Name:

わか 或いは ワカ (違いに差は無し)
性別:雄 
生まれてこの方二十六年。埼玉千葉東京にまたがる辺境地帯に在住。
よく年配の方に「昔の俳優さんにいたねえ」と言われる。そりゃ若林豪だっての。
本名のワカバヤシツヨシをローマ字にすると長すぎるので、書くのが面倒クセエ。カード決済とか。

Birthday:
一九七五年九月十七日(水)午後四時過ぎ
三二五〇グラムの男児として東京都葛飾区の病院にて生を受ける。

【参考】この日に生まれた有名人:
正岡子規(俳人)、金丸信(政治家)、ちあきなおみ(歌手)、橋爪功(俳優)など。インパクト薄し。
ちなみにF1ドライバーのファン・モントーヤ(ウィリアムズ・BMW)は九月二十日生まれの三日違い。
一九七五年生まれは世界中でがんばっております。

Occupation:
某遊技機械系メーカーに勤務。
主にキャラクターグッズの企画、開発、営業、雑用全般、宴会理事、サル回し狂言などに従事。

Likes:
食いもん:
カリー、ラーメン、居酒屋、蕎麦等、
安くて旨くポリシーのある庶民系食物、またはそんな店をこよなく愛し、何でも食す。飯残さない派。
「食うことは文化である」という信念を勝手にもっている。

好きな酒のタイプ:
心持ち濃い目のウーロンハイ(何杯でもイケてしまう)。
日本酒(純米・吟醸○、本醸造×)。またそれ以外も酒全般を愛す。最近は芋焼酎の生にハマリ気味。
ちなみに銘柄まで詳しくは知らんが、「田酒」は好きだ。あと薩摩焼酎の「島美人」は美味い。芋は美味い。臭いが美味い。

主に好きなラーメン屋のタイプ:
ラーメン二郎(三田本店)、ラーメン生郎(元ラーメン二郎吉祥寺店)、弁慶(浅草)、一番(練馬小竹町)、貴生(松戸)、一蘭(博多)等
緊張感が程よくあり、「オラ!今からオマエを喰ってやる!」と気合いが入り、店内は自然と戦闘体勢。
それに必然と呼応し、ギラつかせるような主人の眼差しと存在感の在るような店がよい。ラーメンは戦闘である。
最近、美味くても、見渡せばカップルだらけで会話ギッシリ麺ノビノビの、かったるくナメタ店が多くて実に不愉快。
が、実は上記の店にもチラホラとそんな光景を目にする機会が増えた。全くもって残念でならない。いいから、黙って喰え!!

主に好きなカリー屋:
メーヤウ(早稲田)、エチオピア(御茶ノ水)、まめ蔵(吉祥寺)、
武蔵野文庫(吉祥寺)は喫茶店だがここのカリーが大好物。ちなみに此方の抹茶ババロアは実にウマイ。辛党でもウマイ。

主に好きな定食屋等:
キッチン南海(早稲田←店主の「熱々首振りクッキング」も見物)、とんかついもや・天丼いもや(水道橋等)、
他お好み焼きだが、れもん屋(飯田橋)も好い。しかし広島風だけあって店内はカープだらけ。しかし津田恒美もあって安堵。
他、板橋区南常盤台に在る肉屋(名前忘れた)の焼き鳥は一本20円からあって味もよく、コレも好きだった。

思い出深い居酒屋、忘れ難い居酒屋:
串鉄(飯田橋)、汁べゑ(吉祥寺)、いせや(吉祥寺)、丸八(高田馬場)、和酢(下北沢)
清龍(高田馬場)はどうしようもなく不味い店だが、どうしてもあそこだけは忘れられない。
カンボジア人(実は国籍不特定。あくまで推測)の店員は今でも元気だろうか。まだポッキーがお通しになっているのだろうか。

自己を形成する上での影響を及ぼしたアーティスト:
イースタンユース。
長渕剛。
ザ・ブルーハーツ。
これら3アーティストは自分の中で最も影響を受けた人々。
私にとっては、他にも沢山の素晴らしいアーティスト達は存在するが、3つ挙げるとしたら、迷わず彼等。

スポーツ 見るやる何でも:
野球と東京読売巨人軍。でも、原カントク好きじゃないのよね。現役の頃から。なんか胡散臭い。
ゴルフ。見るよりやる方。しかし、最近は酷いスランプでヤル気ダウン。
他、ラグビー、F1などなどスポーツ全般はよく見る。最近、相撲がどうしようもなくツマラン。

本:
歴史探求系(山岡荘八、司馬遼太郎、池波正太郎ほか。三国志も)。
手塚治虫とその著作。
宮本輝とその著作。
椎名誠とその著作。
他、坂口安吾、三島由紀夫、花村萬月等。
ブンガク系読み物は気が付けば漁るときがあるが、最近ちょっと遠ざかり気味。

ここ数年でののヒット漫画:
「行け!稲中卓球部(古谷実)」「サラリーマン金太郎(本宮ひろ志)」「バガボンド(井上雄彦)」
「MONSTER(浦沢直樹)」「20世紀少年(浦沢直樹)」
マイナー系は知りません。そこまで読めてない。つか、つい最近「スピリッツ」9年間の愛読歴にピリオド打った。

好きなTVゲーム:
ドラゴンクエスト全部、グランツーリスモ(車をここまで表現したから)、バイオハザードシリーズ(ようやるわ)など
それ以外ではファミコン。
「1942」「エキサイトバイク」「マッピー」「ラリーX」「グロブダー」「ゼビウス」「ロードランナー」等は未だに名作と思う。
他では「スペランカー」の直ぐ死ぬ主人公だとか、「バンゲリングベイ」のいつ始まっていつ終わるか解らないあの緊張感とか。
それにしても、そろそろPS2は買っておこうかな。DVDも見れるし、無性にゲームやりたくなってきた。

あと、最近は仕事の関わり上パチスロ(パチンコは面白くなくなった)。ハマリには気をつけよう。

Dislikes:
兵役のような労働、ワイドショー的やじ馬根性、デヴィ夫人(資源の無駄。見てて気持ち悪くなる)、
くさや(ウンコである)、多種雑多なポリシー無き化粧的音楽のクソダメども。その他理不尽極まりないモノ、コト全般。

Cigarette:
キャビン、マイルドセブン、ピース、ハイライト、ホープ等を経てその後はセブンスター約7年。
重タール一筋。ジッポもセブンスター限定モデルを愛用・・・
だったんだけど、今は某爆裂スロット機種刻印の入ったジッポライターを使用。

The Things to Do Right Now:
ダイエット。将来に向けてのヨメサン探し(虚か誠か)。

The Purpose to Build This Site:
様々な価値観の交流という名に基づき、暇つぶしの手段として立ち上げたらもうこんななってしまっておる。
結局ただズラズラと駄文を並べてるだけなのは変わり無し。まじで

The Origin to Have This Site's Name:
自分の好きなeastern youthというバンドの曲名をそのまま使わせて頂きました。
もう一ついうと、自分の性格の様を表してもいるとも思っている。「ドコフキズム」なり。英語だと「WHITHER THE WIND BLOWS」。

