受け入れた。

 文鮮明先生は、友人の厳氏に会うと直ちに「み言」を語り始められた。神について、イエス様について、神の歴史的な救援摂理について、また宗教と信仰の真髄について、論理的に言葉を展開された。厳氏が聞いてみると、しばらくぶりに会ったこの昔の学友の口から出てくる言葉ひとつひとつが正しかった。

 「信じて死んで、天国へ行こう」式の蓋然的、観念的な信仰に比べて「神の創造理想を実現し、その恨みを晴らして差し上げるために、先ず人間の責任分担として険しい復帰の路程を経て、地上天国を建設しなければならない。これが本来の順序である。」とますます熱を帯びる先生の論調には強力な説得力があった。そして一週間も経たない内に、厳氏は屈伏したが、それに対する神の協助も大きかったのである。

 ある日の夜、厳氏は夢を見た。

 翌朝友達の文先生にその夢の話をした。「二千年前に来られたイエス様に妹がいらっしゃって、その妹が兄イエスに関することで母マリヤに恨みがある、というのです。そして神が『このイエスの妹の恨みを晴らしてやらなければならないが、そのためには・・・・』と言われたので、見ると大きな門がありました。それを鍵で開けなければならないのです。丁度そこにあった鍵で開けてみると、中にまた門がありました。それでもう一度新しい鍵でその門を開けてみると、中にまた小さな門があって、その門を開けなければならないのです。開けることが出来なければ恨みを晴らすことが出来ない、と神が教えて下さるのです。そして開けるには鍵が必要ですが、文先生がもっておられることも教えて下さいました。」

 厳氏は元来仏教系の人であったので、イエス様も聖書の内容も全く知らなかった。しかし、先生に夢の話をするときには、跪いて丁重な態度であった。

 前日の夜まで、「君」「僕」と呼び交わした間柄でありながら、朝には一変して跪いて「先生」と呼ぶのである。

 そして厳氏は、一体どういう意味があるのですか、と鍵について質問するのであった。そこで先生は、彼に摂理歴史について詳細に語られた。すると厳氏は直ちに「今お話を伺ってみれば、あなたは私の友達ではなく私の先生です。偉大な聖人であり、また哲人です」と言いながら言葉も敬語を使い始め、何事につけても常に先生を優先して、極めて礼を尽してもてなした。

 たまたまその家に訪ねてきて、この以外な場面を目にした厳氏の友達は「気が狂ったか」と詰問した。しかし厳氏の態度の突然の変化にもかかわらず、先生はそれを少しも気まずい様子を見せず、今こそ会うべき人に会い、当然そうあるべきようになったと言わんばかりの様子で、遠慮せず平然と受け入れられるのであった。 厳氏の夫人高女史も、夫のこのような変化を少しも不思議がることなく、ひたすらに弟子の立場をとって、貴重な方として先生に侍った。

 そればかりか、当時しばしば訪ねて来ていた厳氏の姉の、厳順泰氏も厳氏夫婦と同じように先生を師として奉り、侍ったのであった。

 「厳順泰氏が度々焼き芋を買ってきて良く食べたな」と時たま先生が楽しそうに回想される昔話の内容こそ、このときのことを思い出して言われる言葉なのである。先生はこの有難い、新しい食口達に対して「後になったら一軒の家に住みましょう」と言われたりした。

 彼らはそれがどのような意味であるのかはまだ解らなかったけれども、悪いことではなさそうなので、とにかくうなずいた。

 「一つの〈み旨〉の中で一所に住もう」このみ言の意味はそれから二十年が過ぎて現実にそのような生活がされるようになって自然に解かれるようになった。しかし、当時の先生は現実生活においては人間的に負債感を負うような立場にあったので、それに報いられる最高の表現としてそのように言われたのだろう。

 厳徳紋氏は後日、そのように一夜にして氏自身が友達という関係から弟子の立場にへりくだるようになり、一家が先生を指導者として侍ようになった変化を「ただ一枚の頁をめくるよう」であったと言っている。

 厳氏一家が先生に侍るようになった変化がそれほど早く、単純で、天真爛漫だったことは、彼らが選別され、予定されていた家庭であったことを物語っている。それほど、その後までも、神は厳氏に多くの事を夢で示し、み旨を証ししてみせ、ある時には目を開いたまま先生が現れて平素語られる原理の全貌を、現実であるかのように再演してみせたりしたのであった。

 この頃、先生は聖日であれば外出されたりしたが、一方、金元弼氏が度々訪ねてきたことは言うまでもなく、玉世賢おばあさんも度々訪ねてきた。

 ところでこの家の主人達、中でも主人のおばあさんが、トイレを使うことに対して激しくおっせかいをやき、小言を言っては人々をやりきれない気持ちにさせた。居候として泊まっている先生に対して、神経質に罵詈雑言を浴びせた。それでも耐えられるところまでは、耐えようと心を改め、一日一日を苦労しつつ過ごされた。そのおばあさんも、自分の思いで行動しているようではなかった。そのようにして、二月の一ヵ月間をやっと耐え忍んだ。

