問題の解き方と答えの検証

最終更新日:00/01/29

最近、数学から離れているので(といっても近づいた時期はほとんどない)、問題と解答を目にするということはなくなった。
いつに聞いたことか忘れたが、「問題を把握する能力」というのが取り上げられたことがあった。また、「現実を疑わない」ということも。

後者については、私が中学生の時である。その日は曇りの日で、外は薄暗く、教室はそれにともない暗かった。国語の教師が入ってくるなり、「暗くないか?」と尋ねた。皆うすうす暗いと分かっているのだが、わざわざ電気をつけようという気は起こらなかった。それは、電気をつけることにより場を乱すことを極度に恐れているからだ。いや、場を乱すと言うより、一瞬でも人から注目されるのが嫌だった。「率先する」ということが気恥ずかしいものだった時代。
そういう時代を忌み嫌う国語教師によって、私は実行する人間と洗脳されてしまった。その癖は今も残っている。多少の面倒さよりも、次の時間を優先する。ただし、それはすぱっと割り切れる仕事に限られているが。

前者については、高校だか、大学だったか。とりあえず、大学の初めての授業でかまされた記憶がある。「大学入学した直後から、学生の本分を忘れて、遊びほうける」と講師がお怒りであった。でもさ、高校の時は、「大学に行って遊ぶために、今この苦しみをのりこえるんだ」と発破かけられたのだから仕方がないと思うよ。私は当時そう考えたが、多少真剣に悩んだこともあったので、単位だけは落とさないように気をつけつつ、大学をうまく脱出することを考えていた。途中で、想定外の楽園に紛れ込んだことを除いては。
「何がわからないのか」判らない病というのが、結構蔓延していたときでもあった。「つまらないので、何かしたい」でも「何をやったらいいのか判らない」。まだ、その病気から抜け切れていないので、私もたまに無気力になる。ただ、私は過去を蓄積していくことで病を乗り越えられる気がしている。だから、神社にいっても、「助けてくれ」などとは思わない。ただ、純粋に「すげー」と思うだけ。

そんな日々を過ごしつつ、たまにしょうもない問題に出くわす。それが会議である。「会議で情報は得られない」と日経産業新聞の宣伝で使われていたが、そもそも会議は承認の場であり、論争をする場ではないのだ。「朝まで生テレビ」が見ていて不愉快に覚えるのは、埒があかないからである。例えば、裏で討議してから結論と次の行動をしめしてくれれば私はいいと思う。ディベートの競技大会ならそれもいいのだろうけど。私はそんなことに興味はないから。
なぜ、埒があかないのか。それは落としどころというものを想定していないからだ。「何が問題」ということを把握することはできても、解答は見つからない。うまくいけば、類似の問題から解答を導くことは出来るかもしれないが、大抵の場合、会議ですんなり物事が解決することはない。あくまで承認が目的なのだ。

そのことに気がついている人はどれくらいいるのだろうか。「否定だけなら、だれでもできる」。

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