「…はっ…はっ…はっ…っくっ……はっ……」

 ぼくは急ぐ。

 約束を守るために。

 お父さんとの約束を守るために。

 お父さんとの約束を守るためにッ!





















「良……お父さんなぁ…今度の大会、出場できることに決まったんだ」
「えっ? ほんとなの、お父さん!?」

 ぼくは食事中なのにも関わらず、思わず身を乗り出してしまった。

「良、お行儀悪いからちゃんと座りなさい」
「ねぇねぇいつなの? お父さんの闘う日は?」

 予想通りのお母さんの言葉に、ぼくはちゃんと座り直しながらお父さんに聞いた。
 お母さんはちょっと困った表情だけど、お母さんもこの話に興味があるようで、特に何も言ってこなかった。

「うん……今週の木曜日にな」
「へぇ〜、ぼく見に行きたいなぁ。でも、その日は学校があるんだよなぁ〜」
「それに、チケットが無くちゃ入れないのよ?」
「う〜ん…」

 お母さんが、ぼくの希望を全部ムシリ取るように言う。

「ああ…チケットならあるんだ。……ほら」
「ええっ!? うそぉ!?」

 本当だよって言いながら、お父さんは手に持っている小さな紙をひらひらとさせている。
 ぼくは、興奮のあまりまた身を乗り出したけど、今度はお母さんは何も言ってこなかった。

「チケットだぁ。チケットだぁ。初めて見るよ、チケットって!」
「そうねぇ…私も初めて見るわよ……」

 ぼくとお母さんは、そのチケットを食い入るように見つめている。

 お父さんは、いつも大会に参加しているのに、いままで一回も大会のチケットを持っていたことがなくて、今回も持っていないと思っていたのに。

 今日のお父さんはチケットをその手に持っていた。

「ねえねぇ! なんで今日だけチケット持ってるの?」
「…うん。今回はうまい具合に手に入ったんだ」
「どんなルートから手に入れたの? まさか危ないルートじゃないでしょうね?」

 お母さんが、ぼくにはよくわからない表現を使って、お父さんに質問する。

 危ないルートってなんだろう?

「違う違う。そんなわけないじゃないか。だいたい、俺はそんなルート知らないよ」
「じゃあ、どうして今回だけチケットを持っているのよ?」
「…ああ、今回の対戦相手の気配りでな。家族の方に渡してあげて下さいってさ…」
「へぇ〜。優しい人なのねぇ」

 うんうん。
 ぼくなんて、チケットなんて見たのは今日が初めてなのに、もったいないよ。

「どう? 今回は勝てそうな相手なの?」
「そうだよ! 今度こそ優勝だよお父さん!」
「…………今回は、今までで、一番難しい闘いだ…」

 お父さんは、方を落としながらポツリと言う。

 そ、そんなぁ。
 お父さんはもう何回も出場してるのに、また勝てないなんて…そんなのおかしいよ!

「大丈夫だよお父さんッ! 今までで一番鍛えてたじゃない。絶対に優勝できるよ!」
「そうよ。人は努力した分だけむくわれるものよ。あなたはいつも頑張って努力してるんだから、大丈夫よ」
「…………」

 ぼくらがこんなに励ましても、お父さんは身動き一つしなかった。

 と、

「……く…」
「え?」
「くくくっ……嘘だ」
「え?」

 ぼくとお母さんは、同じ言葉を言った。
 最初がぼくで、二回目がお母さん。

「ははは、嘘だよ。今回はいけそうだぞ。予選通過も大したことなかったしな」
「……全く、変な冗談しないでよ。妙に落ち込んだもんだから、本気で心配したじゃないの」
「すまなかったな」
「やったぁーっ、お父さんもう優勝なんだね?」
「おいおい、早すぎるって。油断は禁物なんだ。甘く見れば見るほど、こっちの方が弱くなるんだからな」

 ぼくは、あっ…っと思い、言い直した。

「じゃあ、お父さんはすぐ負けるんだね」
「子供らしい加減の仕方だな」
「……なに? 加減の仕方って?」
「あなた。今度こそ優勝してよ。もうパート生活はしたくないんだからね」
「ねぇお母さん。子供らしい加減の仕方ってなに?」
「……単純ってことでしょ?」
「単純……そうかぁ……単純………」
「まぁ、とりあえず、今度のは二人で見に来いよ。俺の最高のまわし蹴りで、KOしてやるからさ」
「ねぇねぇ。単純ってなに?」
「そんなこと言って、無理にそんなことしようとして、逆にカウンターとられたりしたらどうするのよ」
「大丈夫だって。早速一回戦目で決めてやるさ」
「ねぇねぇお母さん。単純ってなに?」
「……単細胞って事でしょ?」
「あっ、そうかぁ。単細胞かぁ…………単細胞……」
「まぁ。倒れない程度に、適度に頑張ってよね。そんなことになったら家計が大変なんだからね?」
「わかってるわかってる。……じゃ、メシも食った事だし、風呂でも入ってくるかな…」

