| 「統一教会史 上巻」 前編 史前史 13、ボンネッコル土塀家時代 一九五一年八月、釜山市東区凡四洞一五一三番地に最初に建てられた家は「ボンネッコル土塀家」であった。 その家の外見を見てみよう。 家といっても部屋はたった一つで、それも二坪位のものである。 台所が別に有るわけではない。また部屋といっても最初から壁紙が貼られていたわけではなく、その上先生が腰を伸ばして立つこともできないほど屋根の低い家であった。 外回りは、見れば四季を通して風雨が直接当たる野外に釜が一つ置かれ、そこが台所である。その台所側に、土とレンガをもる時に開けて置いたらしい一メートル位の入口があった。 入口とはいっても、それは深い山奥に行かなければお目にかかれないほどの貧しいものであって、勿論、足を上げ腰を曲げなければ誰も出入りできないものであった。 入ってすぐ右の壁の中間には、本一冊位の窓が作られていて、そこから光を取り、また戸棚が作られ、先生のゴム靴を置くようになっていた。 壁とはいってもそれは、普通の背の大人は誰も腰を伸ばして立つことができなかったし、背の低い人でも真ん中あたりに立って始めて腰を伸ばして立つことが出来るという位低い屋根であったので、地上に空いた「ほら穴」そのものだった。 土の匂いがするというより、原始人の足跡を想像するにふさわしい素朴な家であった。 ボール箱で綴られた屋根は、雨が降らない時には隙間から青空を眺めることができたし、星の光や月光がさした。雨まじりの風が吹くと、しばしばしぶきが降り込んだ。 床は土の上にただ油紙を引いただけであった。雨が多量に降れば水がにじんできて、部屋の一隅に小さな泉ができたり、油紙を引いた床の下で川となって流れる音が聞こえた。丘の中腹に建てた家だったので、雨が降れば山側の煙突を通して入ってきた水が、床の下を通って台所の火を焚く所に流れ出るのであった。 この家を建てる仕事は文鮮明先生が主にされ、金元弼氏は補助役であった。その隣で育った宋文奎と下の弟の少年兄弟が使い走りを引き受けたことも、合わせて記憶に止めておかなければならない。 この一九五一年春から、米軍部隊内の仕事を始めた金元弼氏は、ペインターやサインペインターとして働く一方、副業として一種のアーティスト(芸術家)とも言うべき写真をもとにして絵を描く専門的な肖像画家となっていった。 文鮮明先生自身も、原理原本の執筆を終えられる前後、米軍部隊の木工部にいって、しばらく働かれたこともある。 ここでしばらく、文鮮明先生が自ら作詞された聖歌について言及しておくほうが良いだろう。 第一篇協会専用「聖歌」中に収録された「勝利者の新歌」は、平壌で共産側の警察に二回目に捕らえられる前の一九四七年、すなわち既成教会等外部からの迫害が激しかったとき作られた歌であり、聖歌「悩める心に」は丁度この頃、すなわち一九五一年に新しく建てられた小屋におられるとき作詞されたのであり、他の二編の聖歌「復帰の園の」と「聖苑の恵み」は共に一九五三年度に入って、この小屋を離れ、そこから近い水晶洞の教会に移られてから先生が作詞されたものである。 再びこの小屋時代の話に戻ろう。金元弼氏は朝早くから米軍部隊に勤めに出かけ、夜遅くなって帰ってきた。 しかし、職場に出てサインペインターとして働いて得る収入もあったが、それよりも家に帰ってきてからほとんど夜を徹するばかりにして描く肖像画によって得る副収入の方がはるかに多かった。食口の数の増減によってその時に必要なだけの金額を儲けた。 そんな中で文鮮明先生は時間が許す限り「原理原本」を執筆された。 ここで、たった二人のときから食口たちが度々往来するようになるまで、食口数が増え始めていた初期時代を、先生に侍って歩んでこられた金元弼氏の生々しい回顧録を記して参考にしたい。 <金元弼氏の回顧談> 「私が職場に出ている間に先生は、私が帰ってきてから描くための準備を全て整えて下さっていた。熟練してくると、一枚描くのに三十分もかからなくなった。私が描く時、先生はそばで必ず見ておられた。 帰ってすぐ始め、午前一時、二時までかかるのが常であったが、決してそばから離れなかった。 食口たちが疲れて休むと、「若い幼い食口が苦労しているのに休んでなるものか」となだめ、本当に疲れた時には壁によりかかって休めとおっしゃた。そういう時には、午前四時には終えて五時には出勤しなければならなかった。軍人たちが早い時には七時、あるいは六時にでも移動することがあったからである。 先生は始めは背景を描くのを手伝って下さっていたが、ある期間過ぎると服の色塗りを手助けして下さった。もうしばらくすると髪の毛の色塗りをも手助けして下さった 描いている人は、その事に夢中になって時間が過ぎるのがわからないけれども、手助けする方は倍以上疲れる。にもかかわらず、描くのが終わると、私が眠っている時は起こして出勤させて下さった。 部隊から帰る時間なのに私が帰って来ない時には、先生は心が落ち着かず、家からずっと離れたところまで出てきて待っておられた。 生活の苦しい食口が来れば着物も買って上げた。そういう時には必ず「もらったお金で食口にあれこれ買ってやって、皆使ってしまった」などと、済まなさそうな表情をしておられた。私としてはどのように使われたとしても別に関心はないけれども、必ずそのように思いやりを示して下さった。 私が眠っている時、夢うつつに泣いている声に驚いて起きてみると、先生が伏せてむせび泣いておられた。ある時には、讃美歌を続けて歌いながら、悲しくなって泣かれる光景を目にすることもあった。 平壌で牧会しておられた時には、お祈りとみ言と迫害以外には何もなかったように、釜山で牧会をされた時も、お祈りとみ言と迫害を除くことができなかった。 文鮮明先生は一九五一年の一年間は、金元弼氏の仕事の手助けを、すべてされながら、内的な世界の準備にいそしんでおられた。 事実、内的には金元弼氏を子女の代表として、御自身は、父母として、その誠意と苦労と愛情の全てを傾注されていたのである。 先生は元弼氏を夜明けに起こし、仕事場に送り出し、夕方には市場で買い物をして自らの手で炊事を終えてから、遅く帰宅する元弼氏のためにと遠い町の入口まで出かけて行って待っていて、迎え入れて下さるのである。また先生は昼間にあらかじめ材料を買って絵を描く枠を作っておかれ、時機を見て、差し出されるだけでなく、一枚の肖像画が完成するまで出来る限りの協力を惜しまなかった。 このような忙しい日々を過ごされながらも、先生は夜は釜山の城を眺めながら、瞑想にふけり、夜明けに度々山に上り、熱烈な祈りを捧げられた。 ある夜の事、金元弼氏が疲れて寝ていると、突然ゆり起こされた。 元弼氏が目を覚ますと先生はすぐに「今から言うことを書き留めておきなさい。」と言いつけられた。こうして、その時に書き留められた原理(原本)の題が「もつれた糸の束は韓国よりほどかれる」であった。 一九五一年の冬に、よく訪ねてきては何日か泊まっていったのは、玉世賢おばあさんと厳徳紋氏であった。また隣に住む宋文奎氏兄弟は、学校から帰ってくればほとんど昼夜なく来て一緒に過ごした。 ここで宋文奎氏の証言をひと言取り上げ、当時の状況の一面を探ってみよう。 <宋文奎氏の証詞> 「私達の家のすぐ近くに共同墓地があって、その下の方の井戸から出る水がとてもおいしかったのです。一番最初にその井戸を掘ったのが私で、二軒が共同で水を飲んでいました。でもその井戸では、二軒が使うには少し不足だったので、先生が自ら腕をまくりあげて掘り始められました。そしてとても立派で深い井戸が出来ました。