 厳氏は、二月中旬頃から通っていた職場も辞めるようになり、生活状態が非常に苦しくなっていった。そこで、先生と一諸に紙を合わせて書類綴りの表紙を作って売るなどして苦労してみたが、最後までたいして生活の足しにはならなかった。

 三月に入った。

 家主の不満は極限に達し、嫌がらせを隠さずやるようになった。皆を騙して家を空けざるを得なくさせて、引っ越すように仕向けたのである。このようにして、三月六日の朝、突然に追い出されてしまった。

 だから急なこととて、どこに行くあてもなく、途方に暮れるばかりであった。海岸都市であるから、気候はまた涼しく、その上雨まで降っていた。

 どうすれば良いのか全く見通しがつかなかったが、窮余の一策として入り込んだ所が、松島方面に行く道のすそ「ジャーカルチ」(南富民洞)というところにある、厳氏の親戚の家であった。それほど近い親類ではなかったので、使用中の部屋がひとつ、半強制的に明け渡された。

 このようなことを喜ぶ人がどこにいるだろうか。突然おしかけてきた人達に対して、部屋を明け渡してくれたという事実からだけでも、その人達の心の豊かさを知ることができる。もし、事前に時間をおいて部屋を頼んでいたならば、十中八、九、部屋を得ることは不可能だっただろう。文字道り「窮すれば通ず」であった。 しかし、いくら避難しているところだからといっても、人の家の一間に五、六名が過ごすということは、人の成す業ではなかった。そこで、数日後に一つの方案が出された。厳氏の夫人高喜緕≠馬山の知人の家に送って、男子同志過ごすようにしようというものである。このときには金元弼氏も食堂で働くのを辞めて、ここに来てしばらくともに過ごしていたので、生活が一様ではなかった。

 幸い厳徳紋氏が就職したので、いくらかの収入を得ることができ、そこでの生活を続けることができた。

 ここにも、玉世賢おばあさんは度々訪ねてきて、何かと世話をした。やはり家の主人は快く思わなかったが、それも無理からぬことであった。たとえ、一時的に成り行き上仕方なくであるとしても、妻と子供たちを遠いところにやって男友達数名が集まって生活をしているのであるから、それを当たり前のこととして受け入れられないのは、ある面当然な事だと言える。

 ただ、この様子を見て非常に胸に痛みを憶えながらも、それなりにうなずいている方がおられるとすれば、それはただ一人、天におられる神様であっただろう。何故なら、人の事情よりも天の摂理を重んじ、実際にそれを先立たせて行動した人達が現れたためである。神はこのように偉大な信仰の現れを見たいと、どれほど熱望してこられたであろうか。

 この「ジャーカルチ」で約一ヶ月過ごされた。四月初旬に再び部屋を空け渡さなければならなくなったので、その時から約半月間、文鮮明先生は釜山の第三埠頭において港湾労働をされた。昼夜働かれることもあり、時には夜だけで、昼は市内の近くにある日当たりの良い色々な山に登られ、瞑想したりお祈りしたり将来の計画を立てながら休まれた。

 この時先生は草梁の最も低級な労働者宿所に泊まり、約十日間過ごされた。

 このように定着せず転々とする中で、時には避難民村の見知らぬ家の軒下に身を寄せたこともあり、またあちこちから御飯を乞うて召し上がることも経験された。

 花咲く朝、月昇る夕、神の心情を考え、自分の姿を見つめつつ、心の中で泣かれたことがどれほどあったであろうか。

 先生が埠頭での労働を終えられてから、金元弼氏も数日間この仕事をしたことがあった。先生がまだ埠頭労働者をしておられる頃から、金元弼氏は先生の斡旋で、ボンネッコル入口にある下宿に別に入っていた。

 この家は、度々日本語で「長屋」と表現されているが、名前が示す通り一階建の家がズラッと何軒も並んでいる。それは解放前の日帝時代に電気会社の社宅として使われていたものであるという。

 四月下旬頃、文鮮明先生は、一時釜山市西区、すなわち松島のはずれでもあり、まっすぐにみれば東大新洞の左側の九徳山の向こうにある槐井洞に移られた。そこに興南監獄時代、特に因縁の深かった弟子の金氏が住んでいて、彼の家で泊まるようになったのである。そこで約半月程過ごされたが、そこでの特記事項があるとすれば、いつの日からか「一から全存在へ」とその序文が始まる原理原本書き始められたことである。それがこの地上に「原理」が記録として現れた嚆矢であった。文鮮明先生はこの時、すなわち一九五一年五月から約一年間は原理執筆に熱中されるようになるのである。

 金元弼氏は少し前から米軍のテント張りを始め、ペイント塗りをし、やがてサインペインター(英語の看板の文字を書く人)として働くようになっていた。

 そんなある日、元弼氏に会われた先生が、元弼氏のところに部屋がないかと尋ねられた。丁度その時空いている部屋があったので二人で移られ、それから四ヶ月間を共に過ごされた。

