知識の対価

最終更新日:00/01/29

こうやって、日々飽きずに書くことは尽きないが、それでも物書きにはられないと思う。数をこなせばそれなりにスタイルというものが出来るだろうし、アイデアも悪くない時もある。

それでも、小説家にはなれない。
あの人々のすごいところはどれだけ長い文章であっても一貫性があるということだ。支離滅裂な文章の羅列では読者には理解できない。
クラシックの曲が今とちがって魅力を失わないのは洗練されたということだけでなく、結構長い割にベースがしっかりしているからなのだろうか。
popularと呼ばれている今の曲は短期集中がたのように思える。とはいえ、昔の音楽家もやたらと数を発表し、残っているのが今ある曲だけなのかもしれないが。別に音楽論を述べるのが目的でないし、強引に分類するほど深くも考えていない。マラソンと短距離走の違いのように捕らえている。

それはともかく、昔も今も文筆家は変わらず生き続けている。文体は違うので読みにくいが、平安も中世も同じように考えていることを文にしたのだろう。
私は音楽や本にお金を払うのはその技術料だと考えている。共感するということはすでにそんな気分を備えていたからであり、それを引き出すことができる技術をもっているからだと思う。
ダンスでも若い人は動きに元気があるけれども、魅せることを覚えたベテランにはかなわない。
弓道においても、がむしゃらにあてるのではなく、心をとぎすます方面にいけるものがより位がたかくなる。だが、歴史に残る記録では三十三間堂の通し矢の記録保持者は約6秒に1矢はなち、あの距離で約6.5割の命中率を通したようだ。

知的価値というのは、思っていることを形作ることのできる能力に支払われる対価だと考えている。
歴史の記録保持者が書いた教本があんまり残っていないのは、絵にする能力と文にする能力が一致しないからなのだろうか。それとも、一子相伝でひたすら表にでてこないからだろうか。

目次に戻る

ジオシティーズの入り口へ
 このコミュニティの入り口
 へご近所を訪問する