その時から先生は人の為になることは誰よりも先頭に立ってなさる方だと知りました。ですから私は先生がいらっしゃる所へはいつでもどこでもついて歩くようになりました。」 この証詞の中に出てくる井戸こそ、昔の食口たちの記憶に残っている、先生と因縁の深いボンネッコルの井戸であった。 翌年の一九五二年二月から、玉世賢おばあさんがずっと住むようになり、炊事を担当された。 文鮮明先生が釜山に移られた後、最初に入教された方は姜賢実女伝道師であった。姜賢実氏は、当時某神学校二年生の学生であり、ある教会の伝道師でした。姜賢実氏はその時、神学校の規律によって義務として、一日に聖書を六十頁以上読み、三時間以上祈祷し、三軒以上訪問伝道をしなければならなかった。 そんな時に、親しかった一人の女学生が訪ねて来て「あのボンネッコルの谷へ伝道しようとして行ったら、ある青年が不思議な話をしていました。」と言って帰って行った。 ボンネッコルにいるという不思議な青年について、「神のみ言であれば行くように導いて下さい。そうでなければ道を閉ざして下さい。」と約一週間も祈った。 そうして後、その日も土曜日であったが、雨が降ったため訪問伝道にも出て行かず、礼拝堂で祈祷していた。すると急にボンネッコルの青年に会ってみなければならないという思いが湧きおこり、訪ねていくことにした。 こうして、文鮮明先生に会うようになり、その日から三、四回に渡ってみ言を聞き、多くの祈りを捧げる中において感化を受け、自ら解決を得て入教を決定した。その初めて訪ねていって先生にお会いできた土曜日が一九五二年五月十日であった。 その五月十日は、文鮮明先生が約一年前から書いて来られた原理原本の執筆を終えられた日でもあった。丁度その日の午前中に原理を書き終えられ、午後に姜賢実伝道師に会われたのである。 ここで、姜伝道師の証しを通して姜伝道師が初めて、先生を訪問した時受けた第一印象を述べてみよう。 <姜賢実氏の証詞> 「部屋の中に入って祈り、体を起こして部屋の中を見回して私は驚いた。その部屋があまりにもみすぼらしかったからである。土を練っただけのレンガを積み上げて作った粗末な家であった。床は、畳二畳にもならない部屋で、壁には壁紙一枚貼られておらず、むき出しのままであった。天井は雨が漏った痕跡があちこちに染みており、床に男子用の防水雨具などをあちらこちらに敷いてあった。あたかも田舎の馬小屋の如くであったのである。 私はその家を見て、『人が生まれ落ちてより一生このような家に住んで死んだとするならば、どれほどの恨みが残るだろうか。』と思った。そう思っている時、重労働をしている労働者タイプの一人の青年が仕事から帰ってきた。服装はあまりにもみすぼらしかった。色あせて緑色の韓国のバジに、上に褐色の古いジャンバーを着ておられた。靴下は米軍がはき古した緑色の分厚いものをはいておられ、パジを絞める紐も結ばないまま、パジをまくり上げての姿であった。」 姜伝道師は先生からみ言を受けるにあたり、基督教の一般常識からみて理解し難いみ言を聞き、あるいは質問され、それを克服するのに苦労した。 何度繰り返して疑ったか知れない。一方天においては、釜山時代以来初めて実を結ぶことになるこの女伝道師一人を導くためにどれほどの働きをされたかもしれない。 ふと心に疑いが起きて否認する心を持つようになると、歩いている道の真ん中においてさえ、意識が朦朧となったり、一歩も先へ足を踏み出す事が出来なくなった。そんな事が幾度もあった。 あたかもある干渉の手が常にそばにあって、歩みながらも待っているかのようであった。そして、その原因を悟り、悔い改めて始めてスッキリとその懲戒の働きが止んだ。 ある時はいつもは流暢な祈祷の口が塞がれてどうすることもできず苦しんだ。 