My Caracter in Detail:
こちらでも見てください。単純馬鹿なり。あと、百条尋問は消した。時宜に合わなくなったから。またそのうち。


とりあえずこれ以上見たくない人はお戻りください。というか、戻ってくれ。 


(特定の固有名以外の人物等は仮名である)
(特定の固有名以外の人物等は仮名である)

【註】 思い出しながら書いている。
    従って、急に更新される可能性が高いのでこまめに閲覧されたい。
    ・・・いや、しなくて良い。また、自分に都合が悪くないように書いているので、
    仮に真実を知っている者がいるとしても反論は原則的に受け付けない。
第一部 幼少期 |  第二部 思春期  |  第三部 青年期(永遠の建設中)


 第一部 幼少期 (誕生〜小学生時代)

年月 出来事
1975年
家族計画に基づき、長男として生誕(上記のとおり)。うるさい泣き声で親も病院もいい迷惑だったらしい。
生誕後わずか数ヶ月で味っ気のない離乳食を嫌い、シチュー等味のある食事を好む。この頃から既に美食的センスを身に付ける。
1977〜1979年頃 先天的な活発さと天真爛漫さで近所で名を轟かす。しかし、ケンカには弱く直ぐに泣いて家に帰るなど、平和主義者としての性格は、ここから既に形成させることになる。
家の壁にクレヨンで曼荼羅図のような宇宙的落書きをし、美術才能をわずか2歳ですでに発揮。しかし誰もその才能には気付くはずもなくそのまま成長。
会ったこともないオバサンなどに手を振り挨拶するなど、社交家としての才も発揮するが、余りの調子のよさで全くの他人について行き、家から約3km離れた隣町で発見される。両親は警察にこっぴどく叱られるが、おれはパトカーに初めて乗って何処吹く風。現在の犯罪事情ではこんな事件でニュースになるかもしれない。
1980年
Y幼稚園に入園。年中・ふじ組に配属。担任の高松先生にいつも叱られるが、持ち前の柔軟性で直ぐに先生の攻撃パターンを読み切り、何処吹く風的気分で順応。厳しい幼稚園生活での2年の端緒を切る。(因みに年中時代の記憶は余りない。今思えば、先生がダンプ松本に似ていたなあ、と思ったが、その風貌とは逆に意外と優しい先生だったことくらいか。あれから既に21年。彼女は既にオバサン街道まっしぐらか)
年末、御遊戯会・年中部門ふじ組主演男優として「北風小僧の貫太郎」に出演。演技才能を発揮するまでもなく、ただ歌に合わせて踊るだけ。堺正章(マチャアキ)のカラオケ音声だけが舞台に響き渡る・・・。
1981年 年長・もみじ組に進級。担任の鈴木先生によるスパルタ的指導が始まるが、のほほん気分の小生はそれを知る術のなく、鼻くそをほじる。
この頃、給食のグリンピースがどうしても食えず、居残りでグリンピースと格闘の日々を送る。しかし、どう足掻いてもあの碧玉には勝てず、先生のいない隙に「床転がし作戦」と「幼稚園着ポケットに搬送作戦」を敢行。一時的に乗り切るが、直ぐにばれる。因みに生トマトもこの頃は食えなかった。しかし現在では両者とも好物で、今思えば何故食えなかったのか判らん。とにかく有難う鈴木先生!お陰様で今では嫌いな食いもんは殆ど全くないです・・・。
年末恒例の御遊戯会で、今度は「ちび黒サンボ」の父役を熱演(要するに脇役)。ダンボール製のホットケーキを本当に美味しそうに思ったりする。グルメの卦はこの頃から顕在化してきた。
1982年
(小1)
市内のT小学校に入学。初めの頃の給食はサンドイッチなどとても量が少なく、不満分子が爆発しそうになる。
給食がおいしくなり始めたのは1ヶ月後くらいからで、特にマーボ豆腐とカレーがとても旨かった(食い物の話ばかりか?)。
学内写生会にて「ぼくのペット」というテーマで、緑亀にエサをやる自分の姿を描き、特選入賞を果たす。絵はそのまま県の美術展にても特選の評価を得、地域文集の表紙を飾る。因みに飼っていた緑亀は、その後、箱を洗っている最中に逃げ出し、すごくヘコむ。
体育の時間、マット運動がつまらなく、「おもしろくねえ〜」と愚痴っていると、N先生のビンタが飛ぶ。
放課後の鉄棒遊びの成果で、念願の逆上がりができるようになる。
1983年
(小2)
友人宅で初めてファミコンで遊ぶ。「ベースボール」に挑戦するが、ゴム製の四角ボタンがコントローラにめり込み、イライラする。
宿題をやらずに遊びすぎていたため、居残り勉強で漢字書き取り100回の刑を喰らうが、結局校庭でサッカー野球をして遊ぶ。
ドラマ「家族ゲーム」が人気だったが、当時小2の自分には何のことだか理解できず。当然長渕剛を認識すらしていなかった。しかし、今において、「Goodbye青春」は我がカラオケの十八番の一つになっている。
初めて先生(独身のM先生・男)の職員住宅に遊びに行く。部屋はしっちゃかめっちゃかで、強盗に荒らされたような散らかりよう。その中でグンゼの白ブリーフを発見し、級友ともどもネタにする。「先生、俺と同じパンツ〜。きったねー!」
学内写生会にて牛の絵を描く。なぜかアタマやツノではなく、脚ばかり大きく描いてしまいバランスを崩し入賞を逃がす。
1984年
(小3)
幼稚園年長の頃からやっていたスイミングスクールを心半ばで辞める。結果は息継ぎなしのクロールやっていたところで挫折。これ以降、水泳は苦手なままとなる。