ガタッ

「あっ、ぼくも一緒に入る!」
「良は、ご飯ちゃんと食べてからね」

ぱく ぱく ぱく ぱく ぱく ぱく ぱく

ガタッ

「ごひほうはま」

 ぼくは、言葉を出さずに一気に残っているご飯をかき込んで立ち上がった。

「はい。じゃあ、入ってきてもいいわよ。お風呂の中で口もの出したりしちゃダメよー」
「ふぁ〜い……」

 ぼくは、自分の部屋に戻ってバスタオルを取り、お風呂場に行く最中に、口の中のものを全部飲み込むと、5秒のうちに服を脱ぎ捨て、速攻でお風呂場のドアを開けた。

ガラッ!

 そしてそのまま、涌いているお風呂に飛び込む。

ドッボーン!

「ぷはーっ……あ、あれ?」

 ここでぼくは、お風呂場にお父さんがいないことに気づいた。

「おっ、早いな。トイレ行ってる間に入ったんだな? よっこらしょっと…」

 と、お父さんは脱衣所で服を脱ぎ、全部脱ぎ終わると湯船の中に浸かった。

グゥーーーン

 お父さんがお風呂に入ると、どんどんお湯の量が増えていく。

「ぶくぶくぶく……」
「なにやってんだよ」
「ぷはーっ!……お父さん、単細胞って何?」

 お父さんの入ったせいで増えたお湯に抵抗して、そのままでいたらお湯が口元まで上がってきた。
 苦しいので、やっぱり抵抗しないことにした。

「単細胞……バカってことだろ?」
「バカ?……ああそうかぁ……ばか……バカ!?」
「まぁまぁ、怒るな怒るな。母さんだって冗談で言ったに決まってるんだから」

 お父さんが、ぼくの考えてることを予測したように言ってくる。

 お父さんには残念だけど、ぼくは今、お父さんが大会に優勝するって事で頭が一杯だったので、全然嫌でもなんでもなかった。

「お父さん、優勝できるんだよね?」

「ああ、もちろんだ」

 ぼくは、あらためてお父さんに確認し、ぼくの願い通りの答えを聞くと、嬉しくてたまらなくなり、ここから先の今日のことは、ほとんど憶えていない。
 とにかく、嬉しくて、嬉しくて。

 今日から木曜日の間は、ずっと大会のことを考えていた。

 お父さんは、空手をやっていて、すごく強い。
 ここの近所で、毎年恒例の大きな闘いの大会があるらしくて、お父さんは、毎年その大会に出場している。

 だけど、今まで何年も出場しても、一回も優勝したことはなかった。
 準優勝なら何回かあるんだけど、優勝は一度もしたことはなかったままだった。

 お父さんは、毎年この時期になると、あんまりぼくとお母さんとは話さなくなる。
 お母さんになんでかを聞いたら、お父さんは緊張しているからだと聞いた。
 緊張しているから、お父さんはこの時期だけ落ち込んだようになるんだって。

 だけど、今年のお父さんは違った。

 この時期になっても全然落ち込まないし、緊張してないみたいって、お母さんも言ってた。
 それどころか、いつもよりよく話すような気もするくらいだ。

 極めつけは、この前の優勝宣言!

 きっと、今年のお父さんは優勝してくれる。
 お父さんは、今週の木曜日に、日本で一番強い空手家になるんだ!









 そして…木曜日………

「はっ…はっ…はっ…っくっ……はっ……」

 ぼくは走っていた。

 学校帰りに走っていた。

 約束を守るために。

 お父さんとの約束を守るために。

 絶対に優勝するって言った、お父さんの試合を見にいくっていう、ぼくとお父さんの約束を守るためにッ。



……そして、ぼくの目の前には、大きな建物があった。









 急いでチケットを取り出して、受け付けの所に行く。

 今は4:58分。

 子供のぼくの力では、ここに来るまでにかなりの時間と体力を費やしてしまっていた。

 お父さんの試合は4:55分からなので、もう始まってしまっている。
 受け付けをすませると、ぼくは疲れている体の全速力で、建物の中を駆け出した。

 途切れ途切れにある看板を、看板に書いてあるぼくには読めない漢字も、なんとなくの雰囲気でとりあえず行ける方へと走る。

"ワァァアァーーッ!!!"

