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喜世乃のこと 投稿者:ききの母
2001/03/16(Fri) 19:14 No.1551 [返信]
昭和60年3月6日生まれ 16歳・・・・・
ただこれからは 年をとらないので永遠に16歳のままですが・・・。
本名は「喜世乃」と申します。
世の中の人が喜ぶようなことができる人になるように・・・と
名付けた名前でした。
このホームページでみなさんが「きき」のこと思い出してくださったこと
本当に有難う存じました。いまごろ向こうで娘も喜んでいることと
思います。
ただ 皆さんにお誉めいただくと 何やら面映い気がいたします。
確かに病気がわかってからの「きき」の頑張りは そばで見ていて辛くなるほど
素晴らしいものでした。
でも、それまでの「きき」は どこにでもいるような普通の15歳の娘だったのです。
お友達とおしゃべりしたり遊んだり、姉妹で喧嘩をしたりじゃれあったり、
物を捨てる事ができなくて自分の部屋はいつもごちゃごちゃで、いつも
「アレどこにいったのかなーー」と言って探し回ってますます部屋はちらかって・・・。
忘れ物をしては途中で家に飛んで帰ってくることも数知れず。
お菓子が好きでテレビが好きで・・・。
いつの時でも まるで子犬のような娘でした。
こちらのホームページにもよくお邪魔して、年少であることも顧みず気ままに振舞わせていただいたのも みなさんが温かく迎え入れてくださったからこそと、みなさんに改めて御礼申し上げたくてまいりました。
ほんとうに有難うございました。苦しい中、こちらでみなさんに元気を戴いて、だからこそ頑張る事ができたのだと存じます。
そして 私共も最後まで平和で穏やかな毎日を送ることができました。
わたくしも「きき」に会いたくなりましたらときどきこちらにお邪魔しに参りますのでどうぞよろしくお願い致します。
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喜世乃のこと 投稿者:ききの母
2001/03/16(Fri) 19:14 No.1551 [返信]
昨夜はこのホームページの隅から隅までゆっくり
見てみました。ゲストブック、日記、ひとりごと。
リンクをたどり みなさんのホームページを訪れ、
そこかしこで「きき」に会うことができました。
そこにいたのは ちょっとオッチョコチョイで元気
いっぱいの いつもの愉快な娘でした。
それもみなさんが喜世乃のことを温かく受け入れて
いて下さったからこそと 改めて感謝申し上げる
次第です。
と同時に、最近の日記や独り事の中には 私共には
決して見せようとしなかった心の中の不安やあせり
が書かれておりました。
今更ながら 喜世乃がたった一人で抱えていた物の
大きさと重さを想うと 胸を突かれるようです。
はじめのころは 私共にも平静を装っている娘に、
なぜ苦しみを一緒に分かち合おうとしてくれないの
かと 寂しさすら感じることもございました。
でもそれは娘の私共に対する思いやりと、気を
張り詰めていなければ 到底病と戦うことはでき
ない・・・という壮絶な覚悟の結果なのだ、という
ことに思いが至りました。
そしてそのことが 私共に最後まで平和で穏やかな
日々を与えてくれていたのでした。
日記の中に「法名」はいらない・・・というくだり
がありましたが、娘は「慈光院釈尼喜世」と名付け
られました。
”慈しみの光り溢れる喜びに満ちた世”という意味
で、喜世乃にはピッタリの良い名前をつけて戴けた
と思っております。
思い返せば 喜世乃は最初の入院以来、毎夜 東の
方角に出る月を眺めるのが 日課となっておりました。
新月の夜や 悪天候で月が見えない晩は 「今夜は
月が見えない」と口を尖らせて さも不満そうな顔
をしておりました。お通夜の晩は それは美しい
満月で 娘もさぞかしご満悦だったことでしょう。
そして 喜世乃亡きいま 毎晩東の空の月を見る
のは私の日課となったのです。
そうすることで娘とつながっていられる・・・・
そんな気がしているのです。
また長々と書いてしまいました。
こうして いつも娘が座っていた場所で 同じ様に
パソコンに向かっていると 隣に喜世乃がいるよう
な錯覚におちいります。
どうかもうしばらく母の繰り言にお付き合いいただ
けないでしょうか?![]()
