アラック大陸史
序章 ラスクロット戦役
白旗は、血に汚れ土にまみれて力なく振られた。
防塞の多くはすでに土塊に解し、肉片と金属片がその土台となっていた。
澱んだ天候は茶褐色の大地を暗く彩り、組織された人々が望郷の念を駆り立てさせるに十分であった。
旗を差し出した侵略者は「ミレリア王国軍」であり、それに打ち勝ち、国境線たる大河まで追い返した防衛軍は「クルナ王国軍」であった。
ミレリア王国軍の装備は、他国を圧倒する重装備であり、軍の統率者達はそれぞれに意匠を凝らした甲冑を身に纏っていた。
ところが敗色が濃くなるにつれ、ミレリア王国軍の将軍達は、高価な甲冑を惜しげもなく脱ぎ去り、ラスクロット大河に浮かぶ自国船へ駆け出すのだった。
クルナ王国に鉱山は少ない。逆にミレリア王国は300年前、国内に多くの鉱山が発見され各国より入植が進み、独立。現在では大陸屈指の実力を持つに至っている。
しかし、このラスクロットの戦いでは、装備品の差は決定的な戦力差とはなり得なかった。
崩れ落ちるミレリア王国軍が、意気揚々とラスクロット大河のクルナ側へ上陸したのは、半月前の事である。僅か15日間で、徹底的に基幹軍事防衛線を破壊されたのは、クルナ王国軍の士気の高さはもとより、ミレリア側に多くの問題点があった。
突如国境線のラスクロット大河を越えクルナ王国に侵攻し、蜘蛛の子を散らす様にクルナ守備隊を壊滅させていったミレリア軍は、補給経路を大河近辺に定めていた。
ミレリア本国より輸送される食糧はラスクロット大河を渡った所で、積みなおしを受け、前線へと運ばれた。しかし、予想以上の大勝に糧道を守る部隊が存在しなかった。更には船便から馬車への積み替えが船頭によって行われた為、船頭と兵士の間で軋轢が生じた。それにより、前線への兵糧の供給が遅延する事態が発生した。それが、前線での略奪につながり、解放者としてのミレリア軍が略奪者に変貌することとなる。
上陸より10日目、転機が訪れた。
王都セルディアより派遣されたクルナ王国軍8千人の軍勢が、遠征ミレリア王国軍本陣を急襲したのだ。怒涛の勢いで死者を量産するクルナ王国軍は、短期間で編成された部隊ながらカイン将軍の人望、及びミレリア軍の略奪ぶりに士気が高揚し、大した反撃も受けずに僅か2日でミレリア軍本陣を壊滅させた。
そして、ラスクロットの戦いの最終幕を迎える事となる。
「優勢なのは解っている、しかし何だ、あの部隊は。」
クルナ王国軍総司令官カイン・ミルフィッグ中将は、崩壊するミレリア王国軍の一角を指し、参謀に問いただした。
「抵抗に一貫性がありますな。惜しいかな全体の中では微弱な抵抗にしかすぎますまい。」
カインの参謀アレン・エスナルシン少将は、火照る体と、逸る気持ちを抑えながら、この大勝利の結末を探っていた。
カイン中将が示した部隊は、突出することなく、全体の防衛ラインを守っていた。
この部隊が現れたのは、カインが掃討作戦を始めた前後であった。
当初、カインはミレリア王国軍が瓦解し、敗走を始めた頃合でミレリア軍艦に対して火矢を射掛け全滅させる気でいた。
すでに手の者により、ミレリア軍の戦艦には油が撒かれており、火矢が舞い込めば乗員は残らず大河に葬る事ができる。
それが、突然現れた、200騎ほどの歩兵隊により、意外な抵抗を受けていた。
「ミレリア王国にも人材は残っていたという事か・・・」
「カイン将軍、一度兵を収めてはどうでしょう。好機とは言え、このまま消耗戦を続ける事は得策とはいえません。」
参謀の意見をカインは取り入れた。
クルナ軍は徐々にその攻勢を弱めていく・・・・。
正にその時であった。
ミレリア軍から白旗が揚がった。
「何!!やつらは、交戦するつもりだったのではないのか?」
ミレリア軍の主要部隊は、クルナ軍の退却と同調するように軍をラスクロット大河へ走らせ、残留部隊を残して軍艦へ搭乗してしまった。
そして、残留部隊が白旗を掲げたのだ。
「ははは・・・なるほどな。」
カインは状況の意味するところを汲み取った。
クルナ王国軍は勝利した、しかし、ミレリア王国軍の主要指揮官達はラスクロット大河を超え、本国へ帰還してしまったのだ。
クルナ王国軍は、残留を余儀なくされたミレリア王国軍が白旗を掲げている以上、これ以上の進軍はできない。
捕虜の収容を優先せねばならず、軍艦を走らせ帰還する敵軍を追うことが出来なくなってしまったのだ。
「おそらく、あの部隊はこの捕虜の中にはいまい。いずれ、わが国の大きな障害になりかねんな・・」
カインは得体の知れない敵の影をミレリア軍に感じながらも、その姿を確認することはできなかった。
ただ、カイン中将の予想外の事態も発生していた。
降伏したはずのミレリア王国軍の内100名足らずが、白旗を揚げる味方に抵抗したのだ。
そして、その抵抗の首謀者を捕らえたとき、クルナ軍は歓声を上げた。
それは、この戦いのミレリア側の首謀者アバス・シャルメ・ベリュートであった。
ミレリア10貴族中の一つベリュート家の御曹司であった。
カイン中将の勝利は、クルナ王国の宿敵であるベリュート家の御曹司の拘束によって、他の追随を許さない至高の名誉を頂く事になった。
「味方に裏切られたのか・・。」
カインは、戦後独白した。
河川は、かろうじて業火にあぶられる危機を脱し、敗残兵をのせた船舶は粛々と帰路を急いでいた。
明らかに定員を超える軍艦は、緩やかな波にも沈没の危機にさらされる。その為、乗組員達は軍艦のボートを全て河川に投下し、軍艦とボートをロープで結んでそこに移乗するなどして、危機を回避した。
幸い、波は穏やかで船舶が沈む事は無かったが、兵士達の血に塗れた装備や、クルナ軍が船舶に撒いた油が凄まじい悪臭を放ち、多くの乗組員が船酔いを起こした、そしてそれが更に悪臭を呼ぶ事になった。
最後尾の軍船に、クルナ軍に抵抗を試み負傷兵に白旗を揚げさせて撤退した指揮官がいた。
「エルリック将軍、良かったのですか。」
エドルミナン・コットハスは、先程まで戦場だった対岸をみる上官に尋ねた。
「これでよかったのだ、少なくとも我々の上層部はこの結果に満足しているよ。」
敗走するミレリア軍の中にあり、防衛戦を指揮したエルリック・セイツ少将は、敗北とは別の視点で状況を論じた。
「取り残されたベリュート家のご子息には申し訳ないが、死して戦役の墓標となっていただこう。」
ミレリア王国軍の崩壊は深刻であり、上級貴族全てを帰還させることが出来なかった。
ミレリア王国は王政を取りながらも、実務は王家の血縁を辿るとされる10の貴族により専横されている。ミレリア10貴族制と呼ばれるそれは、ミレリア王家の排出を各貴族間で調整することにより成立していた。
すなわち、ミレリアの王政は形骸化されており、絶対的な王は存在していなかった。軍事・内政の各事務官は10貴族の血縁者が任命され、その実務部門は10貴族の支配下にある中級貴族が任命されていた。
このたびのクルナ進軍は、10貴族の内、3貴族が出兵していた。
3貴族、強行にクルナ進軍を主張していたベリュート家、軍務において支配力の強いラフロート家、ラスクロット大河周辺を領土とするドスタム家は、それぞれの思惑を胸に、戦術に於いては協調路線を執っていた。
エルリック少将は、ラフロート家が組織するミレリア国軍の士官であり、重武装兵の隊長であった。
エドルミナンが下士官に命令を出すため、エルリックから離れると、エルリックの側に従う少年が声を発した。
「これで、我国では勢力図の塗り替えが行われますね。」
闊達な口調でエルリックに話しかけたのは、幼い少年であった。
「ハスクは賢いな。しかし、それらが全て私の追い風になるとは限らんさ。私には、多くの超えなければならない壁が存在するからな。」
ハスク・ナルメックは学習院でエルリックに知り合い、エルリックの透き通った人柄に惹かれて補佐を申し出ていた。
エルリックとハスクの年齢差は6歳である。ハスクが学習院始まって以来の秀才であり、多くの年長者を抜き去り大学への進学を決めたため、当時大学で学ぶエルリックと交友が生まれ、それがこのたびの出兵に繋がっていた。
ミレリア国軍は、貴族がそれぞれに雇い入れる私兵とは趣が異なる。国軍はミレリア王国における独立兵力として王権の支配下にあった。ただ、ラフロート家が現在の国王を輩出した門家となっている為、実質的にはラフロート家がミレリア国軍の費用・指揮権を握っていた。
ハスクが国軍に合流できたのはエルリックの私設参謀として雇用されていたからであり、ハスクはエルリック個人に忠誠を誓っていた。
ラスクロット戦役でミレリア王国は、クルナ王国に8000余名の兵力で進軍し、さしたる戦果を挙げられぬまま1000名の行方不明者と1000名の捕虜をクルナ軍に差し出す惨敗を喫した。