 先に述べたように、文鮮明先生の主な日課は原理を書くことであった。金元弼氏がそばに座って鉛筆を削って差し上げるのが忙しいほど早く書いていかれたという。この鉛筆で書き始めた原理の抜き書きが、その後七年経って、「原理解説」として体系化して公表されるようになった。また十年後には「原理講論」として整理、出版、更に進んでは、世界各国語に翻訳され、四海を越えて伝播されている。この事実こそ、原理は人々に歴史の意味を切実に感じさせるという生々しい資料であり、証拠でなくて何であろうか。

 原理を書くに当たって先生は、ある時は泣きながら神を賛美し、また泣き、祈りつつ進められた。

 その間にも、信徒達はしばしば訪ねて来た。彼らの中には、平壌時代に食口であった人もおり、時には先生が北韓に行かれる以前、あるいは韓国が解放される前後に、ソウルで信仰を通して親密な関係を持つようになった人たちもいた。

 一例を上げると、中に李奇完氏というお婆さんがいた。この人は、解放以前のソウル黒石洞時代、及び解放後のイスラエル修道院時代を通して先生の身近にいて信仰的に過ごされた方であった。

 またこの婦人は、韓国の開花期から解放後までを、言論界の重鎮として活躍した名士(一流新聞の編集局長)の夫人であった。

 この夫人は、四十年間の信仰生活を通して、聖霊を通じて続けてきた篤実な信仰者であり、いつも無形の神が現れて応えてくださった。この夫人李奇完氏に会って信仰について話をされた時、先生は常識的な信仰観ではとうてい理解し難く、納得できない質問をその夫人になさった。

 人間的な判断では考えだに及ばない難しい問題であった。ところが、次に会われた先生はさらに納得できない難しい問題を示して、神に祈ってみなさいと言われた。

 それでその夫人は先生の言葉があまりにも恐ろしく思われてこれ以上は会うまいと決意して、家に帰ってしまった。

 ところが不思議な現象がおこった。先生の御言を否定ししようとすれば心が暗くなり、肯定する方向に心を向ければ、平穏が心に訪れてくるのである。

 それでこの夫人は心を入れ替えて先生を再び訪ねてきたが、そのままでは到底過ごすことができないと思い、先生が住んでおられた家の前にある小さい山に登って、決死的な祈祷をした。そうして神が下さった言葉が「文鮮明先生の言葉が正しい」と言うものであった。

 それでも心の中に実感と確信が湧いてこなかったので更に祈祷を続け行く道を示して下さいと神にせがんだところ、幻想の中に見せて下さった。始めは先生だけが座っておられたのに、無形の神が先生の体の中に段々入って行かれ、最後には無形の神は全くなくなって、先生だけが一人残されたというものである。

 これは何を意味しているのかと言えば、無形の神が先生の実体の中におられること、すなわち神と先生とは一体であり、更には先生御自身が神様の聖殿であることを見せて下さっているのであった。
その時からその夫人は食口となって今日に至っている。

 この下宿でも文鮮明先生は数人にも満たない食口達と時々礼拝をされた。礼拝をする場所としては部屋はあまりにも狭かったし生活は相変わらず非常に困難であった。

 しかし、先生は困窮のさなかにあっても常に歌を失わなかった。また長い間友達であったけれども、急に自分は弟子であると思うようになった厳氏が歌が上手だったため、訪ねて来たときには何回も繰り返して歌を歌わせられた。

 その下宿から少し登ったところの低い山に共同墓地があり、その近くに小さな平地があった。先生は度々そこに上がり、歌を歌い瞑想にふけられた。

 ところで先生は、この年の初夏に入る時から、徐々に「我が家」と言える住居を構える準備を進めておられた。

 原理を書く合間の夕方などには、忙しそうに近くの山地を回って建築の資材となるような物を、見つけ次第かき集められた。時には墓地の付近や、城隍堂に置いてある石を持って来たり、土を掘り返して移したりされた。

 家といっても殆ど建築費をかけないで、捨てられた物をかき集めて自分で作るのであるから、原始時代に近い物であった。

 時は丁度、梅雨時であり、非常に苦労された。壁といっても石と土だけを積んでいくのであるから、梅雨に耐え切れず二度も崩れてしまった。そうしながらも三度目になってやっと土の塀を積み上げることが出来、屋根はボール紙を綴り合わせておいた。

 その家の見た目は、このようにみすぼらしいものであったが、建てる過程を見れば、我々はそこから六千年の復帰摂理歴史の一断面のようなものを悟ることが出来るのであった。救援摂理を完成するためにの全過程を象徴的に見たように感じる。

 そのように見すぼらしく、様式外れの家であったが、先生がこれにどれほど心労を注がれたか言葉では表現し得ないほどである。そこがいわゆる「ボンネッコル」である。今日見ると、その一帯には家が建ち並んでいて、昔の姿を見い出す術もないほど立派な村落となっているが、その時ボンネッコルは町はずれの山の中腹にあった。

 であるから隣には唯一、何ヶ月か先に建てた宋文奎氏のもっとひどい家が一軒あるだけであった。

 この家庭は釜山時代、蘇生期に欠くことのできない貴重な隣人であり、互いに助け合っていた。

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