次代を担うのは若者だが、老人とて決して負けていない。70代以上でもパワフルに活動する老人候補をピックアップ。
○日本世直し党
福岡出身で神奈川県大和市在住の歯科医師、重松九州男らにより、「日本世直し会」を母体として結党。「日本版緑の党」「武士道実践政党」と称し、首相公選制と議員定数削減、医療・教育の無料化など、リベラルな政策を訴えた。
1995年参院選まで出馬。政見放送では訛りのきつい九州弁で政策を訴えた。現在は活動を停止しているが、本部のあった場所では現在も歯科医院が開業されている。
○上田哲
高校非常勤講師を経て、NHK記者・労組委員長となる。NHK記者時代はポリオ(急性灰白髄炎)根絶に尽力。映画「われ一つの麦なれど」のモデルとなる。
1968年参院選に日本社会党公認で、全国区より出馬し当選。その後衆院に鞍替え。その間、社会党教育宣伝局長、議員会副会長等を歴任。派閥は中間右派の「火曜会」に所属し、「社会主義協会」など左派とは対立していた。
党内きっての護憲派として知られ、小選挙区制導入にも反対だった。法案採決について国民投票を実施する「国民投票制度」(レファレンダム)導入にも尽力した。社会党委員長選には左派系候補として2回出馬しているが、いずれも落選している。
1993年衆院選で、小選挙区制反対を理由に支持母体の労組「連合」から推薦を外され、得票が伸びず落選。その後社会党を離党し、「護憲新党あかつき」を結成、代表に就任。1995年都知事選には「無党派の代表」と称して出馬。同年参院選にはスポーツ平和党共同代表として比例区より出馬し、落選している。「スポ平」からの出馬について、「『あかつき』とスポ平は合併した。党名は『スポーツ平和党・あかつき』とするはずだったが、今回の選挙では変更手続きが間に合わなかった」と説明している。1998年参院選には自由連合に公認を申請するも却下され、無所属で出馬。2000年衆院選では「社会党」を結成し、委員長として比例区東京ブロックより出馬。2001年参院選には「老人と若者の連帯」を訴え無所属で出馬。98年以降の選挙では、ポスターに大きく「怒」の文字を書き、首相官邸に抗議の電話をかける「十円玉運動」を提唱していた。なお、93年以降出馬した選挙には全て落選している。
2001年参院選を最後に選挙への出馬は無かったが、なだいなだ(作家、精神科医)の提唱する「老人党」へ参加し、また「社団法人マスコミ世論研究所」理事長として雑誌「月刊マスコミ市民」編集やネットTV「世論力TV」運営に携わっていた。
「社会党」は自由連合の得票を上回るなど健闘した。しかし、社民党からは「似たような党名で票をかすめ取った」と猛烈に非難された。また、90年代半ばより革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)主催の政治集会の弁士となるなど、革マル派と接近していたことから、95年都知事選で青島幸男を支援する中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)から「ファシストカクマル系候補者の上田を絶対当選させるな」と批判されていた。
度重なる選挙出馬のため生活が困窮し、自宅や車などの私財を投げ打ち、近年は体調も崩しぎみだったが、入院中でも平和集会に移動ベッドで参加するなど、政治への強い思いは衰えていなかった。2008年12月17日死去。
なお、「あかつき」は岐阜県本部が残っており、県知事選挙で共産党などと共に革新系候補の擁立を行なっている。
○川村嵐子
2001年参院選、2003年横浜市議選に無所属で出馬。初出馬時は76歳だった。「弱者に思いやりある政策」を掲げ、高齢者・障害者福祉、環境保護、高齢者の雇用促進などを訴えた。2001年参院選では新社会党公認候補の坂内義子(「キリスト者政治連盟」副委員長、「日本友和会」所属)の得票を上回るなど健闘した。
他にも、不明瞭な口調ながら「不幸なものを無くす」と訴えた三井理峯、「1円募金運動」を実践し7度の選挙に出馬している辻稔種、苦節40年目にして初当選を飾り福井市議となった嶋田勝次郎らがいる。平均寿命が延び、今や「生涯現役」の時代である。サラリーマンを定年退職後、第2の人生として政治家の道を選ぶのも一考である。