その後、ミレリア王国は10貴族制に権力移動があり、ラフロート家の権力集中が進み、ベリュート家は当主継承権3代目の子息を失ったばかりでなく、私兵も大幅に削減され、新興勢力として影響力は大きく失った。
ベリュート家は、この戦役の敗因を自らに認めることができずに、ベリュート家私兵を戦場に置き去りにしたエルリック・セイツ個人への反感を隠すことが出来なくなっていた。
エルリックの境遇とは別に、王権の独立常備兵力たるミレリア国軍の再編はより加速化し、エルリックが大兵力の瓦解を防いだ軍事的功績が正当に評価され、ミレリア国軍のトップ3司令官の一席がエルリックに与えられる事となった。
これは、エルリックがラフロート家の司令官を重点的に守備した功績によるものと見られていた。あわせて、エルリックは自身の側近を雇用する権利を得て、ハスクを自身の側近に任命した。
しかし、状況はベリュート家の横槍で思わぬ方向へ転がりだした。
エルリックに地方統治司令官の役職が任命されたのだ。これは事実上の左遷に当たる。地方統治司令官とは、ミレリア王国最激戦地の指揮官であり、その戦闘地域は、東をクルナ王都と隣接し、南東を宗教国家ファミスと隣接する。南西部は大海へ通じ、海賊が流通を阻害していた。
通常、地方統治司令官は中央政府と独立し、地方貴族の主が結束して内戦処理を行うときの臨時職としての意味合いで設置される。これを常任職にして統治に当たらせるということは、地方貴族の反発及び、隣国の警戒を誘発する。エルリックは、内乱や外患、果ては暗殺すらありうる非常に不安定な舵取りが求められる事になる。
しかし、エルリックは黙ってミレリア国軍南部総司令官・地方統治司令官として、少数の腹心を連れミレリア王国ファニハール地方へと赴任することとなった。そしてこれが、エルリックに大きな転機を与えることとなる。
ラスクロット戦役より6年、地方統治司令官就任後2年、ミレリアに大きな分裂が興った。
ファニハール独立である。
第一章 ファニハール独立戦争
「皇帝万歳」
国民のエルリック帝を称える歓声が凱旋するファニハール軍に降り注ぐ。
ファニハール帝国初代皇帝エルリックは馬上から、人々の歓喜に応えていた。
ファニハール軍がミレリア軍の侵攻を受けるのは、建国以後6度を数える。
更に、この度の軍事侵攻は波状攻撃であった。
人々の安堵は間も無く不安へ逆戻りする事になる。
「陛下!」
急ぎながら、しかし静かに真紅の絨毯をハスクは歩んでいた。
扉を開け放ち、戦勝祝賀会場に足を踏み入れるや否やエルリック帝に言い放った。
ハスクは言葉を発するや、ゆったり片膝をつき礼をすると流れるように話しはじめた。
「恐れながら申し上げます。ファニハール帝国は現在危険な状況にあります。」
祝賀会場は100人の文官・武官が集まっていたが、ハスクの一言は会場のざわめきを制した。
会場に集まった人々は、ハスクとエルリック帝の間に道を作りエルリックの発言を待った。
エルリックは近くの椅子に座り、ハスクに視線を向けて問うた。
「それで、どうすれば良い?」
皇帝はハスクに発言を促した。
「ミレリア軍は暁も見ぬまま夜陰に紛れ、盗賊のごとく我が領へ侵入しようとしています。」
「報告によりますと、ミレリア軍総数5000名。指揮官は、総司令官オットーマ・ルリオブ及びミレリア貴族ラフロート家・ドスタム家そして、ベリュート家です。」
報告を終えると、ハスクは薄く笑い、言い切った。
「ミレリア軍も浅知恵を巡らせた模様、しかし、ラスクロット戦役の憂き目を繰り返す事になるでしょう。」
「決戦はテャナとし、全軍を投入します。その上で陛下に陣頭指揮頂き、ミレリア国軍を粉砕しましょう。」
「我が軍は、先日もミレリア軍4000と対し、沿岸で追い返したばかり、それをそなたは、テャナ城まで譲れというのだな。」
エルリックは確認した。
「今回のミレリア軍は組織されたミレリア国軍を主体としています。しかし、貴族私兵軍との乖離を促せば、実数は半減します。ミレリア国軍と対すのでは、我が軍の被害は最小にする事はかないません。我々は貴族私兵軍に絞って戦端を交えるべきで、その為に国境線からテャナまでの広大な領土が、自然にミレリア軍を分断してくれます。」
「解った、ハスクが言うのであれば、これ以上は問うまい、皆の者配置につけ」
戦勝祝賀会は間も無く作戦会議室に変わり、僅かな時を置き、ファニハール軍は帝都より10フェルー離れたテャナに主力を移動させる事になった。
一方ミレリア軍は急再編された部隊と、新部隊が合流して渡河に全力を向けていた。
上級貴族の船は豪華な装飾がなされ、昼と見間違うばかりの篝火が焚かれていた。
「僕は揺れるのは嫌だと申したであろう。」
声のトーンが高い、肥えた貴族が不満を訴えていた。
「ランスバー閣下が光臨された事は心強いことですが、ここは宮廷とは違いますので、多少の不都合は押して曲げていただきたいと存じます。」
ミレリア国軍遠征軍総司令官オットーマ・ルリオブは、ラフロート家の御曹司に優しく語りかけた。
「そなたは、面白くないわ。この戦いは他の者たちの手本とならねばならぬ重要な戦いぞ、それを優雅に出来んでどうする。」
その時、脇に控えていたベリュート家の老当主が口を開いた。
「ランスバー閣下はミレリア国軍をよく御制御されていらっしゃる。閣下がいらっしゃるだけで、軍の士気は向上し、より賊軍攻略を容易にさせます。陛下は御威光をさらに高め、ラフロートの安定に尽力なされる事を信じます。」
「御老におっしゃられては恐縮の極み、僕も境遇云々を問う気はない。それこそ・・・・そう、士気だ、士気を高めんとする気持ちですよ。」
ランスバーは逸る気持ちをたしなめられたのを素直に受け止めた。
「閣下の御心は兵士ものども全てに伝わりましょうぞ。」
ベリュート家当主クィターナ・ランスバット・ベリュートはそれ以上何も言わず、常に控えめに発言した。
クィターナはランスバーより年配であるだけでなく、10貴族の当主として指揮権を持っても問題ない地位にあった。しかし、ベリュート家はファニハール独立の引き金を作った事を問われ、その影響力を大きく失っていた。
そもそも地方戦に当主が出向くこと自体が、悲壮な決意を表している。
「我々には最早失うものは何も無いのだ。エルリック個人を敵視してしまった事が全ての歯車を狂わせてしまった。ならば、門家の問題は当主たる私が決着をつけねばなるまい。その為に、ラフロートの若武者に膝を折っても止むを得ない事なのだ。」
出陣を前にクィターナは、側近に語っていた。
門家の一同は涙を流しながら当主の決断を見守ることしか出来なかった。
すでに、河川でファニハールと対した4000の先遣隊そして、残留部隊と統合したこの度の5000人の新部隊。動員された人員は戦時のそれに匹敵する。とても、内政問題にむけられる兵力ではなかった。
ミレリア軍はクルナ軍の動向を探っていた形跡があった。
先にファニハールと対した先遣隊は半数がそのまま、クルナ国境線の警備に回されている。そして、残留の半数と、ミレリア国軍が合流し、ドストム家が脇を固める事となった。
この大兵力の移動を進言したのがクィターナであり、国軍投入の許可を出したのがランスバーであった。
クィターナの計画にランスバーは必要不可欠の存在であった。
ミレリア軍は、先遣隊の敗走を収集し、間も無く進軍を始めた。
ラスクロットへ流れるファニハールとミレリアの国境線となる河川を越えると、駐留部隊と先行部隊に分かれる事となった。
これはランスバーの指示によるものだった。
「ファニハールは攻めてこんよ。ゆったり軍を南下させればよい。」
ランスバーは核心を突いていた。しかし、クィターナとドストム家指揮官ネビオス・ガイス・ドストムは進軍を主張し、配下の部隊を先行させた。彼らは、河川を後背にして布陣する愚を避けるべきだと主張したのだ。
「国軍は拠点を固めながら南下する。クィターナ殿とネビオス殿が更なる進軍をおっしゃるのであれば止めはせぬ。後方の憂いは国軍が取り除こうぞ。」
ランスバーはあくまで堅実路線を推し進めたが、部隊の統一性には配慮しなかった。
いや、むしろクィターナに遠慮して統一性を推し進める事ができなかったのであった。
結局ミレリア軍は指揮権が分裂し、国軍と貴族私兵軍の間に50フェルーの距離を生むことになった。
そして本国への帰路を守るミレリア国軍は意外な反撃を受けることになる。
ファニハールの山賊であった。
ファニハールは元来山脈が多く、そこではミレリア軍に苦しめられた土着の集落がいくつも点在していた。ファニハール帝国も独立時は山賊には苦しめられる事になったが、山賊の頭目とファニハール軍ハーディ将軍が義兄弟の契りを結ぶに至り、同盟関係を築いていた。