ある日には先生は姜伝道師を迎え対座するや否や、その疑いの度合いをすっかり感知された。 有無を言わさず「聖書を開けなさい」とおっしゃられた。それで姜伝道師がとにかく聖書を開けると今度は「そこの三十一節を読んでみなさい」とおっしゃる。それでその聖句を読むとそのみ言がすなわち、「信仰の少なき者よ、どうして疑うのか・・・・・・」式の内容であった。 神が必要な所を開けるしかないように働かれたものでなければ、先生御自身がその開けられた部分の文面を、見なくてもすっかり知っておられるという結論になる。 こうしたことが一度や二度でなく、座っているときにもこれと類似した証詞が数え切れないほど多く繰り返し見せられた。 そうして、厳しく語られるには、 「これを私がしていることと思うか。神が直接あなたを愛して導いていることを肝に銘じなさい。」と語り聞かせて下さる先生であった。 こうなると、姜賢実伝道師としては他に考えようがなく、摂理のみ手に応じて入教してしまった。 この頃、男子を代表して最初に入教したのは李ヨハネ牧師であった。李ヨハネ牧師は、一般の牧者たちとは本質的に異なり、神の啓示によって主の再臨に備え、神霊に導かれた信者たちを個別に指導しながら過ごしていた。 六・二五動乱による避難時代には、済州道に行って静かに過ごしつつ、他の人よりも信仰の深い信者たちを個別に指導していたのである。 そうしているうちに一九五二年十二月一日、先に釜山に渡ってきて、玉世賢おばあさんを通して先生にお会いし教えを受けてからは、直ちに入教し、その翌年の春、水晶洞に移った後には、済州道に残っていた信徒たちを皆呼び出して、共にこの道を行くように導いた。 この凡一洞の小屋にいた時代に入教した食口は、姜賢実氏が伝道した金在柵勤士と、先生が学生時代に黒石洞におられた頃から親しい間柄であった李奇完おばあさんと、その娘の白嬉洙氏である。また比較的親密に交わっていたのは、隣に住んでいる宋基柱氏とその子供たち(宋孝淑、宋文奎、宋芳松)と、先生のまたいとこであり、昔の学友でもある、文昇龍氏である。彼は既成教会の執事であったが、度々訪れた。氏の実際の入教はそれから四年後であった。 北韓で入教した池承道おばあさんと鄭達玉氏も出入りしていた。 金元弼氏が勤めていた米軍部隊は、前線から後方に帰っていく軍人たちが通過していく所であり、新しく前線やその他の地域に配置される兵士たちもこの部隊を通過して行った。 つまり、米軍の兵力補充部隊であったのである。従って時間厳守で間に合うよう絵を描き上げるのは非常に忙しく神経を使うことであった。 ところがその収入が、家で共に生活する食口の数が少ないときには少なくて、食口が多くなって生活費が多く必要になる時には、それに合わせて収入が多くなった。肖像画を一枚描くのは、その時のお金で四ドルであったが、普通一日に十枚前後、多く描く時には二十枚から三十枚も描いたのであった。 一方、感謝の心で仕事を始める時には、一日の仕事が順調にいき、反対に何の感謝する心もなく、なすがままにすれば仕事はうまくいかず、実績を上げることが出来なかった。 そこには確かに神が働いておられた、と元弼氏自身は語っている。 李ヨハネ牧師はその当時を次のように回想する。 「私が訪ねて行った最初の日から、先生は何のためらいもなく、市場に行ってきなさい、と使いをさせて下さいました。(李牧師は男性であるばかりでなく先生よりも年長の牧師であった。」それほど始めから食口としての扱いをして下さったのです。私は少し面食らいましたが、言われるままにしました。 その時はまだ礼拝の形式も整っていないように見えました。言ってみれば、普段みんなが集まってくる生活が礼拝の連続であったからです。 金先生(元弼)は毎夜のようにひとかかえもある間食を買って帰ってきました。