 しばらく走っていると、そんな声がどんどん近づいてきた。

 ぼくは、その方向へ、その方向へと。
 道を間違えるなんて事は、全く頭には浮かばなかった。

 今ぼくの頭にあるのは、お父さんの闘っている姿を見たいという、そのことだけだった。



…………この時のぼくは、本当は、それ以外にも考えていた事があった。
 しかし、焦りと興奮により、そのことはあまりにも小さなことだった。

 一緒にお風呂に入ったあの日、お父さんはこう言っていた。






「…最近はな、あの大会には男女が無差別に闘う事が許されたんだ」

「……なに?」

「男と女が、強ければ関係無く闘えるって事」

「ええ〜っ?」

「お父さんのな、今回の一人目の選手が女の人なんだよ」

「そんなぁ〜。卑怯じゃないの?」

「そんなことじゃあ、今時男女差別で引っかかるぞ?……まぁ、そういうわけで、今回の一人目の相手には絶対勝てるさ」

「難しい言葉使って誤魔化してないかな……?」

「そんなことないって」






 このままだと、お父さんはぼくに回し蹴りを見せることなく勝ってしまう。

 それじゃあダメだよ。

 お父さんは、『ぼく』に『回し蹴り』を『見せて』『くれる』んだから。




ワァァァアァーーーー!!!!!




 さっきより直接耳に聞こえてくる。

 と、前方に光が見えてきた。
 一直線の道を、ぼくは走り抜ける。

 そして……



『ワァアァァアァーーーーーーッッ!!!!!!!』

「お父さーーーーーーーーーーーーーーーーンッッッ!!!!!」

「ハァッ!!」





 同時に、いや、まわりの歓声は、正確には同時にとは言えないけど、ぼくと、誰かの声だけは、確実に、同時に会場に響いていた。

 それから先は、ある理由によって視界がぼやけ、前を見ることができなくなっていた。

 それも、そうなるとほぼ同時に、いきなりぼくの体を掴む誰かの気配を感じ、ぼくは泣き叫んだ。

 この会場の人の助けを呼ぶために、先に向かったお母さんに、ぼくを見つけてもらうために、そして、誰よりも強いはずのお父さんに、ぼくのために回し蹴りを決めてもらうために。




「うわぁぁぁああぁああーーーーー!!!」

 ぼくは、9歳の自分の心が、破裂してしまいそうな悲しい光景を目の当たりにしてしまった。

 目が、その光景を見てはいけないと。
 耳が、その声を聞いてはいけないと。

 言っているようだった。

 だけど、ぼくの手と、足と、口は、いつも以上に動け、動けと、ぼくに命令をしてきているようだった。
 やがて、ぼくには意識がなくなった。











 うっ…ううっ…

 お父さんの回し蹴りは、ぼくに見せることはできなかった。

 今日、ぼくには学校があって、会場までにすごい距離が有ったから。

 ぼくが遅刻したから。

 ぼくの視界がぼやけ、なにも見ることができなかったから。

 係員の人に取り抑えられ、走ってきた通路へと引き戻されていったから。





 お、とうさんの相手が、女のひ、人だったから。

 ぼく、ぼ、ぼくが、道をまちがえて、か、係員の人に、見つかっ、見つかって、ひき戻されて、戻されてしまったから…





 お……っく…おと…さんが回し蹴りを……ぼくにみせ…ら…られなか……たから……っく…

 ぼく…ひっ…く……の知っている……しってる人が…っく……相手……だったから……




『ああ、もちろんだ』




 あの……あの時のお父さんの…よ…ゆうは、全部うそだったんだ…




『今回は、今までで、一番難しい闘いだ……』




 最初に…い…言った言葉………が……本当のことだっ…っく…ひっく……









「ぼ……ぼく…… 自分の涙で…っう…目……目が…めがみえなくなって……」
「…………」
「お…と……さんの首…くびが……お父さんが……回し蹴りを……お父さんの方が……ううっ……お父さんの方が回し蹴りを決められて………う…」
「…………」
「う…ううっ…………うあああぅ……うわぁあぁぁぁーーーっ!」
「………大丈夫よ。お父さんならきっと…ううん、絶対に良くなるから。だから、心配することじゃないのよ…」