山賊は徹底した夜戦を仕掛け、ミレリア国軍を釘付けにした。
ミレリア国軍は重装備であり、組織的な敵軍に対しては、類を見ない攻撃力を発揮する。しかし、ゲリラ戦では国軍の得意な戦術は使えない。
兵は失わないが、纏わりつくような山賊の戦術は国軍のストレスとなった。
そして、そのストレスは指導者への不満へと移り変わり、国軍指導部内部でも攻撃派と慎重派を生むこととなった。
「僕は、安眠を妨げられるために此処にきたんじゃないぞ。」
ランスバーの愚痴は日増しに多くなっていった。
「我が国軍の力は、小うるさい蝿を退治することもかなわぬのか?」
駐屯中のランスバーの話し相手は、ランスバーの友人であり、学習院の同期であるタルミネール・フィオスであった。
「閣下がここで、軍を進めれば後方が騒がしくなる。かといってこのまま軍を駐留させるには、兵が納得しない。非常に難しい舵取りですね。」
「いいんだ、わかっている。将兵達の不満の事もあるが、この毎晩喚き立てる土民どもが余計に気になるんだ。」
タルミネールの前ではランスバーは素直だった。ランスバーは32才でタルミネールは30才であった。タルミネールは16才で学力が優秀であったため、2年飛び級し、ランスバーと同期となった。ランスバーが小太りで童顔であるのに対し、タルミネールは痩身で、温和な顔立ちであった。
タルミネールはランスバーをうまく利用し、中級貴族から10貴族最大勢力のラフロート家に取り入ることに成功した。そして、彼の地位も、彼の祖先を上回る栄華を極めている。
「閣下が採られる道は2つ、進むか、留まるかであり、それらは実は先遣部隊の状況に拠りましょう。ここは、先遣部隊と連絡を密にし、情報を集めることが重要でしょう。」
「確かに、闇の中だからこそ蝿に悩まされている、明かりを灯せば、蝿が逃げていくかもしれんな。」
ランスバーのミレリア国軍は、結果的に駐留を選択し、貴族連合軍の突出を制止する事はなかった。
ミレリア国軍遠征軍総司令官オットーマ・ルリオブは、この時期全く指導力を発揮していない。情報収集に終始し、軍の規律と補給確保に専念していた。
学者肌のオットーマは補給と情報を重視し、戦闘行為自体を野蛮な行為とみなしていた。まして、山賊に翻弄される自軍に対して、総司令官の立場でありながら具体的な行動を起こそうとはしなかった。オットーマは山賊を敵とは見なしていなかった。むしろ、きたるファニハール軍との決戦に備え、戦力を温存することに思慮をめぐらせていた。
一方貴族連合軍はファニハール軍との対峙がないまま、戦線を拡大していた。
ファニハール軍は圧倒的なミレリア軍に対して焦土作戦を取っており、ミレリア軍はいくら前進しても補給にありつくことが出来なかった。
ただ、戦線の拡大はミレリア軍に自信と過信を与え、決戦の場を求めて流浪するミレリア軍はファニハールの大地の中で孤立を深めていった。
ファニハール軍は、城塞都市テャナに軍を集結させた。
「4500もの兵力を集結させるとは・・・」
「テャナで動因可能な全兵力を結集させれば12000の軍勢を整えることができる。」
「テャナの人民を盾にする訳にはいかない。それでは、われらファニハール軍が職業軍人として軍備を備えていることの説明がつかない。我々は、軍事使用に目的化された兵力のみを使用することが出来るのだ。」
各部隊の将軍がテャナの民衆を兵力として利用しようとしたことに対し、ハスクは反論した。
ファニハールが、先日ミレリア軍を迎え撃った河川での戦闘で、ファニハール軍が動員した兵力は2800名であった。それが、今回の防衛戦では、6割増しの兵力を動員している。これはファニハールの局地戦における最大動員兵力であった。
「われわれは、この戦闘において、ミレリア軍を完膚なきまでに打ち滅ぼし、ミレリアの戦闘力を徹底的に低下させねばならない。ミレリアの重装備は、ファニハールの手に落ち、ミレリアの領土野心を根本的に叩く事でファニハールの真実の独立を達成させる。」
エルリック帝は声を荒げ、兵士達に激をとばした。
テャナの麓に集結した兵士たちは先の防衛戦の疲れも見せず、帝の宣言に応えた。
二人の指揮官がエルリック帝から離れた場所で帝と兵士を眺めていた。
「陛下はこの決戦で全てを決めようとされている。」
デラ・ムイネーグがエルリック帝を眺め、その言葉を呑んだ。
「いや、違うな、ハスクがそのように望んでいるのか・・」
デラはエルリックと同年代であり、青年の域を過ぎていた。隣の将軍は、髭を蓄え中年の味が刻まれた顔でデラを睨んでいた。
「あの腰巾着はこの戦いで、陛下に陣頭に立つようにと言ったそうだな。」
デラの戦友ハーディ・ガルーニがハスクを憎々しげに語った。
「将軍、そのような申しようは我が軍の士気を貶めます。できれば、控えて頂きたい。」
「わかっている。しかし、お前は何とも思わんのか?」
「あの腰巾着は、戦場で戦いもせず、自らを策士と称し配置や作戦のみを重視させる。」
ハーディはデラに顔を近づけ小声で言った。
「戦場で戦うのは我々だ。我々が戦場で敵兵を打ち破るからこの国があるのだ。そして、我等が陛下の真の友なのだ。」
デラはそれ以上何も言わず、ハーディの言葉に額を垂れるばかりであった。
テャナは堅牢な城塞都市であり、テャナの城下には広大な農地が広がっていた。人々はテャナに住居を設け、テャナ中心部には兵士が駐留していた。テャナの城壁は非常に低い、しかし、中心にそびえるテャナ城は地上の全てが見渡せるように高く築かれている。
テャナ城の上からは自軍の指揮が容易に行え、敵兵の動きを把握することが出来た。
ハスクはテャナに2400の兵を配置し、2000の兵を城下に配置した。加えてハーディの兵を埋服させミレリア軍を迎え撃った。
はたして、ミレリア軍はファニハールの防衛陣が築かれた2日後に姿を現した。
「反乱軍は撃って出るようですな。」
クィターナとネビオスは、自らが指揮する兵3000で徹底抗戦をする気は無かった。
貴族連合軍の補給は安定している。ミレリア国軍が後方を守備しているため、糧道が途切れることが無かった。その為、持久戦に持ち込み、ファニハール軍が消耗したところで、ミレリア国軍が到着し、ファニハール軍に止めを刺す計画でいた。
「私が、まずはミレリア軍の勇姿を見せ付けてきましょう。」
ネビオスはクィターナに許可を求めた。
本来、ネビオスはドスタム家の一族であるから、クィターナの指示や承認を受けずに独自行動ができる。しかし、クィターナが高齢であること、そしてファニハールに対して執着している事が指揮を誤らせるのではないかと危惧していた。
「わしは、あの猛禽を放してしまった。それがこんにちの災いを成している。わしに先陣を任せてもらえんか。」
「御老のお気持ちは解ります。しかし、戦場での指揮ならともかく、先陣は若者に任せていただけませんか?」
「この年でも血が沸くものでな。解った、すまんがお願いしよう。」
クィターナもベリュート家を背負う身であり、相手の話を聞く耳は持ち合わせていた。
ネビオスが1200で前方を固め、1800でクィターナが後方を守る事となった。
そして、ファニハール軍はエルリック・セイツが本体とする防衛軍が2000でテャナの西に布陣し、防塞を築き迎え撃つ。
テャナの城壁には防衛軍が満ち溢れ、デラの指揮の下、弓兵が固めていた。
戦端はミレリア軍により開かれた。
盾隊が陣営を前進させながら、その間から槍隊が突撃し、更に後方から弓隊が矢を射掛ける。ミレリアの伝統的な戦闘スタイルであった。ネビオスの兵は徐々にファニハール軍へと進み、ついに戦端が開いた。
「余は、ファニハール帝国皇帝エルリック・セイツである。ミレリア軍、祖国を離れた猛獣よ。何を好んで余の檻の中へ飛び込んで参った!」
前方でファニハール軍の防塞にミレリア軍が襲い掛かった刹那、エルリックが敵兵に怒鳴りかけた。
「あの反逆者がいるのか!!」
クィターナが席を立った。
「我はミレリア王国ドストム家が一門、ネビオス・ガイス・ドストム。反乱軍首謀者たる貴様が皇称を語るとは片腹痛い。貴様の悪行の末路を我が示して見せよう。」
ネビオスが馬上から、すかさず反論した。
ネビオスは100旗の騎馬隊に護衛されていた。対してエルリックはビクーブという木製の乗り物に座り、長盾隊に護衛されていた。両者はお互い声の届く範囲に位置し、互いの存在を確認していた。
前線では、戦闘が始まっていた。しかし、クィターナがその戦闘に参加してきた。
「御老、下がっていてください。」
ネビオスは、前進してファニハール軍に急進した、クィターナに言い放った。
「あの反逆者が姿を見せた以上、ドスタム殿の手を煩わせるわけにはいかん。」