そして先生も無ければ使いませんでしたけれども、有る時には惜しみなくお金を使っておられました。ある時には、ありったけのお金をはたいて膨大な量の牛肉を買って分けて、お腹一杯食べさせられました。 先生御自身は着のみ着のままのみすぼらしいなりで過ごしていながら、誰か服が無いように見える人が来れば服を買ってあげました。」 先生と共に生活していた少数の食口たちは、一九五三年に入って継続的な混沌と試練の日々を克服しなければならなかった。 毎日の生活に無事や平安はなかった。平面的に見れば、幾度にわたった住居の移動の原因は、そのままでは到底穏和に過ごすことができず、衝突と崩壊を避けることができない結果がそのような形で現れたのであった。 それは不信仰が投げた石が当たり血まみれになった信仰の傷痕であり、摂理的歴史に対して現実的な無知が起こした叛乱の激動であり、本然の行路に対して堕落の逆流が腕を広げて塞いだことによる打撲の痣であった。 一九五三年一月、ボンネッコルを離れて最初の水晶洞の借家に移動したのもそのためであり、同じ年の二月に水晶洞の二度目の借家に移したのも、三月にその隣の家を買って(釜山市東区水晶洞四三七)引っ越した原因もそのためであった。更には、そこでその年を送ることが出来ず、十一月に再び移らなければならなかったのも、事実上そのような逆風を避けるために過ぎなかったからである。 姜賢実伝道師は一九五二年入教後、家(店村)に行って数ヶ月間いたが、翌年便りを受けて再び訪ねてきた。それが二月のことであり、二度目の水晶洞の借家の時であった。 その後、三月に新しく買った家に移り、十一月にその家も明け渡すことになるのだが、そこで共に過ごした数ヶ月間を、伝道師は主に炊事を担当した。多くの食口の事情に合わせ、夜中になれば水を十樽づつ運び、炊事を一人で担当していた時の姜賢実氏は、割り箸のようにやせていた。 新しく買った水晶洞の家に移った次の日の四月十四に、それまで済州道にいた李鳳雲氏の家族が全員、李ヨハネ牧師の連絡を受けて出てきて入教することにより、少なからず力となった。その六月には李鳳雲、李秀卿父子が、ほとんど素手で一部屋増築した。それは当時の事情を説明する良い例あるといえる。 金元弼氏はその当時も相変わらず米軍部隊へ行って、サインペインターの仕事をしていた。 姜賢実伝道師は先生の命令を受けて、夏季四十日伝道を施行した最初の人である。すなわち、一九五三年七月二十月から大邱で始められた四十日間伝道生活がそれである。 その伝道が四十日で終わらず更に長くかかったのは、現地の事情に合わせたためである。そればかりでない。八月中旬からは李ヨハネ牧師も大邱伝道に動員され、大邱都城に吹き出した伝道の新風は、いわゆる「南韓のエルサレム」の全信仰界を予想外に激しく揺さぶった。 大邱にある各教会に「釜山から女性の異端が上がってきて迷惑をかけようとしているから、初めから相手にしないように気をつけなさい」と指示するなど、非常に噂になり警戒されたのであった。しかし、このような警戒、宣伝のお陰で、却って訪ねてきて食口となった熱心な信者たちも少なくなかった。 当時入教した十余名の婦人信徒の大半が、その後二十年過ぎても統一教会の信仰を堅持しているという事実は、その当時の篤信者たちがどれほど真実な信仰の姿勢をもって神のみ旨に従ってきたかを説明するのに充分であると言える。 九月十七日、文鮮明先生はとうとう明日の活動のための社会的な足場を築き、体制を整えられるため上京された。 一方釜山で李秀卿氏は、金元弼氏が行っている米軍部隊に行ってサインペインターとして働く一方、白黒写真に色を塗る仕事をして副収入を増やした。この時の経験が、後日ソウルで協会創立時、一時教会の生計を整える一助となるのである。 