進級後、春先直ぐに地元の少年野球チームに入団。初めて出場した試合でのポジションはライト。しかし、この後は体格で判断されキャッチャーに。以来小6の引退までチームの主軸バッターとなる。この頃、同年代の高橋由伸や上原浩治、高橋尚成らも野球を始めている。一体どういう違いでここまで人生が別れたのか・・・。
1985年
(小4)
筑波の科学万博を見に行く。ソニーの馬鹿でかいトリニトロンスクリーンが印象的。コスモ星丸のキーホルダーを買ってもらうが、結局人ごみだらけですぐに飽きる。その後は近所の友達とボードゲーム科学万博ゲームで遊ぶだけに留まる。因みに、漫画「行け!稲中卓球部」で主人公の前野達が遊んでいた日本特急旅行ゲームも持っていて、おれは「グルメの旅コース」をいつも選択していた。
エポック社の原辰徳野球盤を買って貰い夢中になる。インチキフォークとカミソリシュートで三振の山を築く。近所から野球盤マスターと恐れられる。
今までできていた鉄棒の逆上がりができなくなり、へこむ。しかしその後、縄跳びの2重跳びに成功し、逆上がりのトラウマからすぐさま解放される。
学級文集の表紙を依頼される。大きな太陽の絵を描き、皆の心に夢を与える。
学研漫画「ひみつシリーズ」を読破する。図書室にあった小学館の「日本の歴史」全20巻も読破。豊臣秀吉の顔がブサイクだったことを知る。思えばここから自分の歴史好きが始まった。
学内写生会にて「香取神社」を描き、県の美術展において特選入賞を果たす。恐ろしく屋根の大きな社であった。が、周囲の樹木等の絵は適当だった。もっと妥協のない姿勢でいれば、今頃は芸大生だったと後悔する。
バレンタインで周囲が熱々チョコレートをもらう中、義理で5円チョコを貰う。その後バレンタインデーが嫌いになる。
休み時間のサッカーのゴール争奪戦をめぐり、5年生と対立。割り込みによる不当なゴール占拠に対し、5年生の担任に猛抗議を行う。結果、見事奪還に成功。
1986年
(小5)
少年野球・高学年チームの5年生だけのチームが編成され、春季大会に出場するが、市内の強豪チームにボコボコにやられ、チームメイト全員で悔し泣きをする。しかし、これをバネに全員猛練習に励むこととなる。
休み時間、トイレで用を足している最中、根元に1本の毛を発見。感激するあまり級友に自慢するが、すでにその頃クラスの1/3に毛が生えていたことが判明。
掃除の時間、雑巾で廊下を拭きながら汚れを落としていると、奇麗になった部分で字が書けることが判り、遊ぶ。クラスの吉田をネタに、廊下に大きく「オナニー吉田」と書いて隣の若い女の先生に激怒される(その頃は大してオナニーの意味が判っていなかった)。
1987年
(小6)
この頃、少年野球の自主トレが盛んになり、毎日夜マラソンに励む。結果この年秋のマラソン大会では120人中12位まで順位を上げる。(前年度の36位から躍進)他にも、具体的な名称は忘れたが、ちびっこマラソン大会等、幾つかの大会にも出場する。
4年生の頃から通っていた公文式の先生にふとし君と呼ばれる。・・・あの、2年も通っているのに名前間違わないで下さい。
学内写生会にて江戸川の土手を描き、またも特選の栄光を手に入れる。が、その表彰の朝礼で体育座りをしている最中に放屁。音がリアルに響き渡り、それまで水を打ったように静かだった体育館のダムは怒涛の爆笑洪水で決壊。穴があったら入りたいという感覚を人生はじめて味わう。まさにガーリックボーイズの「第8回他人の赤っ恥で笑う大会」そのまま再現である。
好きな女の子ができるが、結局「わかは面白いだけ」と告げられ、小学校生活での青春の終わりを悟る。
この頃ではファミコンの遊びが一般的になってきたが、決してうちの親は買ってくれず、友達の家を転々としながらドラクエの世界に静かに嵌りだす。卒業文集に添える絵もクラスの男子は大体ドラクエIIIのロゴやスライム等が多かった。因みに俺は「スライムつぶり」を描いていた。既にこの頃、ドラクエI・II・IIIを制覇。最も印象に残るモンスターはギガンテス。
そうは言っても遊びの主流はやはり外で野球。まだまだ俺の世代もカツオ的アウトドア派が多い。エガチビ、ナカチビ、M公園等が主戦場であった。M公園には隣区のガキ共もよく来ており、意味もなく対戦。
また、チャリンコで移動しては近くの駄菓子屋等で60円のミリンダを飲み、土曜の昼はヤタベやキクヤでもんじゃ焼き。中にはオプションで10円ラメック(ベビースターもどきの菓子)やチーズ、切りイカ等を入れてもらい200円以内に収めて食うのが通のチョイス。
引退をかけた少年野球秋季大会で今までの雪辱を果たし、ついに市内3位の栄光を勝ち取る。試合後、皆嬉し泣きの男泣き。
ドラマ「親子ジグザグ」に夢中になる。剛を意識しだしたのはこの頃。しかし、音楽的な興味は小学生のこの時分では殆どなかった。伊崎充則君はもうかなり大きくなっているだろうな、今何してんだろ。
初めて手塚治虫の「火の鳥(黎明編)」を読み、底の無い怖さを覚える。夜は意味も無く宇宙について茫然と考え、訳も判らず寝られない日もあったりしたが、その翌日はやっぱり眠くなりぐっすり寝る。しかし、その後も手塚熱は続く。
冬、野球仲間たちが市内のシニアリーグに入団する。迷いに迷った挙句自分も入団を決意。坊主頭が鉄則なので泣く泣く剃髪(その後「太陽拳」「クリリン」「パチンコ玉」等と散々に言われ放題になる)。また、初めての練習では、練習着を持っておらずスウェットの上下で参加し、先輩方に「パジャマ」とあだ名される。思えば俺はあだ名の宝庫のような人間だった。



