神様との出会い(証し)
初めて神様の存在を意識し始めたのは、我が子の思いもよらぬ病気が発見されて、先のない命と宣告された頃でした。かなり難しい病で繰り返す手術、見えない未来、話したがらない主治医・・・何を調べても悪い結論しか載ってない医学書・・精根尽きはてそれでも笑顔の我が子が不憫で何で、私にと落ち込んでいた時、やはり同じ立場の友達が(クリスチャンではありませんでしたが)聖書にこんな言葉があるんだって御言葉をひとつ教えてくれました。
「神様は、あなたに越えられない試練は、与えない必ず越えられる・・・」らしいからお互い頑張ろうって話してくれました。
コリント人への第一の手紙 / 10章 13節
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 後に この御言葉である事を知るのに 約6年もの歳月が必要でした。そして彼女は、もうひとつ素敵な本も教えてくれました。星野富弘さんです、クリスチャンで口に絵筆をくわえ絵と詩を書く人です。その人は、事故で首から下が動かない方でしたがその詩には、普段私が見落としている、とても素敵な心洗われる毎日との感謝が書かれていました。感謝・・・自分は動かぬ身体でなんで感謝なんて出来るの?クリスチャンって変なの・・くらいに思いながら次第に神様っているのかな〜って思うようになっていきました。でも・・現実は厳しい、子供の病状は悪化するばかり、暗中模索する中前の越えられる試練と言う言葉のみに安らぎを憶え頑張れている自分に困惑しながらも富弘さんの詩に怖い神様ではない事を知らされつつでも遠巻きに眺めていたような自分でした。だって・・頑張ってたから認めてもらいたい気持ちが強くて神様を受け入れるなんてとてもとても・・随分疲れる生き方していました当時は・・・笑 しばらくして賭けに賭けた最後の手術で子供の病状が信じられないほどよくなり通院は免れなくとも普通の子供と変わらぬ生活を与えられ、安堵しそんな出会いがあったこともさえも忘れてしまっていました。でも富弘さんの本だけは、出る新刊、全部何度も何度も読んでいましたが・・病気はもっていても今日明日死の淵にまでは行かないと医師より言われていたから安心して毎日を送っていました。何度か教会と言うところには通ってみましたが・・気位の高さと弱い者には厳しい世界なんだとの思いだけ残しいつしか行かなくなっていました。私の中では、クリスチャンといえばマザーテレサや遠藤周作さん・・身近に感じる富弘さんみたいな方々でそんな人ばかりだと思っていたし、自分の時間を犠牲にして私は教会の為に果ては世の人の為に良い行いをいっぱいしていますって人が結構はばを効かせている教会だったので行かなくなっていました。世の中には、クリスチャンでなくとも本当に心優しき人がたくさんいてそんな人とたくさん出会っていましたから・・別にいいか〜〜って私の求めるものはないように思えて・・
マタイによる福音書 / 9章 11〜12
パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。」
(先生はイエスキリストの事、病人はクリスチャンの事・・その頃は知らなかった・・)
でもそんな毎日をいっぺんする事がやはり子供の病気からはじまりました。 子供の病気が急変したのです。悲しくてしょうがなかった。前より深い悲しみで打ちひしがれてしまった。再手術????前にもまして難しそう・・自然に祈っていました。富弘さんが信じている神様助けてくださいって・・不思議な事が起こりました。昼間何気ない時間にふっと最初で最後の大きな賭けの手術の時まで意識が戻されその時は必死でみえてなかった たくさんの人や神様にしか出来ないと思える事が見えてきて自然に感謝していました。あの時こんなたくさんの感謝があったんだ〜神様がきづかせてくれた!一番苦しいこの時に、ああ・・うれしい、神様に背を向けているのは私なのに背中からあたたかく見守っている神様を感じて洗礼を受ける決心がつきました。私にとってクリスチャンになる事はいい人になる事でも何かの行いをすることでもなく ただひたすら感謝の世界に入っていきたかった。それが一番必要だと思いました。そしてあれだけ驚かせた急変もその事があって嘘の様におさまってしまって・・心からの感謝を神様に祈れるようになっていきました。でも・・洗礼となると主人の猛反対をうけなかなか受けさせてはもらえず辛い一年がすぎていきました。洗礼を希望していた教会は、主人の許可をもらえない人には受けさせてくれなかった・・そんな私を息子の英語の先生をしていたドイツ人の宣教師の方が観ていて不憫に思ったのでしょう、「新しい教会を立て上げるんですがそこの最初の受洗者になりませんか?前の教会の牧師には、私が話してあげましょう」と言ってくれて主人に反対されていも許可などいらない、洗礼をまず受けて祈っていった方が良いと言ってくださいました。
もう半分諦めていた洗礼を1993年12月19日に無事受ける事が出来ました。
マタイによる福音書 / 5章 3〜12
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。 この聖書の言葉の中の悲しんでいる人は幸いです・・祈って慰めって来るんだ〜って本気で思えた。嬉しかったですとっても・・
そして一番嬉しかった聖書の言葉は・・
ヨハネによる福音書 / 9章 2〜3
弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
子供の病気でそれも訳のわからない病気となると世間では一番先にその母親が叩かれます。因果応報がまかり通るこの世で「あなたの血筋!」とか「それまでの行い」とか、はたまた、「社会に対し生産性のない者を生んだ悪い母親」とまで言われる、私も例外なく言われてまたその事で傷つき いこじになっていました、でもでもこの言葉で救われた大事な御言葉・・罪じゃない・・・って主は言われる。そして神の栄光があらわされるためとまで・・生き返りました私の悲しんでいた心がたくさんの御言葉で潤っていきました。あれから、約8年・・何度も教会に行けなくなりましたが。そのたび神様の呼びかけに礼拝だけは、行っています。そして日に日に素直にされ祈りと感謝を学ばされていく私とそれを許そうとしてくれない主人との葛藤は続いていますがそれでも今回これを出していく事が今の私にとって一番いいことと思わされています。このページで洗礼を受けた事がばれて彼の怒りに触れてもきっと神様は守ってくださると確信がもてたので今回大胆にここに証します
感謝を持ってアーメン
クリスチャンは、ミニストリーと言って神様との歩みみたなものを書くんです。
まだまだたくさんあるんですが、ホムペが出来たら書いて増やしていきます。とりあえず証だけ・・