この頃には、大邱におられた池承道おばあさんも釜山に来られ、何ヵ月かを共に過ごされた後、再び大邱に帰った。この水晶洞時代に参与し苦楽を共にした女性食口も少なくなかった。李得三、金聖実のほかに、この頃釜山、大邱で入教した方として金福順、呉金全、都基善、鄭徳基、方達順、柳宣伊、呉永春、李漢城(男)、金順哲の諸氏がいる。 釜山を発たれた後も文鮮明先生は、迫害の風の中であえいでいる大邱の食口を数回訪問し激励し鼓舞された。 水晶洞教会の初期に導かれた一人の主要人物がいる。それが劉孝元氏である。この方は意気盛んな青年時代、大学在学中にあらゆる重病を併発し、脚部不随という不具の体になってしまった。しかし、それでもなお一人で真理探求と聖書に半生涯を捧げてきた稀有な信仰者であった。 神の「み旨」に結ばれた初期に、氏は無理やりにやっと手に入れた「原理原本」を一気に通読し、再生の感激に泣いた。そして滞京中に、文鮮明先生に一生を捧げますと誓いの言葉を捧げたという火のような性格の聖徒であったのである。 この事に関する氏の証詞がここにある。 「まだ先生の尊顔を拝する前に、自ら書かれた原理原本を戴いて、新しい希望の感激にむせび泣いた記憶が生々しい。砂漠に湧き出ずる泉の水、そのまま流れてゆく谷間を見いだしたのである。 私はついにはペンを持って、このみ旨のため残りの命を捧げ忠誠を尽くしますとの文を捧げたのではなかったか。今や谷へと流れ始めた砂漠の泉は必然的に峡谷をなすようになるのである。」(聖和一九六八年七月号) またこの頃、すなわち入教前後の様子をよく表した氏の回顧談に次のようなものがある。 「私もこの難破船の甲板に帆を投げ捨てて倒れた人の中の一人であった。私は目的もなく燃え上がる渇きを恨みながらも、今やコップ一杯にさえ未練を持たない憐れな男となったのである。やがて吹き寄せるであろう風を思い、転覆した船底にしがみつき、海水とかいのない闘いをしている自分の憐れな姿が脳裏に浮かんだ時、この闘いを私の屍体に譲ろうと決意したのであった。 すると、私の体は既に屍体となっていた。渇きすら消え失せてしまう屍体に、一滴の水がどうして必要であり、主人を呼んでいる帆が彼と何の関係があろうか。今やこの屍体と小船との因縁も既に切れてしまい、天と地も海も既にそれは魂を失った肉の塊にすぎなかった。 闇から闇みへ帰っていくのが人生の道だと、平然と足を移しかえようとするその瞬間であった。この闇を貫いて照らす二つの星(二人の伝道者)が丁度私の前に留まっているではないか。私は足を止めてその星のささやきに耳を傾けた。そして、すぐに彼らが夜明けの便りを持ってこられたことを知った。 朝の太陽! イサクがヨセフに、それは他ならぬ父を指しているのだと悟ったその太陽! お父様! 丁度この魔の闇の中に王子として来られる朝の太陽が、あの山の向こうで曙光を照らしているという便りであった。 この便りが、偽りの無い夜明けの星の便りであることを知った時、私の魂はこの星に付いて太陽を迎える道に立った。私の肉身は今やコップを持ち上げて水を飲み干した。蘇生する私の目と手足は、落ちていた帆を再び捜しあげた。狂った風がどうして、今や魂を積んだ船の行く道を防ぐことができ、狂った風に怒った分別のない波が、どうして生命あるこの帆の水明けに勝つことができるであろうか。 この星たちの後を従い行った私は、ついにこの闇をかき分け、朝の太陽の光の息子となった。」(聖和・一九六九年六月号) このような一人の聖徒の終末的な信仰の切迫性と死生の経路は、充分に全人類のそれを代表したものであると言うことができる。 劉孝元氏がみ旨に触れ、釜山の伝道が一層活気を帯びるようになりながら、食口たちは、せっかく準備された水晶洞教会を出て行かなければならなくなった。そして、臨時礼拝所が準備された。