失われた時を求めて
ここでは生の記憶『アリアドネの神秘』の中では語られなかった愛を象徴する女性たちを見ていきたいと思います。ここではその例として古代ギリシャのエウリピーデスの物語に見ることにします。
エウリピーデスの物語『バッコスの信女』においては、信女たちの醜い男たちに対する強い拒絶の意志がはっきりと示されている。バッコスの信女とは、家を捨て、家事を捨ててディオニュソスを愛する女性たちである。彼女たちは、既成のモラルに安住することなく、生を肯定し、新しい価値観をもとめて創造していく者たち・・・ディオニュソスを通じて彼女たちは、それまで押さえつけていた生命の流れを解き放つ。
それゆえ、彼女たちの胸に宿る愛の精神こそは、醜い男たちの衝動的な欲望ほど無縁なものは他にない。松明や蛇とともに壺絵に描かれた彼女たちは醜い男たちをきっぱりとはねつける。
彼女たちは衣装の下に蛇を身に巻きつけて、眠っているときにも、無防備でいる際にも醜い男たちの欲望から身を護っていたという。彼女たちの愛はもっとも崇高なのである。彼女たちは次のようにわれわれに語っている。
「もし私たちが愛の中に生の創造の神秘を見ないのなら、わたしたちは何一つ理解していないであろう。自分のちっぽけな妄想に自己満足し、興奮している男など、偏狭で卑屈な精神の持ち主なのだ。そんな男など私たちの怒りにふれて滅び去るがよい。なぜなら、彼らは快楽にふけることによって自己を超える無限のものを侮辱したからだ。」
愛とは、生の起源ないし隠された大いなる神秘。名状しがたくほとんど共有できない神秘。もっと美しいもの、もっとも崇高なものであり、わたしたちはそこに閃光、まばゆさ、めまいといった何ものかを見ること・・・。
それゆえ、この崇高なもののうちで愛を体験したひとは、自分が不滅であり、永遠に救われていることを知る。この者にとって、不安はもはや意味をもたず、永遠の生命を授かるのです。
バッコスの信女たちと同じく、アリアドネもまた永遠の生命をもとめディオニュソスを探し求めた・・・。
ディオニュソスを探すアリアドネ。身も心もバラバラにされた自分の恋人を探し求めるアリアドネ。彼を一途に追い求めるアリアドネの愛だけが、ディオニュソスの魂を復活させることができる。なぜなら、ディオニュソスはアリアドネの分身であるから。生とはもとは一つであるから・・・・・
――悲しみの中、アリアドネは引き裂かれた王ディオニュソスに向けて自らの想いを語りだす。
「ディオニュソスよ。おまえは自分が光り輝いていると信じていた。だが、醜い男どもはおまえに嫉妬し、それゆえお前を引き裂き殺害した。ずたずたに切り裂かれた者よ。わが恋人よ。わたしはふたたび夜となり、あらゆる不幸と狂気の苦しみをおまえと共に味わうだろう。わたしはアリアドネ。わたしは女。わたしはおまえにふたたびめぐり会い、おまえを無傷のものにもどし、おまえに大いなる神秘を与えよう。」
ディオニュソスとアリアドネが出会うとき、彼らはあまりに多くのことを知っているために互いに話しかけようとはしない。彼らは互いに沈黙しあい、微笑みかけることで自分を表す。
ディオニュソスとアリアドネは互いに瞳を見つめあう。それぞれの瞳の奥にすまう生の女神をみながら・・・。いかなる否定といえどもそれを汚すことはできない。存在の永遠の肯定。生の永遠の肯定。それがディオニュソスとアリアドネの愛のかたち、永遠の詩・・・
やっと会えたふたり
ふたつのかけらがめぐりあい
この世界を愛しつづける
あなたの瞳がわたしをみつめる
永遠の時間
これがわたしたちの時間
新たな生のはじまり
胸の鼓動も口づけも
愛は贈り物
すぎゆく歳月とともに
わたしたちの愛を育んでいこう
あなたの澄んだ瞳とともに
あなたの目をみながら
わたしは運命を感じる
あなたとわたしの運命を
この地上でわたしたちが手にしたもの
その価値を計るなんてできないわ
いつまでも忘れないで
愛とは贈り物だということを
聖なる贈り物であるということを
また生の女神は、ディオニュソスに向かって生のインスピレーションを送る・・・・・
生が雲のように わたしの頭上をただよっている
それは不可視の稲妻をもってわたしを射ぬく
幅広いゆるやかな階段をのぼり
それはわたしに向かってくる