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「きき」のことでお知らせすることがあります 投稿者:ききの母
2001/03/16(Fri) 08:34 No.1537 [返信]
「きき」こと娘の喜世乃は去る3月8日未明 他界致しました。
昨年6月末、めずらしく発熱し それが長引いたため受けた
血液検査で異常が発見され 精密検査の結果
骨髄異形成症候群と診断されました。
本人もその折り告知を受けており 根治を信じて治療を
続けてまいりましたが 骨髄不全のため 16歳の誕生日を迎えた
ばかりの短い生涯を終えました。
この骨髄異形成症候群という病気は 「症候群」と言うその名の示す通り
症状や進行は人それぞれで 娘は自覚症状もあまりなく 上記のように
偶然発見されるまで気づいてやれなかったことが 悔やまれてなりません。
非常に大きなリスクを伴う「骨髄移植」が根治の唯一の方法でしたが
あいにく私共家族は誰も白血球の型が一致しなかったためドナーには
なれませんでしたので、骨髄バンクに登録し 適合するドナーが
現れるのを待っておりました。
中には10年を経過してもあまり進行しないという症例もあったと
いう事で、娘もそのようであれと願っておりました。その間には
ドナーがみつかるかもしれない、有効な治療法が発見されるかもしれない、
・・・・それに望みを託しておりましたが あまりにも早い死の訪れに
私共家族も今だに なにか夢でも見ているような心地がしております。
これは最初娘が入院した数日後にわかったことなのですが、娘は
精密検査(骨髄穿刺)の話を聞いた日、インターネットでそれに関する
項目を検索しており、パソコンにはそれに関する多くの履歴が残されて
おりました。それらの記述の中には 生存期間について記されたものも
もちろんありましたが、告知を受けたときの娘は まるで覚悟ができて
いたかのようにそれは静かでございました。あまりに静かであったため
むしろ私共は何か不安を感じたぐらいでございました。しかし
退院後も普段と変わらず元気で愉快な娘を見ておりましたら、貧血気味で
顔色がすぐれないことを除けば、病気のことは間違いではなかったかと
思うほどでございました。
それから亡くなりますまで 病気になったことも 検査や治療で
どんなにつらい時でも、人に当たったり投げやりになったりすることは
ただの一度もなく、我が子ながら まだ幼さの残る娘のどこにこのような
強さが秘められているのかと 驚くばかりでございました。
本当に強くて優しい娘でございました。
今、何が辛いといって、もう喜世乃に何もしてやる事ができないのが
悲しくてなりません。
娘が亡くなってしばらく、喜世乃を思い出させるものは 見るもの
聞くものすべてがつらいばかりで 毎日を小さくなってしまった
娘の前で ただぼんやりしておりましたが、葬儀から3日ほどたった夜、
夢を見ました。
夢の中の喜世乃は ただ黙ってこちらを見ていたのですが、それは
さびしそうな顔をしていたのです。
そうです。わたくしがしっかり覚えていてやらなくて誰があの愛らしい
娘のことを覚えていてくれるのでしょう。
それから毎日、小、中、高校と 喜世乃が通った道を辿り、喜世乃と
親しくしてくださったお友達や先生にお会いし、喜世乃をさがして
まいりました。そして久しぶりに入った喜世乃の部屋で 娘が
幼稚園の頃から「宝箱」と呼んでいたクッキーの缶から 私共家族の
一人一人や、お友達に宛てた手紙が見つかりました。
わたくし達への手紙は残された者へのいたわりが溢れておりました。
日付がなかったので いつ頃書かれたものかはわかりませんが
昨年10月突然高熱をだし、一時危険な状態に陥ったことから
万が一のことがあった時のために 書かれたもののようです。
と言って、けっして諦めていたわけではなく、手紙の末尾は
「最後の最後まで希望を捨てない」と結ばれておりました。
そしてここのアドレスも記されておりましたので 最後に
ここにいる娘に会いにまいりました。
皆様には、娘となかよくして下さいまして まことに有難う
存知ました。喜世乃に代わりまして 厚く御礼申し上げます。
これからすこし娘のことについてここでおはなしさせていただきたいと
存じます。![]()
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