李鳳雲長老が、近くの大地公園構内に仮設しておいた、小さな板張りの家を一件買って礼拝所として提供したのである。そこで約一ヵ月間礼拝をした。 その頃、劉孝元氏を立てるための画期的な集会が、影島にあった申成黙氏宅で準備された。文鮮明先生がソウルから下ってこられ、釜山にいた全ての食口たちも昼夜そこに集い、み言と聖霊の火のるつぼの中で時を過ごした。その集会を始めた日は、文鮮明先生が釜山に下って来られたと同じ十二月二十四日であり、約三週間に渡って続けられた。そして、劉孝元氏は一九五三年十二月二十四日に入教したのである。 この時、共に入教した劉孝敏氏の証言によれば、「何も知らずに外見だけ見れば、気が狂ったと言われても無理はありませんでした。とにかく先生は、その時凄かったですよ。毎日二十四時間、特別睡眠時間もとらず、時たまお手洗いに行って来られる位で、食事もされるかされないかで続けてみ言を語り、祈祷して過ごされました。昼と夜の区別も難しく、食口たちも霊通しない人がないほど、皆が恵みのるつぼの中にありました。そのような雰囲気の中では、いくら鋼鉄のような人でも感化されざるを得えないのです。(「聖和」一九七十年五月号、教会創立十六周年記念座談会において) 劉孝元氏自身も霊眼が開けて幻を見た。長時間にわたり映画が上映されるように見ることができたという。 その頃同じく入教された方々は、劉孝元氏を筆頭にして、その弟の劉孝永氏、劉孝敏氏、申成黙氏夫妻、金寛成長老などが主要な方々であり、金仁珠婦人もこの時から決定的に再出発をされた。 この集会が終わると文鮮明先生は、一月下旬頃釜山を発って大邱に行かれた。続いて朴奉植、金春学、宗道旭諸氏が入教した。 その後、釜山では再び水晶洞大地公園の中の板張りの家で礼拝をした。 五十四年初め大邱で、文鮮明先生の生誕祝賀礼拝をもったが、この日は陽暦二月九日で、大邱と釜山にいた主要な食口がほとんど集まった。釜山からは劉孝元、劉孝敏、李鳳雲、金寛成氏その他数人の方が来られ、大邱の李ヨハネ、姜賢実氏を中心に新しい食口を合わせ約二十名が集まったのである。それは久しぶりに持たれたなごやかな雰囲気であふれる天の宴会であった。 この頃ソウルでは、厳徳紋氏が導き手となって李昌煥氏と金相哲がみ旨に連なるようになり、新たな活気を帯びていた。この二人は長年にわたる宗教研究と信仰体験を土台に、ひたすら多くの宗教の統合を模索してこられたので、このみ旨の道を知り、「その道は近くにあった」と感嘆してやまなかった。 金相哲氏が入教する頃、大邱に下って食口たちに会い、霊的な体験をして改宗を決意した証詞の一部を記す。 「私はその時も、傲慢な態度をとっていたので、夜に玉世賢おばあさんを通して神が働かれました。『相哲!あなたが三十余年間、真理の道を探し求めて放浪したので、あなたをここに導いたのに、何故信じて従わないのか? あなたには外国宣教と、真理のために全世界と闘わなければならないダビデ王の使命がある。私があなたを今まで準備してきたのだから、信じて従順であれ』このように叱られるのです。 私は神の声を聞き、感謝と感激で傲慢を捨て、従順にその場で心を決めました。 夜明け頃先生が夢に現れて、笑いながら私の手を取って下さいました。すると過去の霊的体験では感じ得なかった超強力な電力が、私の手から全身を貫き、寝ていたのですがパッと起きてしまいました。 その時は先生と直接お目にかかったことはありませんでしたが、誰であられるかを私は知り、それで決意をしたのでした。 仏教界を通して多くの霊的経験と、霊通過程を研究してきた私に、大邱での経験が更に自信を持たせ、この道に従うように押し出したのです。そして直ちにソウルに上がりましたが、先生にお目にかかった時もさほど驚きませんでした。 