クィターナはネビオスに答えた。この時、ネビオスを家名で呼んだ。これは、ベリュート家とドスタム家の話であるという含みを持っており、断わればベリュート家とドスタム家の関係が悪化する圧力を持っていた。
「やむをえますまい。」
「ならば、私はテャナの制圧に尽力いたしましょう。」
ネビオスは、これ以上クィターナに何も言えなかった。クィターナは側近500名を率いてテャナの城壁の前に陣取った。
テャナからの援軍を絶つ為という消極的な理由からであった。
「陛下の軍が孤立しておる。」
埋服していたハーディが苦々しく唇を噛んだ。
「自重なさりませ。ここで閣下が動かれては、我々の存在が意味なきものになります。」
「だからといって陛下の軍を見捨てろというのか。」
「ハスク殿が何か考えていましょう。」
部下に制止され、ハーディは更に状況を凝視し続ける事にしたが、握り締めた手からは汗がにじみ出ていた。
戦端が開かれて2時間が経過した。しかし、戦場は膠着状態に陥った。
攻めるミレリア貴族軍は2500であり、防塞を築いているとはいえファニハール軍2000では数において不利である。しかも、ミレリア軍とファニハール軍では装備の面で圧倒的な差がある。通常であれば突き崩せていたであろうが、ファニハール軍は頑強に守った。
戦端では100名単位での交戦が続いていたが、突出するミレリア軍をファニハール軍がいなしている状況であった。
いくらミレリア軍が攻め立ててもファニハール軍の防塞は崩れない。
「メルクもバルードもよくやってくれている。しかし、あの反逆者は篭ったまま出てこん。正々堂々と姿を現し、我が軍門に下ればよいものを。」
クィターナの苛立ちは周りの制止を凌駕していた。
「御当主さま、ここは持久戦に引きずり込み、オットーマ殿の合流を見て一気に殲滅するのはどうでしょう。まずは後方に早急な援軍派遣を依頼いたしましょう。」
「きさまは馬鹿か!我が軍は反乱軍を追い詰めておるのだ。何を求めてあの若造の手を借りねばならぬのだ!」
激昂しているクィターナに、側近は責務の完遂を求められるだけであった。
一方、ネビオスの軍もテャナ攻略に手間取ることとなった。
テャナの防衛軍は孤立するエルリック軍を放置し、徹底防戦の構えを見せていた。
テャナ防衛軍がエルリック救出の為、城から出た時が勝負とばかりに、ネビオス軍が手薬煉引いていたのも戦線を膠着させた原因であった。
ネビオスがテャナ城、クィターナがエルリック軍との戦闘を始め一日が経過しようとしていた。
ネビオスは持久戦に持ち込む危険は感じていたが、クィターナの暴走とそれに伴うミレリア軍の崩壊を危惧し、積極的に攻め切れなかった。
そして、そのネビオスの煮え切らない態度がクィターナの感情を刺激した。
エルリック軍をテャナ城から切り離す布陣でネビオスとクィターナが合流した。
合流後、すぐにクィターナがネビオスを呼びつけた。
心中穏やかならないネビオスは、クィターナに自重を求める覚悟でクィターナの陣へ足を運んだ。
クィターナの陣は赤々と松明が焚かれ、エルリックの陣を威圧するようであった。
陣幕を片手で払い入ってきたネビオスに席を勧める事も無く、開口一言クィターナはネビオスを責めた。
「陣中で揉め事は部下の指揮に関わる、今後は控えようと思う・・・・」
老将は低く切り出し、辛辣な言葉を綴った。
「しかしだ、なんだこの無様な戦況は、我々は反乱軍と遊びに出征してきたのではない。」
「今後、我が軍の指揮下で動いていただきたいがどうであろう?」
老将は側近を回りに固め、ドストム家私兵の指揮権委譲をネビオスに迫った。
「致し方ありませんな。御老の仰り様では私の責務は全うされてないとお考えなのでしょう。ドストム家はベリュート家に従いましょう。」
膝を折り、拳を床に下ろしてネビオスはクィターナに従った。
ネビオスの決意は老将の威圧に耐えうるものではなかった。
クィターナの意向が決定しているのであれば、それにより起こりうる被害を最小限にしなければならない。当初ネビオスはドストム家だけは守ろうと考えていたが、それもいまや消えうせ、保身を考えねばならなくなっていた。
「しかし、ベリュートには賢臣はおらぬのか・・」
ネビオスは夜空に独白しながら、部隊の配置換えを行うこととなった。
一方、南下を進めるランスバーの部隊は略奪に明け暮れていた。
ファニハールの統治において人民は奴隷として統制されていた。
民家はランスバーの国軍を解放者として受け入れる反面、徐々にではあったが戦渦の拡大を恐れる民衆がミレリア領内及びファニハール領南部へと脱出していた。
そして家主を失った家屋が略奪の被害にさらされる事となった。
ファニハールは元来、権力者が分立し、ミレリア統治でありながら中央集権制の影響外にあった。ファニハール帝国建国に当り、エルリックは地方権力者群を取り込み、帝政をしく事となった。その為、ミレリア軍進行に危機感を抱いた旧権力者が逃げ出した後の邸宅には運びきれなかった財宝が残されていたのだ。
ランスバーは歓迎する領民のもてなしへの対応、及び宝探しと化した戦争の継続に、やや不満を覚えだしてきていた。
「僕が相手をしたいのは、土臭い女共ではない。」
毎晩貢物として献上される美女を前に側近は舌なめずりをしていたが、ランスバーには都に残した貴族の女の方が肌にあい、ファニハールの民を思いやれる気持ちにはなれなかった。
正規軍との戦闘を行うことも無く、ミレリア国軍はゆったりと南下していたが、遂に先遣隊となる貴族連合軍と合流することは無かった。
指揮権を握ったクィターナは乾坤一擲の攻勢に出た。
精鋭部隊を組織し、闇夜に乗じてエルリック陣へ切り込んだのだ。
エルリック陣では徹底した防衛陣が敷かれていた。
ただ、クィターナ軍を驚かせたのは、エルリック陣の本隊が部隊中央に布陣していたことであった。
ファニハール軍は、山脈を後方に布陣し、山道への道をファニハール軍が押さえている以上、後方からの襲撃は限りなく薄い。
まるでその布陣は、ミレリア軍を待ち構え、受けて立つようであった。
「ファニハールに兵法を知る者はおらぬか・・・」
クィターナ側近の将軍、メルク・マスタインは、ファニハールの布陣をそう断じた。
メルク隊は150人で組織され、夜陰に乗じてファニハールの防塞に躍りかかった。
突如、野戦を仕掛けてきたミレリア軍にファニハール軍は浮き足立ったか、防塞を捨て山上へと撤退を開始した。
浮き足立ち、総崩れになるファニハール軍、エルリックの旗は揺らめくように道無き山林へと消えていく。
メルク隊がファニハールの防塞を3つ越えた所で、異変に気付いた。
「ファニハール軍の兵糧がない・・・」
当初、ファニハール軍は大きな荷物を馬車に乗せ搬送していた。
ミレリア軍からはその馬車が兵糧隊に見えていた。
しかし、ファニハール軍が逃げて置き去りにされた大きな荷物からは兵糧ではなく、乾燥した草木が現われた。
「罠だ!!」
メルク隊がそれに気付いたのと、山上に大きな煙が上がるのは同時であった。
更に折悪く、メルク隊の勇戦に触発され、クィターナ本陣がメルク隊の後方へ迫っていた。
山道を舞い踊るように火の玉が下ってきた。
更に無造作に散ったはずのファニハール軍が山道脇に埋伏しており、クィターナ軍が山道から逃げ散る所を迎撃した。
長盾兵を前方に進め、ミレリア軍は、山道を下っていく。
しかし、そこに待ち受けていたのはかねてより埋服していたハーディ隊であった。
「ここで貴族を逃がしてはならん。袋の口を縛るのは我々しかおらん。皆が各々の剣に誓い敵兵を皆殺しにせよ。」
ハーディの怒声がハーディ隊の兵士一人一人に力を与え士気を高めた。
ハーディの剣が踊るたびに、ミレリア兵が倒れていった。
この戦いでハーディ隊は、ファニハール史に燦然と輝く「救国の部隊」となった。
圧倒的な殺戮であった。逃げ迫るミレリア兵に容赦なく剣が振るわれ。ハーディ隊100人でミレリア兵1000人を討ち取った。
ハーディ自身、自分の騎馬に4本の刀を刺しており、10人切る度に刀を変え5本を使い尽くし50人の兵を討ち取ったという。
ハーディの刀の2本目辺りで豪奢な貴族を切り捨てていた。後日の検分でそれがクィターナであることが解ったが、逃げ乱れるミレリア軍にとって指揮官の生死より、自分の生死が優先され、指揮官の死亡はしばらくミレリア軍に伝わらなかった。
それが、ハーディ隊による歯止め無き大量虐殺を生んだ。
ミレリア隊で反撃の態勢を整えることが出来たのは、ドストム家の部隊500名程度であり、先遣隊の8割が生死不明に陥るという惨憺たる結果となった。
「鼠は袋で暴れ、力尽きたか・・」
エルリックはテャナ城から一部始終を眺めていた。
