死の受け止め方
最終更新日:99/10/21 今朝、母方の祖父が亡くなりました。今年を乗り切れるかどうかわからないといわれていましたので、あらかじめ覚悟はしていました。私は父方の祖父母は小さいときに亡くなっていますが、でもお寺にいった時以外でも、忘れることはないです。気にとめていないことはよくありますが。
「現実で亡くなったとしても、私の精神の中では生き続ける」、一歩間違えば、「現実に生きている人でも、私の中では死んでいる」ということも可能ですが、深く考えず私は受け止めています。現実逃避なのではといわれてしまうと、そうかもしれないと思いつつ、やばいときには便利屋の神様にお願いしている信仰深い?私ですので、いいんです。
亡くなると、会社にも通知しなければなりません。会社のPCで決められたフォームに祖父の名前を入力していきます。実は何歳だったのかというのも入力する時に初めて知りました。死に目に会えなかったのが残念というよりも、坊主頭で驚かすことができなかったというのが残念です。前に訪れた時にちょうど意識を無くしてしまってからですから。
入力しながら、祖父は特にやり残したことはなかっただろうなと漠然と感じています。本人から聞いたことはないので、あくまで推測でありますが、結構人生を楽しんだのではないかな。「うっしゃしゃ」と笑うこともなく、ついでにいうなら最後まで私の勤め先を理解することなく、おまけでいうなら末孫の子供(つまり曾孫)をみることなく他界したのは残念でありますが、どっかで見ていることでしょう。見ていなければ、報告しますから。
今でも、祖父がなくなったときの父の悲しそうな姿は忘れません、でも同じように祖父本人も忘れません。だから、人が亡くなるというイベントは悲しいことでありますが、祖父がいたという事実が無くならない限り、悲しいということはなさそうです。悲しいというのと寂しいというのは私の中では別です。
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