上京後は李昌煥、劉孝元協会長、私の三人が三位基台を形成し、新しい食口を求めるためにソウルを中心にした伝道に全力注ぎました。英文伝道紙を配布したりして、釜山、大邱、ソウルを中心とした本格的な活動が始まったのでした。」(「聖和」一九七十年五月号) この年二月劉孝元、劉孝敏両氏はソウルに上がり、城東区新堂洞に部屋を借りて積極的に献身の道を歩んでいた。 三月二十五日には、大邱に集まっていた文鮮明先生を中心とした八名の食口たちが、重要な使命を帯びて、金泉を経て龍門山に上がった。 先生以外の全食口たちが羅長老の集会に参加したのだが、既にそれが知れ渡っており、公衆の席上で、今この場に心霊泥棒たちが来ている。よく注意しなければ心霊を皆奪われてしまうと、警戒を促すのであった。 それで龍門山で二晩を過ごし互いに別れるようになったが、別れる直前に部屋で祈祷会をした時、先生は「何故、私が行く所にこのような闘いが展開されるのでありましょうか。韓国の教界と社会が反旗を掲げ排斥をしております。しかし、お父様! 私と約束をしたでありませんか。如何なる困難と艱難が来たとしても、約束したみ旨を必ず成し遂げて差し上げます。」と泣きながら祈祷を捧げられた。 三月二十七日、文鮮明先生と李ヨハネ牧師は金泉駅から汽車で上京された。ところが、別れる時になって皆は、駅頭で互いが互いの手を取り大声で泣いた。先生から「我々は今このように嘲笑を受け追われているが、これから後み旨が成就された暁には多くの人々が、あなたたちのお陰で我々はこんな良い世の中に住めるようになりました、と頭を下げて入って来るのだから、その時までいくら困難があり難しくとも、闘って勝利しよう」と激励のみ言を聞いて悲壮な雰囲気に包まれていったのである。一方、姜賢実伝道師と、金在根おばあさんは、同じ日に別々の汽車に乗って、忠南一帯の伝道の旅に発ち大田公州、天安各地を巡回伝道して四月十七日に上京した。 龍門山に一諸に行っていた玉世賢、池承道おばあさんと、その他の二人のおばあさんたちは、悲壮な心境で大邱に帰って行った。 一方、釜山では四月十四日に大地公園の集会所から影島にある新仙洞一街四番地に引っ越して、金元弼、李鳳雲両氏が主導した。その時まで米軍部隊へ行っていた李秀卿氏はその日に職場を辞めて直ちに京道安城に行き約一ヵ月間留まった。 14、新しい歴史の胎動 一九五四年四月始め、梁允永女史が入教したが、その頃の入教者の代表的な一人であった。梁女史が劉孝元氏によって、本格的な原理講義を聞き始めたのは、四月三日であったが、幼い時から苦悶し続けてきた信仰上のあらゆる難問題が次第に解かれてゆき、神のみ旨を紹介する論理展開に深く満足を覚えて、早くもっと先を聞かせて下さいと催促するほどであった。 翌四月四日には、おかしな冠をかぶった修道者三人が入ってきて、座に向かって丁寧に敬礼をしては踊りを踊った。 そして、ここにこそ天国があったと言い続けた。その場にいた食口たちが感銘を受けたのは言うまでもない。原理講義を通して聞いていた事実が、数十年修道してきた人たちによって、現実に証しされるその光景は、あたかも夢の一場面のようであった。 梁女史はその時、現実のものとして出会ったみ旨の重要性が、ぼんやりではあるが分かったようであった。原理と神のみ旨と現実の意味を把握するため更に没頭してとうとう霊眼が開け、現実に爆発した。心霊役事である。この驚くべきみ旨の意味を何故、露骨に語ってくれないのかと叫ぶ姿はかなり熱狂的であり、周囲の人々をして目を丸くさせた。 この頃から梁女史は、何よりも高貴なみ旨がここにあることを知り、神の啓示を受けながら、昼夜なく伝道に力を尽くし、平素の因縁を辿って基督教界指導層の人たちを含む多くの著名人を導き、劉孝元氏は全面的に彼らに原理講義をしたのであった。 |