ST. ABRAXAS’S CATHEDRAL

聖アブラクサス大聖堂

世界に 疑問を抱く者への手紙 

▼ グノーシスとは


初めに言葉(ロゴス)があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。  
この言葉は初めに神と共にあった。                
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとして
これによらないものはなかった。                  
この言葉に命があった。そして命は人の光であった。      
光は闇の中に輝いている。そして闇はこれに勝たなかった。
ヨハネ福音書 1章1−5節
快楽の園(右)
 グノーシス派はキリスト教の一派です。しかし、きっとあなたが知っているキリスト教とはまるで違うものでしょう。もっとも異なる点は、この世界や私たちが不完全な神によって創造されたということです。この不完全な神とは旧約聖書のなかで「妬む神」とか「ヤハウェ」と名乗った神のことです。グノーシスでは「ヤルダバオート」とも「デーミウルゴス」と呼ぶアルコーン(下位の神)の1柱です。ヤルダバオートは至高神の意に背いて産み出され、至高神に対抗して物質世界である私たちの世界を造り出しました。

 しかしヤルダバオートは私生児であり流産の子であったために不完全な存在でした。だから、この世界は不完全そのものであり、私たち人間は決して悩みや苦しみから解放されないのです。ヤルダバオートは人間(生命)を造るとき、土(物質)で造ったものに光のかけらである「霊」(プネウマ)を吹きこんで人間にしました。しかし霊は本来、至高神の中心である光の充満するプレーローマにあるべきものなのです。至高神は光のカケラである霊を回収するためにアウトゲネース(イエス・キリスト)を地上に送りました。そして、アウトゲネースであるイエスが十字架にかけられたのは知っての通りです。私たちはアウトゲネースの導きにより肉体というヤルダバオートの造った牢獄から抜け出し、自由となって私たちの故郷プレーローマに帰還することで救済されます。

 グノーシス派(Gnosist)、またはグノーシス主義(Gnosism)の歴史は紀元1世紀から3世紀頃に盛んだったキリスト教の宗派で、カトリックや東方正教会よりも古くに成立した最古の宗派の1つです。しかもグノーシス思想の源流はキリスト教より古いギリシア哲学にあります。そのため数多い宗教のなかでも哲学に裏付けられた思想的に豊かなドグマを有しています。

 反面、盲目的に聖書だけを信仰のよりどころとする他のキリスト教の教義とは大きくかけ離れたドグマ(教義)を持っていたため、他の初期キリスト教会から烈しい攻撃を受け、ほとんど潰滅させられてしまいました。新約聖書のなかにも当時の教会がグノーシスを非難しているらしい記述が見受けられます。しかし新約聖書でも「ヨハネの福音書」はグノーシスの影響が色濃く現れていて、特に冒頭部はグノーシス神話を彷彿とさせていることからも決して単純に異端と決めつけるようなものではないのです。ところが暗黒の時代、中世ヨーロッパでは、わずかに残ったグノーシス思想を掲げるカタリ派などは異端、邪教、悪魔崇拝とされてしまい、カトリック教会によって、ことどとく弾圧されて、多くの人々が拷問を受けたり処刑されました。

 しかしグノーシス思想は地上から完全に消滅することはありませんでした。当時の知識層であった一部の見識ある修道士たちが自らの死もかえりみず、グノーシスの研究を連綿と受け継いでいきました。そして今現在もヨーロッパ・キリスト文化圏においてカトリックが「明」ならグノーシスは「暗」として生き続けています。文学について言えば、グノーシス思想をテーマとした名作としてはゲーテの『ファウスト』やドストエフスキーの『罪と罰』、その他ヘッセの作品などが挙げられるでしょう。

▼ 深淵なるヌース(叡智)を求めて


 グノーシスは奇跡でガンやアトピーの病気が治るとか現世利益をうたい文句にしたり、多額のお布施や熱心な布教活動をしないと死後に地獄に堕ちるなどマインド・コントロールするような多く新興宗教のカルト教団とは違います。また熱心や信心やお経を唱えるだけで救われるといった安易な教えでもありません。どちらかというとグノーシスは大衆的な宗教ではなく、選ばれた少数の者による密教仏教に似ているでしょう。