 第二部 思春期 (中学校〜高校時代)

1988年
(中1)
坊主頭に紺のブレザーというアンバランスな格好で、地元では悪名高いと言われるM中学校に入学。入学式は桜満開の4月なのに何故か大雪が降り積もり、革命児到来を予感させる波乱の日である。教室は5階だったが、現在の様に3階に上る程度で息切れするようなことはなかった。
担任はE先生という、美術の優しくてちょっと天然の入ったユニークなオバサン先生である。当時のドットの荒いワープロで学級便りをよく配っていた。
中1の1学期までは、まだ給食がなく、毎日弁当持参。うちの母は昔から親父の弁当を作っていたので、自分にも同様の焼き魚や煮物の入った弁当を持たされる。今思えば逆にヘルシーで良いのだが、当時、唐揚げやタコウインナーを食べるクラスメイトを見ていると、何だか少し恥かしく思っていたものだ。
成長期に入ったとはいえ、まだこの頃は脇毛はチロチロ生え出したくらい。それなのに、隣の瀬木は身体測定で「気をつけ」の姿勢でいると、既に毛が少なくとも7,8本はみ出していた。ナカナカの猛者である。
爆風スランプの「Runner」がヒット。ベストテン見ながら覚え、遂に親にCDラジカセを買ってもらう。でも、CDを買える程金もなく、カセットテープに録音して聞いて覚える。(爆風、俺の中ではもう「ナツメロ」になっちゃったけどね。アルバム「ハイランダー」の中の「The Blue Bus Blues」って凄い好きだった。今でもカラオケでは歌います)。
M中学校ではあまり勉強熱心な学校でないことに気付きだす。学校というか、生徒そのものが奔放で、ロクに授業を聞いていないのである(そのエピソードは後述参照)。かく云うこの俺も例に違わずであり、野球漬けである。といっても、カツオと中島みたいなバットにグラブを突き刺すスタイルではなく、クラブチームとしてだが。勿論イニシャル入りセーターは着ていないし、半ズボンにカッパ靴でもない。ただパジャマというあだ名があっても・・・。3年生が秋に引退し、この時から初めてバットを握るが、硬式球でバットの根っこに当たるととても痛いことを知る。まだまだ下積みの日々は続く。
この頃からCDラジカセでラジオ番組を聴くようになる。「三宅裕司のヤンパラ」に嵌りまくる。水戸様、やっちゃん、おぼっちゃま。懐かしい・・・。あの不朽の金字塔は今の三宅裕司のベースではなかろうか(三宅裕司といえば、一昨年くらい前に生瀬勝久とやっていた「ワークパラダイス」ってあったね。あれ、面白かったのにな)。しかしこの1年後、ヤンパラは終焉を迎えることになる。念願の「ドカンクイズ」出場の夢は露に消えたのだった。その後は大槻ケンヂのオールナイトニッポンにはまり、いつの間にか筋肉少女帯も聴くようになる(「猫のテブクロ」を借りる)。まだまだラジオライフは高校生活まで続く。
長年お世話になっていた公文式を辞める。最も覚えたことはペン回しだった。
THE BLUE HEARTSに出会う。ハンマーが僕達の頭の上に振り降ろされる。
ドラマ「とんぼ」に嵌る。このとき以来、俺と剛の付き合いは始まった。コツコツとアスファルトに響く足音を踏みしめながら聴きまくることに。
1989年
(中2)
第一部における最も激しかったのがこの年である。クラスの連中はだいたい小学校の仲の良い者同士で形成され、とにかく色んな意味で「強力」の一言に尽きる。それはこの下にも書くが、まず初日のクラス替えにおいて、いきなり先生の話を聞かず、バカ騒ぎ。しょうもないクラスだ。
クラス関係なく、学年中で授業中に水風船投げ合戦が流行する。2年教室廊下は水浸しに。社会科のカバ先生がつるっと滑り、怒る。
クラスの無学な女が社会・歴史の教科書で「信長」と読むところを、「シンチョー??」と読み、顰蹙を買う。つくづくレベルの低い学校だ。だが、そんなバカ学校でも面白いものだった。バカすぎて。
授業があまりにうるさく、誰も話を聞かないので、大学出たての数学の先生、こんちゃんが泣き顔になり、職員室に逃走。誰も迎えに行かず。かわいそうに・・・。この頃、金八みてたんだけどな、俺・・・。ニヒリズムしか感じなかったんだよな、当時は。
給食のみかんの余りを、友達に5Fの教室ベランダから落としてもらい、1Fで口でキャッチする芸を磨く。このとき以来、口パク放り込み食べが得意技になる。
毎日休み時間、野球をして遊ぶ。が、余りに夢中になりすぎてチャイムが鳴っても15分は教室に戻らない。問題視した(らしい)教頭のつぼ八が教室に乗り込み激怒。必殺技「地獄の握手」を頂く。しかしその後も改善の傾向は見られず。
結局学校の授業で賄えないと判断した俺は、地元の塾に通うことになる。が、この塾でも阿呆なことばかりやらかすことになる。
林間学校で栃木・那須に行く。同部屋の友人がケツからかなりの異臭を放ち、「アウシュビッツ」の称号が与えられる。また、酒も当然飲んでいないのに部屋は異常なテンション。あっちゃんが「だいちゃ〜ん(クラスの男)」という寝言を口にし、それを聞いた我々は彼をホモ人種にカテゴライズする。また、当時大事にしていた我が初代ウォークマン君も踏まれることに。露天風呂では、あの教頭・つぼ八のケツにでかいホクロを発見する。ちなみに旅行の行程は大して覚えていない。ありきたりすぎて。
成長期でなおかつ食欲の秋、給食サバイバル合戦がピークを迎える。4時限目を終えて食缶が並ぶところ(教室の右フロント)に猛獣と化した男子生徒軍団(俺も含む)が、いつものように殺到。マーボ豆腐という人気メニューのためか、異常にエキサイトし、友人1名がドアを突き破り、腕がガラス窓に突っ込み負傷。当然それでも給食は食べる。サバイバルな秋だ。
初めてCDを買う。買ったのは長渕剛「昭和」であった。今でもよく聴く名盤である。GO STRAIGHT!
塾に通って暫らく経ったある日、先生を待っていた俺と友人は余りにヒマなため、コピー機のガラスに頭を載せ、自分の顔をコピーして遊ぶ。しかし隣で授業をやっていた塾長に見つかり、スリッパ打ち首並びに小学生選抜クラスにて晒し首の憂き目に会う。
この年は書いててキリがない。この辺でやめておく。それでも知りたかったら個人的にメールでも出されたし。
1990年
(中3)
余りに激しいクラスだったためか、3年では完全にバラされ、暫く平穏な日々が続く。担任になったカバ先生(社会科)は字が汚い。
長渕剛、ブルーハーツ、筋少(見た目だけでもなぜこんな不文律が成立するのか判らないが、とにかく当時はこの3つが中心だった)以外の音を探そうとして、プリプリとかBOOWY、Complexとかも聴いたりしたが、ピンと来ず(Xは少しだけ聴いたなぁ、今思えば何でだろう)。あ、リンドバーグ聴いてた(それにしても何のイズムもない聴き方だ)。そんなある日、たまたま聴いていたFMでMETALLICA「BATTERY」を耳にする。あのスピード感とザクザクのギターリフに強い衝撃が走る。しかし、この時バンド名が聞き取れず、実際聴くことになるのは高校になってから。
春、修学旅行で京都に赴く。初めて新幹線に乗る。特に感慨なし。月並みの感想しかないので特別書くこともなし。だが、一応中学校生活での花形行事ということなので一応自分も銀閣寺とか、竜安寺とか、金閣寺とか行ったんだぞ、ということをアピールしておく。しかし、地味ながらも今日との神社仏閣への魅力は今後増していくことになる(が、その後京都に行っても特別訪問していない)。初めて三島由紀夫の「金閣寺」を読む。銀閣寺を建立した足利義政について調べたりする。室町幕府の財政難もさることながら、義政の妻・日野富子の贅沢もあって銀閣の板葺きの壁に銀箔が掛けられなかったことを知る。まだ、青っ洟のチュウボウにとってはこの頃、女の計り知れない湖の底の様な恐ろしさを知る由もなし。