 お母さんが、ぼくの頭を撫でてくれる。

 だけど…だけど、お父さんは、さっきから全然目を開けないよ。
 お母さんだって泣いてるのに、ぼくにそんなこと言っても、ダメだよ…

 お…お父さんは…も、もう……………………………












*













「うっ、ううっ……グスグスグス」

「…………」

「さて、ここで問題です。このお話の主人公、良くんのお父さんの対戦相手とは、いったい誰だったでしょーか」

「うっ…ううっ……ひっく」

「…おい」

「1、葵。2、好恵。3、あ・た・し。さぁどーれだっ!?」

「なんでたかがクイズにそんなに設定を濃く付けるんだよっ! あかりが泣いちまってるじゃねぇか!」

「だーって、普通に問題出しただけじゃつまらないじゃないの。それなら、なにかおまけを付けないとね」

「おまけの方が印象強くてどうすんだよ!」

「おまけっていってもねぇ、一応これは事実に基づいたものなのよ? そりゃあ一部は変えてるけどね」

「あたりまえだろ! 勝手に他人の親父さん殺してどうすんだよ」

「もう。文句はいいから、早く答えを言ってよ。言わないならこのまま帰るわよ」

「まて。それはそれではっきりしないから、ちゃんと答えるぞ」

「そう?……で、誰だと思う?」

 たしか、最初の方で、相手からチケットを貰ったって言ってたよな……

「変な風に話を変えてないよな?」

「そんなせこせこなことしないわよ」

 む〜。
 チケットをやる奴……

 まず、一番確率があるのは、俺の目の前にいるこいつだな。
 普通のやつなら、そんなにチケットを簡単にあげるはずがない。
 しかも二枚だ。
 よって、財力のあるこいつの確率が最も高いと思われる。

…と、ここで簡単に判断に走ってはダメだ。

 もし相手がこいつだったとしたら、いくらなんでも量の家族の誰か一人は気づいただろう。

……あ、でも、最後の方で見たことのある女だって、良が言ってたしな。

 あ〜わかんねーーー!

「ほら〜、決まった〜?」

 こうなりゃいちかばちかだ。

「おう、言ってやるぜ!」

「へぇ、で、誰?」

「へっ、どうせ三分の一。相手は坂下だ!」

「あら。なんで好恵だと思うの?」

「実はチケットをあげられるほど金持ってるかもしれないし、実は俺の知らない所で知名度があるかも知れないからだ!」

「ブッブーー! 違いまーす」

「なにぃ?……じゃあお前だ!」

「あはは。それもはずれよ」

「くそぉ……」

「浩之ったら、もっと考えなさいよ〜。あの大会はエクストリームなのよ? 好恵が出てるわけないじゃないの」

「くぅ…」

「あたしはその日はシードでお休みだったのよ。……で、もちろん答えは葵よ」

「な、なんでなんだぁ〜」

「まず、チケットに目を付けたみたいだけど、あれは全く関係ないわ。だって、あれはあたしが葵にあげたものを、葵が良くんのお父さんに渡したんだもの」

「そんなのわかるかよっ!」

「もう一つ。有名だって線で考えたようだけど、それはおしいわね。実は、苓くんのお父さんは葵の通ってた空手の道場の生徒なのよ」

「なんなんだよ……それはぁ……」

「多分、お父さんを一回くらいは見に来たことがあって、その時に葵の凄さを知ったんでしょ。道場では有名だったからねぇあの娘」

「…………」

「というわけで、葵なわけよ。あらら、なんか納得できないような顔ね。ま、クイズなんて楽しめればいいのよ。元々娯楽なんだしね。ちなみに、良くんの家でのことは勝手に推測させてもらったから。じゃ、あたしはそろそろ帰るわね」

スタスタスタ

 綾香は、自分の思ってる事をぶちまけると、そのままスタスタと帰っていった。

 まったく。
 久しぶりに下校中に会って、クイズしてあげるなんていうから聞いてやったのに。
 こっちは楽しめなかったっつーの!

「おい、あかり。泣いてないでさっさと帰ろうぜ?」

「う…うん……」

 まだなかなか泣き止めないあかりを慰めながら、俺は、いや、俺たちは家に帰った。

 今日は、とんだ災難だった。





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