エルリック隊にエルリックは居ず、山道に隠されていた抜け穴で、戦闘が膠着状態に陥った最中に脱出していた。
「国軍は、震え上がり本国に逃げ帰るでしょうな。」
ハスクがエルリックに語りかけた。
「まぁ、総大将がランスバーとオットーマでは、教科書通りの事しかできぬわな。」
エルリックはハスクに応え、さらに言葉を繋いだ。
「しかし、ハーディの働きは恐ろしい、ハーディの部隊だけで5000の兵士がいる気がするぞ。」
「ハーディ将軍をこの戦いの第一の功として、大いに称えましょう。」
ハスクはエルリックの言葉を肯定した。
エルリックの瞳は、黒煙が漂う山林の先、ミレリア国軍を探っていた。
「ベリュート軍全滅、クィターナ殿下戦死!ドストム軍崩壊、ネビオス閣下生死不明」
悲鳴とも取れる伝令がミレリア軍を駆け巡った。
国軍が出征して全体の4割を失う大敗は、ミレリア史の記録がない。
過去1500名が帰らぬ人となった、ミレリア最悪の戦争ラスクロットの戦いでさえ霞む、実に2300名が生死不明となり、救出に関しても目処が立っていない。
「一夜にして優劣が変わるとはな・・」
ミレリア軍総司令官オットーマ・ルリオブは、誰も寄せ付けず、何の指示も出さなかった。状況が劣勢になるにもかかわらず、分析を進めることを優先し、決断ができなかった。
「本国になんと報告すればよい?」
「自らの無能をさらけ出さねばならぬのか?」
オットーマは自分自身のプライドに苦しめられていた。
クィターナに独断を許したのはオットーマの責任である。しかし、クィターナはオットーマの予想を超えた大敗をもたらした。
ミレリア国軍と貴族連合軍が合流し、テャナ決戦が行われるはずであった。しかし、先行した貴族連合軍の大敗は、ミレリア国軍単独での攻城戦を強いる事を意味した。
同数程度の兵力で包囲殲滅を主体とする攻城戦はできない。大きな体力差と、確実な補給の封鎖が必須であるのに対し、そのどちらもミレリア軍は失ってしまった。
オットーマは他人に責任転嫁できない男だった。故に自らを責め、状況の把握と事態の収拾を優先させた。
オットーマにファニハールを責め滅ぼす気力は残っていなかった。
しかし、ミレリア軍の意思は統一されていなかった。
ランスバーがミレリア軍の撤退に異論を唱えたのだ
「わが軍は、一戦も交えずしてこの地を去ることはできない。」
「何をしにこの地へ参ったのか、それを忘れてはならないのだ。エルリックによる悪政を正し、真に王道を宣布せんが為に参ったのだ。」
一人気を吐き、周囲のものを困らせていた。
ランスバーも、事態が優勢ではないことは自覚していた。だが、他人の責任で自分が貶められることを納得できなかったのだ。
「僕は、僕が犯したわけでもない失敗の尻拭いをする為にこの地に赴いたのじゃない。」
「僕が状況を変え、この膠着状態を改善すればよいだけのことだ。」
ランスバーはタルミネール・フィオスに愚痴をこぼしていた。
タルミネールはランスバーにねぎらいの言葉もかけてやることが出来なかった。
ランスバーは今、ねぎらいの言葉を待っているわけでなく、解決策を求めていたわけでもない、救って欲しかったわけではなく、ただ、自分の状況を共有して欲しかっただけであった。
「人は、僕を指して何もしなかった無能な指揮官だと罵るだろうよ。」
「ここまで、ファニハール軍を粉砕してきた僕に対してだ。このままおめおめ帰った日には、ミレリア始まって以来の無能な指揮官として墓標に刻まれることになろう。耐えられるか嘲笑に、引き受けられるか罵声を。」
「クィターナのボケ老人の為に、大局が崩れた。ならば、僕の力で引き戻せばよい。ファニハール軍は余勢を駆ってわが軍に攻め寄せてくるだろうよ、そこで戦術のなんたるかをみせつけてやる。」
タルミネールは深く頷きながら、何も発言しなかった。ランスバーの覇気は更に高まり、自らを高揚させる文句が並んでいった。
タルミネールは俯きながら可笑しくて仕方が無かった。
ランスバーが言う「戦術のなんたるか」とは「机上の戦術」の事である。状況は敵が勝者、こちらが敗者であり、既に戦略上での勝敗はついている。
ならば、戦略上の勝敗を更に悪化させない為に、迅速な撤退こそが「戦術のなんたるか」である。
しかし、あえてタルミネールはランスバーの妄言に否定も肯定もしなかった。彼がランスバーと過ごした時間がそうさせたのだった。
ランスバーの交戦論とオットーマの撤退論はミレリア軍を混乱させた。
ミレリア国軍は貴重な時間を、二人の指導者の関係修復の為に失ってしまった。
ミレリア貴族連合軍敗退より3日を過ぎてランスバーはオットーマに従い撤退の決意を固めることとなった。
ミレリア国軍が河川に停泊していた船舶に乗り込もうとした時、襲撃する部隊があった。
ミレリア国軍を挑発していた山賊であった。
この時は、ランスバーもオットーマも協力して山賊に襲い掛かった。
しかし、山賊に襲い掛かるミレリア国軍の側背をファニハール軍が襲撃した。
100騎程の騎馬隊が先導し1000名の歩兵がその後方に展開した。
ミレリア軍は混乱し、自軍の船へと脱出者が続出した。
デラ・ムイネーグの指揮するファニハール追撃部隊は深追いするでもなくやんわりとミレリア国軍を消耗させていた。
ミレリア軍は我先にと船へ逃れ、定員の半数ほどで出発していく。残ったものは全て捕虜になる。
ミレリア軍の瓦解は徐々に拡大し、既に組織としての抵抗が不能になっていた。
剣を捨て、盾を捨て、ミレリア兵達はファニハール軍に投降していった。
傷いた多くの屍、放置された装備と食料、無人の防塞。さまざまな爪痕を残し、ファニハールに襲い掛かった災害は去った。
ミレリア軍の指揮官は辛くも戦場を離れ、帰国の途についたが、その足取りは罪人に等しく、頭を上げて太陽を望む者は少なかった。
ランスバーとオットーマの対立は帰国後一層拡大し、大貴族を分断しての勢力争いの様相を見せていくことになる。
ミレリア王国は、自らファニハール進軍を繰り返す余力を失っていった。
第二章 エイス・バハール・グォーター
エイメス王国は、アラック大陸北東部に位置する王国である。
エイメスの王権は長く4貴族が専横し、4貴族から国王が選出される事となっていた。
国王は、形骸化しており、4貴族会議が事実上の国政会議となっていた。
エイメスは、北にデラーザント王国、南にデールタス王国、東に大山脈と砂漠、西にファミス教国領バオール王国に隣接していた。
エイメスの主要貿易国はデラーザント王国であり、両国は長く戦乱から逃れており、自然災害にも見舞われずに永久の繁栄を享受してきた。
エイメス王国の外交は防衛主体であり、隣地を害する行為を厳に戒め、他国との調和を第一としてきた。
その為、エイメスの装備は旧式のものが多く、兵も弱卒の謗りを受けていた。しかし、エイメスの指揮官達はむしろそういった声を受け流し、戦乱明け暮れる他国の行状を笑い飛ばす余裕があった。
エイメスは好戦的な国ではなかった。
当時、だれもがエイメスをそう見ていた。
白馬を踊らし部下を背後に、国内の視察を進める青年がいた。
白銀の長髪をたなびかせ、透き通る肌を甲冑に埋め、彼は白い息を吐き出した。
直射日光が甲冑にきらめき、見るものを芸術の世界に引き込む魅力が彼にはあった。
エイメス王国最大貴族バハール・グォーターは、聡明で美しい青年だった。
彼は、国政会議の終わりに、レットマジオ家のパーティに出席した。先日の装備調達に関しての感謝の宴であった。
そこで、知人で豪商のフェルオから紹介された女性がいた。
他の女性達が自らの美を誇り、その装飾品を輝かせる中で、彼女は静かに、そしてつつましく席に座っていた。
豪華ではないが質素でもない、自然体のしぐさ。気品漂う物腰ながらそれを鼻にかけない上品さ。彼は自らの周りに群がる美女を押しのけ、彼女に近づかずにはいられなかった。
「お嬢さん、あなたのお名前を教えていただけませんか?」
周囲の視線を無視して彼が近寄ると、彼女は微笑みながら礼をした。
黒髪は肩のところで切りそろえ、若さを象徴する頬と相手をゆったりと眺めるつぶらな瞳は、バハール達の貴族社会に於いては俗な他の婦人を一蹴し、自然の美を照らしていた。
「恐縮ですわ殿下、私はチャーツ・ユーアと申します。バハール殿下がこのような日陰に参られては眩しくて仕方ありませんわ、どうぞ、他の方々のお相手をしてさしあげて。」
ユーアは、バハールの言葉をゆったり受け止めながら、まるで遠くを見るような視線で答えた。
「ユーアさん、私は君がどうしてここに座っているのか知りたい。できれば立って私と踊っていただけないだろうか?」
周囲の羨望を集める中、ユーアは席を離れバハールの手に従った。
バハールは、小宴をユーアと共に過ごし、惹かれていく自分に気付いていった。