クラスの同級生の男が授業中、空缶の中のシンナーを吸ってラリッている。「嗅ぐ?」と薦められるも、塗料の匂いの何がいいのかさっぱり解からず、むせる。ペンキ屋に就職すればいいのに、と思う。この他、数人の男がラリッていたが、特に危害なし。このうちの一人に数年後街頭で再会するも、前歯無く、痛々しさだけが残る。淡々と見ていたものだが、思えばスゲエ学校だ。
同じく愚連隊ネタをもう一つ。我が母校はブレザーでもあるのに、所謂「タンラン」が流行する。誇らしげにそれを纏うK君の背中の刺繍を見ると「喧嘩の華は恋の華。土曜の夜に咲かせます。哀れ男の悲しき桜を」みたいな謳い文句と般若の顔。単純にこっちが恥かしく思ったものだ。
トイレ放水ブームが起こり、ウンコができなくなる。幸い学校から自宅まで徒歩3分圏内の俺は、昼休みに家に帰りクソをする生活に切り替える。ちなみに「トイレ放水ブーム」とは察しがつくと思われるが、大便用個室に入ったのを目撃されると間髪開けず、誰かがホースによる放水を直ちに行い、脇の数人がデッキブラシを使って上から打突したり、バケツの水を一気に流し込んだりする作業である。これは決して特定の人間を狙う「いじめ」ではなく、基本的に誰彼構わず行われ、愚連隊諸兄が入る時は「オラア、俺ウンコすっから水撒くなよ!」等と注意を触れ込むのである。ある種の健全さが清々しい。しかしそれにても、トイレットペーパーも無いのによくクソしてたな、と思う。また裏技的対抗手段として、職員室前トイレを利用し急場を凌ぐという手もあった。
定期試験での我が担任、社会科・カバ先生の手書き文が汚くて解読するのに困る。途中までワープロで打ってあるのに、大問3あたりから急に手書きになっている。どうやら途中で面倒くさくなったと思われる。当時40過ぎで運動嫌い、面倒臭がり屋の不精者で一日の楽しみが給食というオッサン先生のくせに、女子テニス部の顧問までしている、隙があるのか無いのかよくわからない先生である。
家で初めてアダルトビデオを見る。驚きの連続で、それはまるで「稲中卓球部」の前野達が視聴覚室で見たのと同等な衝撃を受ける。アソコがいかりやのクチビルみたいだったことが異様にショック。確か見たのは当時人気絶頂だった田中露央沙だった。なつかし〜。
恒例の体育祭に向けて、烈しい練習がおこなわれるようになる。当然、健全な我が中学校では授業を潰して練習に勤しむ。授業なら外で遊んでいたほうがいい、という単純な生徒の楽しみである。チーム構成は3学年合同で、大きく3つに分かれる。この年のチーム名はアニメをテーマに「ちびまるこちゃん」「童夢君(懐)」「らんま」の三つ(今思うと、とんでもなく恥ずかしいネーミングだ・笑)。一番の目玉の応援団には、当然の如く快活な愚連隊諸兄は大手を振って「ハイハイ!俺やる!」と次々に立候補。だが、他の一般生徒も決して冷めておらず、思わず自分も応援団入りし「ちびまるこちゃんチーム」旗手を務めることに(笑)。放課後、諸兄と共に熱心に下級生の指導にあたる。当日の応援合戦は最も盛り上がり「ちびまるこちゃんチーム、いくぞー!」と団長が檄を飛ばす(爆)。当日、遂に我がチームはグランプリの栄光を勝ち取る(笑)。愚連隊も皆も手を挙げ大喜び(爆)。おそらく、今の時代にはあまり見られない光景ではないだろうか。
体育祭話は続くが、3年男子はお約束の組体操を披露する。当然授業を潰して練習に心血を注ぐことになるのだが、最も大きく、難しい「3段タワー」の練習においては、一緒に組んでいた同じ一番下段のO君が勢いで体操パンツの横からツチノコ君まで披露してしまい、危うくタワーが崩壊する危機を迎える。
もう打ち止め。いったん思い出すと、なにげにこの年も書くことが多すぎる!さよなら、俺の中学校生活。
1991年
(高1)
都内の私立男子校に入学。高校入試で楽な単願推薦枠をとってしまったので大して何も考えずに入学したものの、思わず舌打ち。全然、面白くない。校庭もコンクリでナナメに50mしかとれないのに、全校生徒が1400人いる蟻塚のような学校だ。入学式が狭いマッチ箱のような体育館で行われるが、唖然。中には男だけ。おまけに教室は暗く湿った日も差さない、隣の民家に挟まれた西側であった。担任は3年間同じ男の社会科のM先生。良い意味でも悪い意味でも熱血指導のラグビー好き(昼間は近くの土手でラガーシャツを着てマラソンするそうだ)。は〜仕方ないとはいえ、妙に息苦しく、悲しい3年間の幕が切って落とされる。
英語の担当の大学出立ての女教師にクラスの男が仕方なく殺到。個人的には大して面白くも無い授業だったので、小テストの名前欄に何故か発作的に「武者ガンダム」と書き、その後の採点で激怒される。怖くもなかったけど。ちなみにこの先生は1年でこの学校から去った。今はいずこへ・・・。
当時、進学校を目指していたこの高校での授業はまるで予備校カブレだったが、生物の老教師(名前も忘れた)はアホ学校時代の名残がかなり散見された。授業中肘をつくと「つっぱるな〜」とお怒りの声を荒げ、チョップで肘を払いのけようとするのである(誰も恐れていなかったが)。ちなみに、授業内容は特に思い出せない。確か「モル」について熱心に説明していたことだけは覚えている。中学まで理科は得意だったのに、この高校に入り理系的授業内容への興味が削ぎ落とされる。まだ生きてるかな?あの先生。
文化祭が行われる。1年は展示しかできない、ということで元々冷め気味のクラスの雰囲気がさらに極寒状態に。クラスで決まったテーマは「戦争と平和」みたいなものだったような気がする。とにかく、文化祭ってこんなに面白くないものなのか、と実感する。
クラスの男にMEGADETH「RUST IN PEACE」を借りて聴く。すぐにメタルにはまった。METTALICAも買い漁るようになる。
数学についても同様で、三角関数辺りから全く解らなくなる。期末テストで7点という栄誉をもらい、追試を受ける。追試でも先生に内容を殆ど教えてもらい、どうにか進級ができた。ちなみに、この年受けさせられた大手予備校の模試で数学の偏差値27という勲章も獲得し、既に私立文系しかない、と悟る。もっと勉強しとけば良かった。
1992年
(高2)
クラス替えが行われ、文系クラスに振り分けられる。苦手な理系科目がなくなり、多少安心する。教室も校庭側になり多少明るさが増すように感じられる。文系科目を少しは存分に勉強できるかな、と気持ちも少しは楽になる。・・・しかし、思えばこの学校ではこういった勉強ネタばっかりだ。それ程面白くなかったということなのだ。この暗澹とした気持ちは大学時代まで鬱積され、爆発させる切欠となるのだが。ただ、まだこの年から随分と過ごしやすくなったという肌的感覚は覚えている。クラスにはちょっと世の中を冷めたような目つきで見る奴も多かったが、前のクラスと違い話すと面白い連中が増えた。自らのブラックジョーク好きもここら辺りから始まる。
この頃から飲み会を頻繁に行うようになる。自分が結構呑める口だと判ったのもこの頃から。確かに合コンでも飲んでばかり。飲んでばかりで出会うチャンスも逃してばかり。そんなある日、男だけでささやかな飲み会が催される。友人Hに飲み比べしよう、と挑戦状を叩きつけられるがチューハイとビールの合計10杯前後でそいつはぶっ倒れ、秋葉原の駅前で色々なものを撒き散らすことに。彼をケアしていると終電も終わり、初めてこの時徹夜飲みを敢行する。「山手線ゲームをやりたいのだが、どんなテーマが面白いか」など、街往く人に聞いてみたり、妙なテンションで秋葉原周辺を闊歩する。この奇妙なテンションは大学時代に再会した時でも度々起こるようになる。今思えば、よく警察に職質受けなかったものだ。