来よ 愛するものよ
悲しみに満ちた澄んだ瞳から
その者はわたしをみつめている
あいらしい、いじわるの、おとめのまなざし・・・
おとめはわたしの幸福の根拠をおしはかった
おとめはわたしをおしはかった――はあ!何を考え出すことやら?――
真紅の色した一匹の竜が
おとめのまなざしのそこにうかがっている
――しずかに、わたしの女神が語りだす・・・
いたましい デイオニュソスよ
おまえはまるで金を飲み込んだ男のようだ
おまえの腹を切り裂きたくなる・・・
ゆたかすぎるのだ おまえ
多くの者はおまえによって貧しくされる
このわたくし自身さえ おまえの光は影を投げる
去れ ディオニュソスよ おまえの太陽から去れ
おまえは贈ろうとする
自分の過剰を贈ってしまおうとする
だがおまえ自身はもっとも過剰な存在だ
賢くあれ 富めるものよ
まずおまえ自身を贈り委ねるのだ
おまえは自分を捧げる
おまえの富がおまえを悩ます
おまえは自分を放棄する
おまえは自分を惜しまぬ、自分を愛さぬ
大いなる苦悩が日夜おまえを強いる
みちあふれた穀倉の苦悩 みちあふれた心臓の苦悩が
愛されたいと思うのであれば
人が愛するのは悩みに耐えるものだけだ
ひとはただ飢える者のみに愛をあたえる
まずおまえ自身を与えゆだねよ ディオニュソス
わたしはおまえの女神だ
このように生の女神は愛するものに向かって生の真実を語った・・・・・
祈りの歌
人はみな
自らの内に深淵を抱く
沈黙の深淵
静謐な光の園
過去と未来の無限の記憶を魂は生きる
この深く刻まれた
光の記憶を呼び出すことにより
道は開かれる
探しはじめよう
祈りとともに
悲しみのきわみに
苦しみのきわみに
射す光を
永遠の命の光を
あとがき
私たちは永いあいだ闇を光にかえるために転生を繰りかえしてきました。それは私たちの生命の歴史だけでなく、宇宙の誕生の瞬間にまで溯ることができます。
なぜなら宇宙の原初の閃光と共に、光と闇の相克の歴史、光と物質の歴史は始まっているからです。
「物質が光りになろうとする努力、それが魂である」という言葉がそのことを示唆していると思います。
そういう意味で、私たちはその生において宇宙の創造の瞬間以来の魂の記憶を宿しているといえます。
生は永遠の時の流れの中で、植物、動物、そして人間へと受肉することによって、闇を光に代えようとしてきた。それゆえ、私たちは闇を光に変え、光の子になっていこうとする存在だといえます。
それだけに生は私たち一人ひとりに対して光へといざなうよう呼びかけているのです。生は私たちにこの生の宇宙の呼びかけに応じ、響き合うこと、共鳴しあうことを求めています。
そのことを忘れないでいただきたいと思います。
しかし、私たちはそれぞれ数え切れぬほどの癒されぬ闇を抱えて生きています。
それは人間の闇、社会の闇、生きることへの闇とさまざまです。
そのため私たちは、その魂の記憶、生の記憶を忘却し、混沌とした闇の中で日々の生活を生きているといえます。
それを克服するために、私たちはひとりひとりの闇を辛抱強く見つめ、闇を光へと変えていく必要があると思われます。
真理の光ではなく暗闇(欲望)を愛することは、たとえその低劣さのうちで自己満足にふけろうとも、人間の神的な本性にとっては罪であり、生を転落させる当のものであるから。
自己の生を肯定すること・・・・他者を限界づけることによってではなく・・・・・
他者を否定して自己の生が増大すると考えることは、生の原理からすれば浅薄なもの・・・・・なぜなら、生とはもともと一つのものであるから・・・・・結局のところ、他者の生を否定することは、生の運命的な宿命によって自らの生を損なうことでしかないからです。
そうではなく純粋な愛による肯定を信じていくこと・・・・運命的な愛を信じることです・・・・・
愛への衝動・・・・・愛への喜び・・・・愛の宇宙・・・・・・
これこそが人々の生を肯定し、魂を浄化していくための真のものだと思われます・・・・・・・
このためにも、このディオニュソスとアリアドネの物語を通じて、一人ひとりが自らの眼でその闇を見つめ直し、その真理を見極めながら光にむかって進むことを祈っています。
純粋な愛による肯定・・・・・そこからすべてが始まるよ!!!!!!!!