「どうだろう、ユーアさん私の屋敷にいらっしゃらないだろうか?」
「口うるさい婆やがいるが、ユーアさんなら楽しくやっていけると思う。」
ユーアは深く頷きながら聞いていたが、やがて意を決したように長身のバハールを見上げ、断わった。
「閣下のお相手たる重責は、私のような下賎の者でなく、ここにいらっしゃる人形のような御婦人達にこそ賜るものと存じます。」
今までバハールは、明確な拒絶を受けた事はなかった。それが、人々が集まる場所で、最高位の自分が拒絶された事は、少なからず衝撃であった。
「ユーアさんが、そのようにおっしゃるなら是非も無い。」
ユーアにだけ聞こえるように、バハールは小さくつぶやいた。
「しかしだ、ユーアさん。もし、あなたの気持ちが変わる事があるようなら、私は待ちますよ。」
バハールはできるだけ陽気にユーアに語りかけ、その場を離れた。
この日は、その後幾人かの女性を相手に話をしたが、気の無い素振りは相手を傷つけただけで何もうるところなく屋敷に引き上げる事となった。
数日して、執務するバハールに、「バハールを尋ねて女性の訪問がある。」との連絡がもたらされた。思い当たる節のないバハールは、追い返すように指示した。しかし、しばらくして不安になり執務室から外を見ると、門番に槍を向けられ追い返される女性がいた。
ユーアであった。
バハールは、執務室を飛び出し3階から駆け下り、屋敷の門を叩きあけ、上着も着ずにただ駆けた。
ユーアにはすぐに追いつけた。
「すまない。」
バハールはユーアの肩に手を回し、自分の方へユーアを向けると開口一番に言った。
息を切らしながらバハールは、言葉を続けた。
「よく来てくれた。うれしいよ。」
バハールはユーアの手を取ってユーアに微笑みかけた。
「私も嬉しいです。本当にきていいのかどうか迷っていたのですよ。」
ユーアは、何も変っていなかった。素朴で素直なままで、飾らない表情は日の光を受けて眩しそうにバハールを見ていた。
バハールは、ユーアを伴い屋敷へ戻った。途中、門番に一言注意し、屋敷を案内して回った。
バハールの屋敷は領内の中心部にあり、北西にはノイフェビルハ城があった。バハールはその日、ユーアと共にノイフェビルハまで馬を走らせ、ノイフェビルハにて自分の世話役メフとユーアを引き合わせた。
メフはバハールの幼い頃からの守役の女性で今年80になると言う。メフはユーアを見ると微笑みバハールと共にノイフェビルハを案内して回った。
普段、バハールには女性関係のことでとやかく口を挟むメフ婆であったが、バハールも驚くほどユーアに対しては、にこやかに対応していた。
むしろ、ユーアの方がメフに遠慮しているようであった。
「ユーアさんが、この城にいらっしゃると、冷たいこの城も花が咲いたように輝きを取り戻すようですね。」
メフ婆は、ユーアを伴い、バハールと共に場内を案内して回ったが、バハールが部下から連絡を受け、席を外すと二人で雑談をして時を過ごした。
バハールが執務室から駆け足に戻ってくると、二人は親しげに場内の噴水のそばのテーブルに座り、昼食を広げていた。
「婆がユーアさんをこんなに気に入ってくれるとは思わなかったよ。」
バハールは屈託の無い笑顔でメフ婆に語りかけ、使用人に命じてバハールが気に入っている葡萄酒を持ってこさせた。
3人で暫く時間を過ごし、夕方になって、バハールはユーアを家まで送り届けた。
別れ際、バハールは照れながらユーアに挨拶をした。
ユーアの屋敷から出迎えに2人の使用人が駆け足で出てきたが、ユーアは使用人にいくつか言付けると下がらせた。
「今日は楽しかった、いつでもいい。ユーアさんが来たい時にくればいい。私は待っている。」
「有難うございます、殿下。」
ユーアは、その一言だけ述べると、腰を下げ、バハールに礼をして屋敷へと入っていった。
ユーアは、それからバハール邸に度々訪れるようになった。
ユーアは、バハールの領内でも下級貴族の長女であった。ユーアには、父と母と、弟が一人いた。ユーアの父は祖父の遺産を食い潰して生活していた。ユーアが幼かった頃は自領へ積極的に投資し、家来から嫌われながらも生産性はあがっていた。
しかし、あまりにも革新的な技法に固執したため、従来の方法をとる他の領主から白眼視され、流通でユーアの父の農作物を締め出されてしまった。
それ以来、ユーアの父の農作物は作っても売れない日々が続いた。ユーアの父は、生産した作物が朽ちていくのを涙ながらに悔やみ、やがて情熱は失われていった。
ユーアの父は農場の管理を別の貴族に譲り、自らは僅かな農地使用料を収入とすることでささやかな生活を送っていた。
ユーアの母は中流貴族の出身だった。彼女はユーアの父の意欲的な農地改革を見て、その協力者として、親しくなった。
中流貴族の娘が農業に関心があるなど、このエイメスならずとも驚かれる事である。
ユーアの母がエイメスの農業に何かをもたらしたという事はなかったが、当時中流貴族の女性が下級貴族の男性と結ばれるなどという事が異例だっただけに、この事は一部の貴族から反感を受ける事になる。
当初、積極的に二人で農地を実験場にさまざまな新技術を試していた。
中には、作物の一部を全滅させた事もあったが、やがて、二人の農場は他の農場を圧倒する生産性を生み出す事になる。
しかし、それが二人を不幸に貶める事になってしまった。
ユーアの弟は、父の努力していた時期を知らなかったため、父に反感を抱き、親元を離れ、中央学習院へ就学の道へ進んでいた。
ユーアがバハールと出会ったのは、全くの偶然だった。
ユーアの友人、フォンズ・ヒールの悪戯にユーアが乗せられたのだ。
ヒールは、チャーツ・ユーアのチャーツ家が嫌いだった。彼女が嫌いになった理由は、ヒールの父、フォンズ・ルミルがチャーツ家を敵視していたからであった。
社交界に疎いユーアを、大きなパーティで恥をかかせようと考えて、彼女をパーティに誘ったのだった。
ユーアが社交界に参加することを両親は喜んだ、他の一般貴族と同様に、ユーアが社交界において、よき伴侶を求めるのであればそれもよし、そうでなくともユーアにとって田舎暮らしよりよほど為になるだろうという配慮であった。
ユーアとバハールの交際は長くは続かなかった、ユーアの父がバハールに書簡を送ったのだ。
「もう、娘とは会わないでほしい。」
ユーアの父は、バハールと娘の交際を、当初喜んでいた、しかし、彼を取り巻く環境は嫉妬と妬みが渦巻いていた。
懇意にしていた貴族からの嫌味や、中傷を受け、彼は娘とバハールの交際に釘を刺さざるを得なかった。
バハールは、ユーアの父からの手紙に酷く傷ついた。しかし、彼は俯き一呼吸置いて、それ以来ユーアの事を口にする事は無かった。
「ユーアのお父上がその様に望まれるのであれば、私が無理強いする事はできない。」
バハールは、支配者としての力を持ちながら、それを高圧的に使う事はなかった。
後日、彼はメフ婆から、チャーツ家の事を教えられた。
「チャーツ家は、聡明ながら不幸な家族でした。周りの人間に妬まれ、その功績を奪われました。ユーアさんはご両親の不運を御存知でしょう。そして、一番彼らを貶めるのは、彼らの技術を利用して生産性を上げた他の農場主だということです。」
「チャーツ家の開発した農薬は、今やエイメスでは一般的になった生産方法です。しかし、その開発者は今も不幸を享受しているのです。」
メフ婆は、悲しそうにユーアの家族にまつわる歴史を語った。
「しかし、だとしても決断したのはユーアのお父上だ、この上は、私に成す術は無い。」
無論、一連のいきさつは、心無い者によりエイメスの社交界の話題となった。
「栄華を自ら手放した没落貴族と、その美しき子女を逃した大貴族」
バハールを嘲る者達は好んで、この話を語り草とした。
エイス・バハール・グォーターは2歳の時、廃嫡されてエイス家の家臣、老将ミルフェ・イルシュの下に預けられた。
バハールは、幼くして大きな病気を抱えていた。日々高熱にうなされ、医師も彼の余命を短く刻んだ。
父のエイス・ミルマ・グォーターは、幼くして病魔に蝕まれるわが子に悩み、その処置を腹心の老将に任せた。
バハールが1歳を迎えると、ミルマの下に第2子が誕生し、バハールは王城への出入りも少なくなっていった。
バハールが貴族特有の権威意識を持たなかったのも、ミルフェ・イルシュの教育と、イルシュの妻マフィルの影響が大きい。
イルシュとマフィルはバハールを自分の孫の様に親身に教育した。
バハールはイルシュ邸で2歳から12歳までの10年間を過ごし、急遽、王城へ呼び戻された。
そして、廃嫡も解かれてエイス家の13代当主として返り咲いた。
エイス・ミルマ・グォーターは、妻のエイス・ホートー・自身の子エイス・マルゾと共に原因不明の高熱に襲われ32歳の若さで亡くなった。