アングラなものだけでなく、少しは日のあたる思い出を作ろうと、一念発起して「高校生クイズ」に出場する。酷暑の西武球場で「ファイヤー」と気勢を上げるのも悪くない。約24000人の参加者で会場は異常な盛り上がり。「おお、テレビで見ていたものと同じだ」と感激しつつ問題に取り組む。フタを開けると何と、第10問まで正解の連続(残り100人くらいまで残った)。あと1問正解していれば関東予選早押し台まで登りつめられるところまで行けたのは大健闘である。しかし、その第10問での不正解が悔しく、来年の再起を誓うことに。
ちなみに、その問題をここに書いておこう(悔しくて未だに忘れられないのだね、これが)。
【問題】 「畳」は平安時代の貴族が使い始めたのがその起源だが、その語源は畳をたたんで使うことから始まった。YESかNOか?
この頃から御茶ノ水に通うようになる。初めてディスクユニオンのHM館に入る時、妙に緊張する。なんであそこだけ通から奥まっているところにあるのだろう。やはりアングラだからなのだろうか。デスメタル(CARCASS,Entombed、NAPARMDEATH、Obituary、Cannival Corps等々)もよく聴いたな、この頃は。しかし、クラスに同じ趣向を持っていた奴がいなかったのでライブに行けず。正式に言えば一人で行く勇気が持てず、伊藤政則の「Power Rock Today」を聴いたり、「Burrn!」を読んでいたり。
予備校の冬期講習で一目ぼれした女の子に告白し、あっけなく振られる。あれは忘れもしない大晦日の日にしては、暖かなお昼のことだった。思えば猿のオシリ程の赤っ恥衝動的トツゲキ行動であり、何の計画もないイノシシ的神風特攻隊さながらな出来事であった。
春先の3月、北海道に修学旅行に行く。夕張でスキー、小樽・札幌で観光ってな感じで廻ったのだが、何せ男子校。盛り上がるもの一切無し。ただしまだまだ寒い北海道では、飯が旨かったことだけは頭に刻み付けておいた。しかし、例によって「ラーメン横丁」には引っかかり、その後地元の人に注意され後悔するも後の祭りと化す。さすがにススキノを歩いていても制服姿だったので、名物のポンビキには声もかけられることもなく無事旅程を終える。大して印象の無い修学旅行だったのは中学のときと同じ。はっきり言って団体旅行はなんにしろ面白くも無いものだということが判る。
1993年
(高3)
クラス替えも特別無く、そのまま3年に進級。代わり映えの無い学校生活は続く。   
一応受験生となったので進路調査や模試の機会等が一気に増す。それでも我は何処吹く風で御茶ノ水を闊歩するついでに模試を受ける、といった日々。そんなある日の国語の現代文の問題に宮本輝の「星々の悲しみ」という短編が出題される。内容が面白く(悲しい内容なのだがね)、受験後すぐに本屋に直行し、現物を手に入れる。それ以来、宮本輝は自分のデスクサイドに溜まっていくことに。
新小岩に友達がおったのでよくここらで飲む機会が増える。椎名誠も若い頃、隣の小岩で飲んでいたのだな、と思いながら酒を飲み・・・ってことも大して考えず、学校のボロ文句をいいながらビールや焼酎をあおる。この頃から煙草も吸っていたのだが、受験前半年間から何となく禁煙することにした。
受験勉強の合間に時代小説にはまり、山岡荘八作品を貪るように読むようになる。「徳川家康」全26巻を読了した時は、読んだ内容よりも読みきった充実感で感動する。「豊臣秀吉」「織田信長」「伊達政宗」等もこの頃一気に読んだ。実は中身は今になると結構忘れていたりする。
これでも文系クラスの中では成績もマシな方になっていたので、担任のM先生から「指定校推薦で○○大を推薦してやる」とお墨付きをもらったりしたが、何となくつまらないので突っぱねる。まだ当時、この学校では大して推薦枠も多くなく、自分の志望する大学とは学部もまったく趣向が違っていたので無関心であった。しかし、今思えばそれはそれで大差がないのであった・・・(笑)。
そろそろ進路相談も真っ盛りとなる。自分はといえば当時は何事にも影響を簡単に受ける性格が幸いしたのか災いしたのか、よく判らないが「ここに行きたい!」と言うような志望校がはっきりして、何となく勉強に熱が入るようになる(実は落合信彦をちょっとかじっただけで国際政治の世界に惹かれていたのだ。嗚呼、今思えばなんて単純な奴・・・)。ここで言うのも何だが、この頃から確かに勉強はしていた。努力すれば希望の進路が開けるという、青二才的ナルシズムとケツの青さだけが残るツインブルー高校生である。その妙な難くなさが担任との対立をもたらすようになる。
例えば、その対立とはこうだ。先生「お前はそれなりの成績をもってるんだから、万遍なくバランスよく受験しろ」。俺「いや、俺はこういうところへ行きたいのだから一切無駄な受験はしたくありません」と言った感じだ。この頃、俺は先生を「生徒の合格実績を無理にでも作らせ、自分のコマを殖やしたいだけだ。ふざけやがって、絶対に言いなりなんかなるものか」みたいに青々しく考えていたのである。
思えば大学受験のための高校生活が続いているなあ、と考えるようになり、返って「この不毛な3年間を大学の4年で取り返してやる」と自ら奮い立たせ、クラスの仲の良い男3人で競争しながら勉強する。図書館の司書のおっちゃんとも仲良くなり、いつも自習室の席を空けて貰ったり、水道橋の予備校の単科クラスだけ受講し、空いた時間はその自習室で勉強する日々が続く。ただその代わり、家では一切勉強せず(というか、できないので外で勉強していた)。
冬が来、受験校の選定を行う。まだ対立の続く担任と協議した結果、1校だけ安全圏の学校を受験する代わりに残りを全て自分の希望した大学に出願するということで妥結する。しかし、この結果が皮肉なことに。
受験本番の手始めはセンター試験だが、いきなり躓く。得意の英語、日本史で失敗し、出願先の第4・5志望校合格の望みが消える。ただこの時は特に気にすることもなかった。こないだまでやっていた電波少年の坂本ちゃんのコーナーを見るたびに懐かしく思うね。
2月に入り、志望先の一つを受験するが、感触悪く落とす。翌々日の安全圏校は思った以上に簡単で眠くなる。この2週間後、合格届の電報が届く。大本命2校のうちの1校は特に感触が良く「こりゃいける!」と実感したものの、僅差で不合格。もう一つも駄目だった。すっかり打ちひしがれ、この時初めて「挫折とはこういうものか」ということを味わう。トータル1勝5敗の散々たる結果。「努力しても駄目なものは駄目」という、余りにも惨めな戒めを受験生活の中で得るということに。また、煙草を吹かす生活が始まった。
浪人を決め、親に告げるが何故か大反対を喰らう。「大学など何処に入るかじゃなくて、何をするかってことなんじゃなあのか!」と一喝。逆上した俺も「俺の気持ちもわからいでか!」と喧嘩になり一家は忽ちアナーキーに(笑)。ホトホト困り、子どもの頃から懇意にしてもらっている地元の親友の親父と酒を飲みながら相談した結果「まずは入って気に入らなければ浪人して、それでやり直せばいいじゃねえか。長い人生のうちの1年と100万をケチったんじゃねえよ、オメエの親は」とのアドヴァイスを受ける。それでも悩むが、結局浪人せず、合格した大学に入学を決意。入学金を締切日のギリギリの時間に振り込む。ただ、この時は入ると決めてはいても絶対仮面浪人してやる、との思いが非常に強かった。
そして卒業。何の感慨も無く教室を後にしたときの心持は「やっぱり涙も出ねえな」である。本当に受験のための学校であった。


