パンと水があれば、ゼウスと幸福が競える
アタラクシアこそ真の幸福
受験のためだけの勉強、そんなもん、いったい人生のなんの糧になるというのか、あほらしい。
と、私は思っていた。だが、ただ一科目だけ、人生の糧になる科目があった。それが、倫理だ。倫理とは、簡単にいえば、哲学と宗教の歴史、ということになろう。その勉強の中から一つ言えるのは、紀元前の昔から、人間は、思考能力的には、まったく進化しておらず。むしろ退化しているということだ。
うーん、ちょっと違うか、いずれにせよ、考えることが、職業としてなりたっていたのだからすごいよなーとも思う。
それとも、生きていくための何らかの教えがないと生きていけない辛く厳しい時代だったのだろうか。今となっては、まして私になんかわかりっこない。
ただ、間違いないのは、紀元前の人間の教えが現代の私達にも十分当てはまるということだ。紀元前、いや、有史始まって以来、人間は、根元の部分で何も変わらず同じ悩みを持ち続けてきたのではないだろうか。
前置きが、長くなり過ぎた、そんな紀元前の哲学の珠玉の教えの中でも私がもっとも、好きなのが、「パンと水があればゼウスと幸福が競える」である。自我流の解釈だが、「食うことの心配をしなくていい場所で人との煩わしい関わり合いを避けひっそりと、世捨て人として傷つくことなく平穏にいきる」といったようなことではないか。
私は切に願う、私と私の家族が、衣食住に困らない無人島かなんかで、24時間、365日、一生、同じ時を過ごせたらいいなと。
何故、私は、一日の一番おいしい時間を、会社などという牢獄で、子供たちは、学校などという異空間で、NAOは、一人ぼっちで、離れ離れで過ごさなければならないのか。一緒に力を合わせて生きていけないのか。
なぜなんだ、なぜ、