 「グノーシス」とはギリシア語で「認識」というような意味です。グノーシスでは盲目的な信仰ではなく、ヌース(叡智)によるグノーシス(認識)こそ何より大切なものとしています。ヌースは宇宙の摂理であり秩序であってグノーシス神話やドグマの他に全ての現代科学の知識も含まれています。聖書の記述に固執して地動説や進化論などを非難し、科学の発展を長らく妨げてきたキリスト教会のイメージが強い日本人には宗教と科学が対立しないことに違和感を覚えるかもしれません。しかし科学とはそもそもイスラム文化圏において、神(アッラー)の摂理を知るという宗教的な目的に端を発しているものです。決して矛盾しません。そして最も知識と学ぶ意欲を重要視するのがグノーシスです。他の宗教のように教祖や指導者の言われるままにするのではなく、自ら学び、そして考え、行動することが必要なのです。

▼ 光の世界プレーローマへの帰還と輪廻


   グノーシスは知によるグノーシスト(認識者)となることを目指します。そのために、まずグノーシスの基本となる神話体系を認識することから始めます。そしてグノーシスの神話に象徴的に隠されたアルカナ(秘儀)を段階的に実践してゆきます。こうしてプレーローマへの帰還の準備を整えるてゆきます。実践する方法については「 霊、魂、肉――三重の体からなる人間 」の項にあります。ここではグノーシストに至るまでについて簡単に説明します。

 グノーシストになるには「下降から上昇」という過程を辿ることになります。具体的には先ほど例に出た『ファウスト』ではファウスト博士は悪魔メフィストフェレスと契約することで下降しますが、死の間際に神の存在に触れて天に昇ります。『罪と罰』では青年ラスコーリニコフは金貸しの老婆を殺すことで下降し、やがて純粋な娼婦ソーニャに出逢うことで改心することで上昇を果たすのです。よく病気になって健康のありがたさに気付いたなどという話や、不幸や戦争になって幸福や平和のありがたさを知るなどの話と一緒です。

 「最高の極」を知るには対極の「最低の極」を知らなければなりません。これは「祈り」や「願い」を通して一方の極だけに心を傾けることでは達することのできない境地です。宗教を問わず高名な宗教家は往々にして若い頃は自堕落な生活をしていたり、迫害などを受けた経験をしています。また、どんな分野においても成功者は一度はどん底を見ているものです。山上の垂訓として有名なイエスの言葉として聖書では次のようにあります。

心の貧しい者は幸いだ。天の御国はその者のものなのだから。
悲しむ者は幸いだ。その者は慰められるのだから。
柔和な者は幸いだ。その者は地を相続するのだから。
義に飢え渇いている者は幸いだ。その者は満ち足りるのだから。
あわれみ深い者は幸いだ。その者はあわれみを受けるのだから。
心のきよい者は幸いだ。その者は神を見るのだから。
平和をつくる者は幸いだ。その者は神の子どもと呼ばれるのだから。
義のために迫害されている者は幸いだ。天の御国はその者のものなのだから。
私ために、罵られたり、迫害されたり、また、ありもしないことで罵詈雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いだ。
マタイ福音書 5章3−11節
快楽の園(左)
 グノーシスの解釈に従えば、このイエスの言葉は下降を経験するこの重要性とを説くものです。もちろん「天の御国」とは俗に言う「天国」ではなく「プレーローマ」のことです。今このときに苦しんでいる者や悩んでいる者こそ、すでに真のグノーシストになる道程の道半ばにあるのです。

 下降を経験して認識しながら上昇してゆく過程で人間は肉体的にも精神的にも健康で満ち足りたものになってゆきます。また肉体的な感覚や精神的な感覚も本来の機能を取り戻して研ぎ澄まされてゆくでしょう。しかし、これは特別なことではありません。かつてオウム真理教では修業により空中浮揚など超能力が身につくといった宣伝がなされました。しかも結局はすべて嘘でした。グノーシスによる認識によって得られるのは、そのような即物的で無意味な超能力ではありません。至高神や宇宙の存在をより鋭敏に感じることを可能とし、この不完全で悪意に満ちた世界のなかに囚われつつも日々に喜びを見出せる力が得られるのです。

 グノーシスの救済が肉体からの脱出とプレーローマへの帰還である以上、最終的には「死」を肯定的に受け入れることになります。しかし、それは肉体(サルクス)の死でしかありません。霊(プネウマ)は不滅です。しかし死に際してまだ充分に「認識」できていない者はプレーローマへと帰還することができず、物質世界の引力に縛られて再び肉体に閉じこめられてしまいます。つまりグノーシスでは他のキリスト教とは異なり「輪廻転生」をドグマとしています。

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