 第三部 青年期 (大学時代〜現在)
1994年
(大1)
ついに満を持さずして埼玉県内の私立大学に入学。早速大学の校歌を歌わされるが、実際は入学式と卒業式のみでそれっぽく歌詞カードを覗いてただけ。よって今ではもう思い出せない。また立地については住宅地の中に存立するため、予想以上に静かで驚く。どこがインターナショナルなのだろう。さらに我が学部の校舎はまた近くの別のところにあるのだが、家よりも田圃が目立ち、少し歩いたりすると近くには一匹の牛が「モ〜」と鳴いていたのだった。本当に此処は埼玉県内の歴史ある街なのだろうか。もっとも市の外れにあったのだから田舎なものは田舎だと悟るが。こうして忘れ得ぬ4年間が始まった。多分これから書くことは殆どがサークルのことに関してだと思われる。だってサークルしかやってないようなものだったから、俺ってば。
教職ガイダンスが行われている教室に顔を出すが、僅か5分間で退室。百数十名教職免許とって実際成ったのが3名と聞いたら一気にやる気をなくした。まだ4月上旬のこの頃、脱力ガクセイ丸出しであった。
机出し(註・キャンパス内にいくつかのサークルが机を出して新入生を勧誘する習慣)を見て回ったりするが、全然興味が湧かない。が、ある日ESS(ENGLISH SPEAKING SOCIETY=英語会)というサークルに目がいく。かねてより仮面浪人を考えていた私は「よし、せっかく大学にいるんだからサークルにいながら英語の勉強もしてやろう」などと、今思えば訳の判らない理由を思いつき、ESSが活動する教室に行くことに。さっそく先輩に夕飯を奢ってもらい、それ以来居着くことになるとは予想だにせず。
5月。ESSが加盟しているKUELが主催の新入生用ディスカッションのイベント「FRESHMAN DISCUSSION」に参加。関東の大学の多く(当時65大学・短大)が加盟しているので参加人数が総勢1400人もいた。さすがに驚くが、とりあえずテーブルには振り分けられた6〜7人で、それぞれが訳の判らない英語で会話する。今思えば日本人同士で英語だなんて何なんだ?と思うが、他大学からの女の子の多さに「むふふ」と顔も思わずほころぶというもの(現金な性格だ、俺は)。ちなみにその頃交換したネームカードはまだ持っている。懐かしいなあ。ちなみに、実際「むふふ」となることはなかった・・・。
上記イベント終了後、新歓コンパが池袋・養老の滝で開催される。勿論新入生はタダ。よって飲めるだけ飲み干してしまい、しまいにゃ西口の噴水前広場で「よぉく聞けえ〜い!そこのバカップル!俺の生き様を!」と叫びベロンベロンの醜態を晒す。後で俺の生き様こそがバカだと気付いたが遅すぎた。これが大学生活でのお酒との付き合いの大きな一歩となる。大きいとはいえ、進歩か退化かいまだ不明なところ。
「せっかく大学に入ったのだからパソコンも身につけねば!」と思い、任意単位授業の「情報処理概論」を履修するが、PC98を操るのが面倒臭くなって前期で棄てる。だって当時、まだWINDOWSも出てないからDOSでしょ。C言語なんかやる気せんちゅうの。
サークルが楽しくなってしまって授業には顔を出さなくなる。まあ授業ははなからやる気も大してなかったが、これではいかん!と思い英語の勉強のために英検を受験。とりあえず2級を確保。面接官のオジサンが何とも朗らかでとてもいい人だった。が、しかし英検を受けたのはこの後2年間なく、受験的英語のブランクはこうして徐々に蓄積されていくことに。
ESSが加盟している学内団体・文化連合会が主催する「ダンパ」に参加。例によって酒に酔い狂う。ダンスといっても鳴ってる音は音楽サークルが演奏するヘヴィメタル(パンテラとかだったかな?)。結局はダンスどころか(さすがにモッシュはなかったものの)ヘッドバンギングの猛攻になり、例によって頭をブンブン振り回した結果眼鏡を床に叩きつけ、レンズが見事粉々に。「泥酔眼鏡壊し芸」はこの後も続くとは予想だにせず(予想だにしないことばっか)。そして翌日も壊れた眼鏡のまま登校し、ドランクメガネクラッシャーとして一角では有名な存在となる(謎)。
体育実技の授業にてバスケを行う。何ともそこで面白いドリブルをする男と気が合うようになる。それがかの有名なゆたか君。ちなみに体育は午前の2コマ目だったので、授業後近くの「ラーメン帝王」の250円中ジョッキを飲みまくり泥酔して午後の授業に出る輩も。体育の授業はあほな連中ばかりで面白かった。
夏を前にして金欠で苦しくなり(今に始まったことではない俺の慢性金欠病だ)、意を決してファミレスでバイトを始める。時給800円でも有り難かったが、駅前だったので客も多く非常に忙しい店だった。この経験が基で就職活動の時、外食産業は受ける気も起きず。が、バイト自体は楽しいものだった。深夜、社員が居なくなるとカラアゲ揚げ放題でビール飲み放題。石田純一が若干崩れたような顔をした店長は、恐らく頭を抱えていたことだろう。ついでにその影響で体重が8kgも増え、今度は俺が頭を抱えてしまう。
大学の最寄駅の裏に寂しそうにひっそりと捨てられた自転車を見つけ、保護をする。その後相棒は次々に変わり4年間で合計3台(内2台盗難)がお供となる。このお陰で家に余り帰らなくなり(せいぜい週に3回ほど)、先輩・後輩の家での衣食住(あと飲)が済んでしまう。先輩後輩の家の冷蔵庫を当たり前のように開け、当たり前のようにビールを飲み、当たり前のように宴会をする。そして、当たり前のように授業には出ず、夕方から始まるサークルだけには出る。サークルが終わると飲み屋か食い物屋に入りまた酒を飲み、遅くなったので電車なくなりました、といってまた泊まる。その繰り返しがいかに多かったことか。本当にお世話になりました。 
サークルの夏合宿に参加。何と英語サークルらしく5日間英語漬け。しかし、やはり全員日本人なのでところどころ奇妙な英語が飛び交う。朝のラジオ体操では「ア〜レディオ〜ジムナスティックゥ〜スターティング。ユアボウスオブハンズ〜ブラブラ〜」てな具合(わけわからん)。俺は合宿前には既にディベートをするセクションに入っており、予め準備はしておいたものの、何やら討論するが英語で話さなければならず、その上ディベートの技術も解っていない為、この頃は混乱し続ける。しかしそれだけフラストレーションを溜める為に、ESSの飲み会は威容を誇るとも言われている。
長く続く合宿の締めはやはり飲み会。ここからは日本語自由なので皆一斉に大騒ぎ。といいたいところだが、それ以前に自分が大泥酔の渦の中。エンタテ(エンタテインメントの略。ESSでいう隠し芸のこと。どの大学にもある)の時間では、ガムテープで全身グルグル巻きになり、「らすた〜」という意味不明な合言葉で先輩と「性道一本」という芸を披露。何のことはない。柔道の乱取りの格好で男同士体位を取る形になり「前戯!有効!」「騎乗位!技あり!」「松葉返し!一本!」などとやっているのだ。