エイス家は当主を失いミルマの叔父ギルームを当主とする方向で固まるかに見えたが、若いバハールを傀儡にしようとした勢力が、エイス・バハール・グォーターを誕生させた。
バハールは廃嫡より11年を超えて、13歳の若さでエイス家当主となった。
その後、ミルフェ・イルシュと一部の中級貴族により、エイス領は統治される事となる。
事実上、エイス家の領地はミルフェ・イルシュが管理し、一部の中級貴族が領地の利権を細分化し、その管理化においていた。
その事について、イルシュは口を出さず、中級貴族の成すがままの状態を見守っていた。
バハールが18歳になると、エイス家は大きく激変した。
当時、エイス領で最大の実力者であったイルシュが、政治の舞台から隔離していたバハールを前面に押し出して内政問題の解消を行ったからである。
イルシュは既得権益の大半を放棄し、バハールの影に隠れる形でバハールの参謀となった。
中級貴族達はこれに驚き、バハールに恭順しようとしたが、バハールは彼らの既得権益を奪い、エイス家の実質的な指導者に返り咲いた。
中級貴族達の不満は、イルシュに向かい彼への非難は放火などの実力行使を含むさまざまな形で行われた。
エイメスにおいて、各貴族は私兵を持たなかったが、使用人を使い自己防衛を行う道はあった為、エイス家の混乱は、他の大貴族にとって暴発の危険を伴う最大貴族凋落の好機と受け止められていた。
しかし、他の大貴族の心配を他所に、エイス家の混乱は、毎夜毎晩バハールが社交界へ顔を出す事で解決した。
バハールの美貌が、中級貴族の子女のみならず、彼らの夫人の心を捉え「バハール憎し」の世論が、女性達の羨望と若い男性達の追従によって一蹴されたのだ。
バハールが顔を出す舞踏会には、バハールを求め多くの美しい女性が集まり、その女性達を目当てに多くの若い男性が集まった。
バハールを自分達の舞踏会に招待する事が、エイメス王国でのステータスとなり、エイス家の混乱は、強硬な手段と裏腹に穏便に収束する事となった。
バハールが20歳を迎えるころには、エイス家は多くの貢物と、集権的支配構造により、エイメスで並ぶものなき地位を手に入れていた。
光のバハールと、影のイルシュ体制は、エイス家を更に強固な支配者としていた。
バハールは豹変した。
バハール24歳の頃、バハールの下に届いた手紙が、彼を重大な決断に導いたという。
バハールは12歳の時に犬を飼い始めた。
当時、形骸化した領主としての喪失感を、愛玩動物によって埋めるという心理的な計算によって与えられたと考えられる。
バハールは24歳までの12年間を愛犬フィーブと共に過ごし、フィーブを可愛がっていた。
バハールはフィーブを一人で世話し、使用人にも手を出させなかった。
しかし、24歳になったバハールはフィーブの世話を使用人に任せ、部屋に閉じこもる事が多くなった。まるで、何か重大な決心をしたかのように。
そして、バハールの積極的な懐柔策が始まった。
バハールはエイメス国内の大貴族のうち残る2貴族、オルク・フェート・タルサとメルフ・ロベル・ツェイサーを口説き落とすことに成功した。
フェートは46歳のオルク家当主、ロベルは55歳のメルフ家当主であった。フェートは温和な男であったが、ロベルは老獪な野心家であった。
バハールとしては、フェートを懐柔すれば3大臣制の機能は動かせたが、バハールが積極的に接近したのはロベルであった。バハールはロベルが求める全てを捧げ、ロベルの指示を忠実に履行した。時に屈辱的なこともあり、不利益をこうむる事もあったが、老獪なロベルに従う事で、ロベルを懐柔させる事に成功した。
ロベルがバハールを認めると、フェートはその決定に従った。
この時期、バハールの勢力は形骸化しつつあった。
バハールは、自領の豊かな部分を王領に返納し、権益の大部分をロベルに渡した。
家臣団も他の貴族に遠慮する領主に愛想をつかし、バハールの真意をつかみかねる旧臣が、エイス家を後にした。
バハールの下に残った忠臣は、老将カイツ・ドストームと、その部下34歳のオスマン・ラルベーヌ。
バハールの親戚筋、29歳の将軍カミン・テルブレック、32歳のラング・ヘイセ、36歳のアイス・カミフェ。
バハールの旧友24歳のアミス・ブラグネルといった弱卒と家門ばかりであった。
そして、バハールの育ての親、ミルフェ・イルシュは不気味にバハールの行動を見守っていた。
内政はイルシュの采配により落ち着いていたが、人々は老将イルシュが退いた後は、エイス家は分裂し、大きく勢力を失うと見ていた。
バハールの年齢と経験のなさが家臣団の異常な若さに象徴されていた。
多くの中流貴族はバハールの株を下げて評価し、他の大貴族に経験豊富な将軍を送り、バハールへは若手を派遣した。
エイメスの支配力はメルフ家に傾き、エイス・オルク両大貴族は、大きく影響力を損なうことになった。
次第にロベル家は傲慢になり、2年もすると自信をつけたメルフ家は国政を三貴族会に問うことなく壟断するまでになった。
バハールは、メルフ家に従い事後承認を認め、ロベル一門の横暴を黙認する。
そんな中、メルフ家とオルク家で領地に関する問題が発生した。
何者かが、メルフ家の中流貴族の領地を荒らし、その後隣接するオルク家の中流貴族の領地が荒らされたのだ。
メルフ家の中流貴族とオルク家の中流貴族間のトラブルは、背後の大貴族間の対立になる前に、三貴族会で解決するのが慣例になっていた。
しかし、メルフ・ロベルは三貴族会にかける前に、自らの配下の中流貴族に示談金を国庫から支給し、その支払いをオルク・フェートに断わりなく、オルク家の中流貴族に迫ったのであった。
オルク家の中流貴族はメルフ・ロベルの一方的な要求に激怒し、オルク・フェートに泣きついた。
三貴族会で後日、オルク・フェートがその件について正すと、メルフ・ロベルは開き直るのだった。
「フェート殿のおっしゃる事は解るが、問題は国庫にて解決済みである。後は、負担した国庫への返済義務が誰にあるかであって、誰が問題を起こしたかではない。」
メルフにしてみれば、些少な小競り合いに手をとられるより、面倒な国政を円滑に進めたいという意向であった。
「ロベル殿には国庫とおっしゃられるが、国庫は我々が各々独断で裁量できうるものではないはず、三貴族会も待たず早急に既成事実化されるやりようは承服しかねますな。」
フェートのそれは、感情論であった。建前上、三貴族会により国庫の用途は決められ、その予算に従って各担当貴族へ下賜される。しかし、現実には三貴族には国庫の一部が独断裁量できる部分があり、慣例としてその独断裁量部分は事後承認で認めていた。
フェートは、その国庫をもって独断でフェートの家門に責を負わせ、一方的に正当性を主張しようとしたロベルの独断がゆるせなかったのだ。
ロベルの独断に反感を抱いたフェートは、三貴族会への出席を拒むようになった。
代理人を認めない三貴族会では、フェートの欠席の意味するところは大きい。
三貴族会の重要議題は三つのランクに分類されている。
三貴族会の存続に関する問題は三者の賛成をもって可決、国政に関する重要議題については二者の賛成をもって可決、貴族間紛争については一者報告とされていた。
すなわち、エイス・バハールとメルフ・ロベルが賛成しなければ国政にかかる物事の解決が図れなくなったのだ、では、バハールがロベルの提案に全て賛成するかというと、そう上手くも運ばなかった。
オルク・フェートからバハールの下には、「ロベルの提案に反対するように」と要請が舞い込んでいたのだ。
期せずしてバハールは、エイメスのキャスティングボードを握る事となった。
「フェートがここまで執拗な性格だったとは。」
「これでは、何もすすまないではないか。」
中流貴族達は大貴族の確執を横目に、国政の混乱を楽しむ風があった。
この時点で、エイメスの未来を予見できた人間は誰もいなかったのである。
「バハール様はお若くして、ロベル様とフェート様に気を使わねばならない、あの様な状況でさぞやお心苦しいだろうな。」
中級貴族達は苦境に立たされたバハールの不幸を、社交界の話題として大いに活用した。
更に状況は激変する。
ロベルには、8人の娘がいた。
そのうち、5人は他家に嫁ぎそれぞれの生活を送っていたが、次女のミーシェと4女のフォーリ、そして末娘のカユーがロベルの下に残っていた。
嫁いだ姉妹達は顔を出すたびに3人に結婚を急かし、自らの幸せを披露するのだった。
実際、ロベル一族の子女と結ばれた中級貴族は、ロベルへの誓約と共に国政の恩恵を賜るのだった。
その為、ロベルの次女となるとその恩寵は計り知れず、こぞって多くの貴族が子息を差し出し、その御手を引こうと試みていた。