その後も俺は飲み飲ませられ続け、気付いたら翌朝ガムテープグルグル巻きの状態でビニール袋が敷き詰められていた部屋で寝ていた。どうやらゲロ防止対策部屋に担ぎ込まれていたらしい。因みに記憶が飛んだのはこのときが初めて。その途中ではトイレの中で「Ahhhhh... The Affirmative side mentioned about that ...」などとグルグル巻き状態のまま英語でうめいていたらしい(実話)。
当時4年生のトリヤマさん(仮名)宅(「ことぶき荘」という築20年くらいのアパート。何と家の扉は鍵がかかっていても強引にドンドン開け閉めしていれば開いてしまうやばいアパートだった。メンバーは皆鳥山さんと共にことぶき荘も敬愛していた)では、この頃よくみんな集まって飲んだり、取り留めも無く朝まで語り合っていたりしていた。中でも笑える話は「よし、人名しりとりやろう」という誰からともない提案のもと、酒を飲みながらのしりとり。「機械仕掛け」の異名をとるクサカさん(仮名)の反応は「う〜う〜・・・ウマヤドノオウジ(註・厩殿皇子。聖徳太子の幼名)!」「む〜、む〜・・・ムッソリーニ!」などなど。「じゃあ、普通のしりとりにしようぜ」となっても、この人は「り〜、り〜・・・陸上競技用スパイク!」といった答えをなさっていた。
9月。初めてディベートの大会に出場するも、予選4試合全敗という惨憺たる成績に終わり、リベンジ(!)を誓う。ちなみにこの時組んだパートナーのノウチ君(仮名・とても勉強熱心なスケベ男。ちょっと虚弱)とはこの後も何度か組んだが、全くコンビネーションが合わず。
ESSは今まで殆ど学園祭に出店しなかった、という過去の慣例を破り捨て1年生だけで店を出す。何故かフレンチトーストを売ることになったが、概ね好評で大黒字。その成果は皆の胃袋に大量のアルコールと共に消えた。
我がESSが主催する全国規模大会であるスピーチコンテストが行われる。当時1年の俺がやった仕事はドアマン。スピーチの合間合間にドアを開閉させるという重要な仕事だったが、いかんせん眠くなる。が、実力あるスピーカーには圧巻。さすがに開校以来続く歴史ある大会だけのことはあるんだな、と思わず感動。まさかこの2年後に自らオープニングアドレスを切るとは予想だにせず。
お馴染みトリヤマさん(仮名)宅で焼肉を肴に酒を飲んでいたところ、2年のナラさん(仮名)が酔ったせいかおかしくなり、笑いが止まらなくなる。こちらは面白がって見ていたものの、ついに彼はその勢いでビールの入っていたグラスを握り潰し、周りは泡だらけに。恐ろしい握力の持ち主であることが発覚。さらに、笑いはその後も暴走列車のように勢いが止まらず、ゲラゲラ笑いながらコタツのテーブルにゲロゲロとモノを撒く(笑いゲロ完成の瞬間)。そしてその後幾らかすっきりしたのか、ナラさんは焼きそばのために切っておいた生キャベツ(5人前)を一人で残らず食べ尽くすという珍芸を披露。「あーモシャモシャ。キャベツってうまいよね〜モシャモシャ」。その後、彼は初代のオノザワさん(仮名)に続きゴリラ二代目の称号を見事襲名した。
年末。関東ESSの幹部が大挙して那須塩原のホテル集まるKUELリーダーズキャンプ(バス10台で分乗。参加者凡そ400人)に行く。私はそのリーグの連盟委員という仕事を引き受け、KUEL役員さんの手足となり、見回ったり誘導したり。この役職は各大学から1名以上出すので、他大学の友達を作るチャンスができると考えたのだった。案の定、打ち上げの飲みでは既に一気コールの標的となり、やはりここでも記憶を落とす。この先、一気のターゲット及びエンタテ推進役になろうとは、予想だにせず(3度目)。しかしこの2年後、自らがホテルニュー塩原の演壇の上に立ち選挙演説をしようとは全く予想だにせず(4度目)。
年が明け、サークルが余計に忙しくなってきたので、大学と離れたところにあるバイト先に行くのが億劫に感じ、辞める決意をする。だが、半年もやるとバイトは中堅扱いになってくるので適当な理由でもつけない限り辞めることは出来ない。そこで自分の考えた理由は「すいません。長期の留学に行くことになったので辞めます」というものだった。仲間は残念がって引き止めていたが、安時給でこき使われるバイトには辟易した。が、その3ヶ月後、そのバイト仲間と偶然駅で会ってしまい、急いで取り繕った理由が「あ、留学ね。あれ3ヶ月で終わったの」。また戻って来いよと言われたものの、戻る気なくファミレスの前の道を避けて通るように。
1995年
(大2)
ゼミでの変わり者として学内でもちょっとした有名人のたくや君(当時平塚からはるばる登校。あまり親しくない間柄)に、自主ゼミ終了後突然声を掛けられる。「今日はさ、もう遅くなっちゃったから川原の土手で野宿しようよ。ワインとチーズでも買って焚き火しよう」それを聞き絶句に唖然。咄嗟に「あ・・・いや、ごめん。今日これからバイトあるから」と断り事なきを得る。因みに彼はそのあと本当にたった一人で川原に野宿したようだ。オソロシヤ、たくや君。友達少なかった、たくや君・・・。
高校の同窓会「どき!男だらけの大酒飲み大会」を高田馬場で開催。場末の怪しい飲み屋「清龍」で飲み暮れる。その後は例外なく全員酔いつぶれ、道端のつつじの植栽で自由形競泳に励む者、鎖に繋がれた自転車を必死で漕ぐ者、道往く人をつかまえて、「あんた1位!」等と評する者など、迷惑が後を絶たない。これ以降何故か集まる回数が激減し、今では何処に誰が居ることやら。
サークル夏合宿にて、伝統のお家芸となった「ドラいもん」を開発。上記以上にとんでもない下ネタ芸なので、ここには書けない・・・。が、敢えてヒントを出すとするなら、「翻訳こんにゃく」「ビッグライト」「マジックハンド」「もしもボックス」が道具として登場する。さあ、一体何にどういう目的で使われたんでしょうね?また、けんぢ君(仮名)のしずかちゃん役が好演。キャンディボール2個封入でナイス爆乳(失敬)。どらいも〜ん。あ、一応フォローすると合宿はやっぱり英語漬けですよ。本編は真面目なのです、我がサークルは。
年末、先輩の紹介でNHKの日当バイトを引き受ける。NHKと聞いて何だろう、と思ったら「紅白歌合戦」会場であるNHKホールでテレビ雑誌の販売をするものだった。楽屋裏を通ると、シャ乱QやらSMAPやら森高千里などが目の前を歩く。圧巻だったのは冠二郎。ベタな演歌的ギラギラ衣装もさることながら、異様なほどの顔の大きさにはビックリ


まだ95年はほんの一部だけ。まだまだ建設は続く・・・。


果たしてこのクダラナイ自分史は完成するのであろうか。
スペインの大建造物「サグラダ・ファミリア」みたいだな、このコーナー。いつになったらできるのだろう?
  ←参照 サグラダ・ファミリア

もっとも、俺の人生はこんなに立派なもんじゃないのは自覚済みだが。ごめんね、ガウディ・・・。