だが、ミーシェはその手を振り払い、いかなる貴族の若者にも振り向く事はなかった。
そんな中、フォーリが結婚を決意するのだった。
ミーシェは3歳離れた異母姉妹のフォーリと特に仲が良く、フォーリの結婚を祝いながらも寂しさを打ち消す事ができなかった。
フォーリの結婚を境に、ミーシェはふさぎこむようになり、これまでかろうじて参加していたパーティにも出席することなく、一人部屋に閉じこもるようになった。
25歳のミーシェを、既に伴侶を迎えた姉妹達は、このまま結婚をすることはないだろうと噂しあった。
しかし、ふとした事で別の話題が持ち上がった。ミーシェの散財である。
かねてより、ミーシェは浪費家であった。それが、他人との接触を拒むようになるのと時を同じくして更に酷くなった。
他の姉妹達の旦那が稼ぐ月の収入、ミーシェはその3倍以上の金額を衣服や装飾品に費やした。
長女のルーメーは、早くに無くなっていたので、ミーシェを諌める者は父親のメルフ・ロベルしかいなかったが、ミーシェの散財程度でメルフ家の屋台骨が揺らぐ事もないので、一人家に残った愛娘をメルフ・ロベルも諌める事はしなかった。
「ミーシェ姉は、お父様の所に留まる事で贅沢三昧。私達は、夫の為に色々社交界に出なければいけないのに、なんの苦労もない生活ばかりして酷いわ。」
「お父様もお父様だわ、いつまでミーシェ姉の好きにさせておくのでしょう?」
「この間もミーシェ姉ったら、ミレリア製の宝石を買ったらしいわよ。」
「それ、それ、1億アブフもしたらしいじゃないの。」
「えー、1億アブフ?私がこの間買った宝石なんて100万アブフよ、いくらなんでもそれは酷いんじゃないの。」
「ここ2ヶ月で3億アブフも使ったらしいわよ。」
「お父様の気前の良さにも呆れるわね。」
「私が月に使えるお金なんて、130万アブフよ、お父様にはミーシェ姉を諌めてもらわないと。」
「私も、一度お父様に申し上げたわ、でも、お父様ったらミーシェ姉には甘いから・・・」
他の姉妹の言葉は、「ミーシェが結婚しないのは贅沢を続ける為だ」と非難するものとなり、次第に、ミーシェの事を悪く言うようになった。
あまりにも、他の娘達がミーシェの事を非難するのでメルフ・ロベルも重い腰を上げてミーシェに尋ねた。
「ミーシェ、お前は結婚する気があるのかね。」
ロベルは二人きりの時に優しく切り出した。
しかし、ミーシェはその言葉を聞くと泣き出し、次の言葉を告げられなかった。
「他の娘達が、噂しておるのだ、ミーシェは贅沢をしたいから結婚しないのだと。」
「わしは、お前がそのように考えているとは思わないし、仮にお前がそう思っていたとしてもかまわないと思っている。」
「わしは、お前が女としての幸せを知らずに、わしの手元で苦しんでいるのであれば、お前が幸せになる方法を考えたいと思うのだ。」
「ミーシェ、お前が幸せになるなら、わしに何でもさせてくれ、欲しいものがあれば買ってやるし、お前が気に入った男がいるのであれば、わしがそいつをお前の伴侶にしてやろう。」
ミーシェは泣きながら、ロベルの目を見つめて話した。
「お父様以上の方がこの世の中にいましょうか、私は私の心の隙間を埋める為に色々な宝石や服を買いますわ、しかし、それを誰もがうらやむ事はありますが、私にそれ以上のものを施してくださる方はいらっしゃいません。」
「きっと、わたしはこの世の中で誰かを好きになることなく老いていくのではないかとおもいます。」
ロベルは、悲しむ娘にそれ以上何もいえず、娘につりあう男などこの世にいないのではないかと天を仰いだ。
ミーシェを射止めるのがだれであるのか。
人々はさまざまな憶測を並べ立て、社交界にもささやかな話題を振りまいていたが、事態は急展開を迎えた。
ある社交界で、バハールがミーシェへの思いを語ったのだ。
三大臣の一人、エイス・バハールが、同じく三大臣の一人、メルフ・ロベルの令嬢へ想いを寄せているという話は、瞬く間に社交界に広がった。
そして、バハール・ロベル両人ともそれを肯定も否定もしなかったため、まるで既成事実のようにバハールとミーシェの結婚が噂された。
「バハール様といえば、清廉潔白なお方、男色の噂すら広がるほど身辺の綺麗な貴人。まさにメルフ・ミーシェ嬢を射止める事ができるのは、あの方を置いて他にいないでしょう。」
「バハール様は、かつて下級の貴族とのうわさがあったが、結局身分の差が関係を引き裂いた。今回はバハール様の相手にふさわしい名家の令嬢だ。これほどの縁談は他にあるまい。」
「今では、ロベル様とバハール様の関係はとても良好だ。ロベル様にとってもバハール様にとっても良い話ですね。」
中級貴族達は面白おかしく、大貴族の婚姻を語るのであった。
中でも、ロベルの長女イレードの夫ファークス将軍の喜びようは激しく、期せずしてバハールが兄弟となる事を誇らしげに語るのだった。
状況が、大貴族間の婚姻をにおわせるものになると、この強力な繋がりを危険と感じる第三勢力が発生する事は珍しくない。
オルク・フェートがメルフ・ロベルと不仲である事は衆目の一致する意見であった為、日頃からロベルの豪腕に反対する中級貴族が、オルク・フェートを焚き付ける働きを行いだした。
すなわち、「バハールとロベルのつながりは、三大臣制の瓦解を促し、100年続くエイメスの伝統を打ち破るものとなる」といった趣旨のものである。
中級貴族の激しい突き上げに、穏健派のフェートも重い腰をあげ、バハールと今後のエイメスについての会議を持ちたいと働きかけた。
ロベルの娘の婚姻から派生した状況の激変は、バハールを中心に大きなエイメスの権力闘争に発展する事となった。
そして、フェートとロベルは自らの望むところとは裏腹に溝を深め、「バハールをどちらの陣営が取り込むか」という2大勢力対決の様相を見せ始めた。
そして、そんな中で三大臣会議の席でバハールから意外な提案が持ち出された。
宗教国ファミスが統治している、旧バオール王国領をバオール王家に返還せしめる戦いの提案。
「バオール開放戦争」である。
第三章 デールタス蠢動
「激流であれど下流になればなるだけその勢いを弱め、やがてせせらぎにとなりて大海に注ぐ。」
大陸東部に伝わる諺は、しかしデールタス国王、マレイム・ラング・ラーヌとは無縁であった。
ラング国王、通称「ザンテガント王」は、自らに内包する激流を弱めるどころか更に加速させ、40代にして至高の栄冠をいただきながら、尚飽くことなき権力欲を魅せていた。
ザンテガント王には2人の参謀と10人の将軍が従い、当時の大陸東部で最大の勢力を有していた。
ザンテガントは、武家の出身であり王家に繋がる血筋はない、その立身出世は時代の奇をてらうものであり、人々に様々な逸話を残している。
デールタス王国と隣接するパホッタイナ王国は、国王及び権力者が大陸に土着の人間ではない。
500年以上前に大陸東部の砂漠を越えて進行してきた、「東の人」という勢力の末裔である。
「東の人」人々がリミタスと呼ぶ人種は、大陸土着の人種に比べて体格が大きく鼻が大きく高い。
リミタスに対して大陸土着の人種をローイと呼ぶ。ローイとリミタスの対立は大きくは2回あった。
一度は400年前の聖王エダーザルによるリミタスの大陸支配、そして200年前には魔王イジェールによるローイの大陸支配である。
王家の正統性を歌えないリミタスには、組織の代表としての王が存在し、その王は血縁で繋がらなくても良いという考え方があった。
デールタスもパホッタイナも血縁ゆえに王冠を頂く王より、その実力で王冠を奪うものが多かった。
ローイはリミタスの不安定さを嘲笑し、リミタスはローイ王家の脆弱さを嘲笑していた。
ザンテガントが旧権力者に排除される事無く至高の冠を戴く事ができたのは、彼がリミタスであったからに他ならない。
ザンテガントには逸話が多く、彼の立身出世物語は多くの書籍に残されている。
兵士として当時の王に召抱えられたザンテガントは、密通していた女性を殺した罪で罪人に落とされる。
そこを王となってからの側近の一人ナルニールが真犯人を見つけ出してザンテガントを開放する。
ザンテガントはその後、頭角を現し、ナルニールとフーハートスという参謀二人を従えて、首都防衛長官に就任する。
地方を視察していた旧王が、罪人であり、元首都防衛長官のザルグに殺される。
ザンテガントはザルグを討伐して国王となる。
ザンテガントの出世の大筋は以上のようなものであるが、ザルグとザンテガントの繋がりは誰の眼にも明らかで、ザンテガントが関係者と旧王朝の人間を全て粛清してしまった事から、真相は闇の中に葬られた。
そして、ザンテガントはデールタスの王権を掌握し、デールタスを軍事国家として成長させる。
第四章 大同盟