伝言ゲームと情報の価値
最終更新日:00/02/25 「富士山は日本一高い山である」。
例えば、この情報を流布するとしてもあんまり影響は与えないだろう。なぜなら、既に一般化しているからである。
「情報は差分である」誰かがいっていた。伝わっていない人と伝わっているいる人、その差分を埋めようとする動きが情報の「活き」というわけである。だから、全ての人に行き渡ってしまった情報は「死んでいる」。だが、いずれ行き渡った情報が埋もれてしまったとき、また「活き」が生まれる。
もし、過去の情報に価値がなくなってしまうのなら、考古学は意味をなさないであろう。しかし、過去を探ることで新しい価値を見いだせることがあるから、学問としてなりたつのだ。単なる趣味ならスポンサーはなかなかつかないであろう。まあ、よく知らない分野なのでこんな程度に。
しかし、「佳代さんが山下さんとつきあっている」とかそういったゴシップのたぐいは知っている人が少ないからこそ、こそこそ話としての価値がある。衆知の仲までなってしまうと「今更・・・」って感じで相手にされないことだろう。下世話な話とみるか、たまたまあなたが「佳代さん」か「山下さん」を好きならば話は変わってくるだろう。受取手の情報の価値は差分によってうまれるのだが、相手の価値観にもある程度影響を受ける。そんなことはわかっていることですよね。
では、これが会社のことになったらどうであろう。例えば、承認処理。くだらない処理であると一笑に付したい気分な時が多いが、責任の分散化という意味では価値があるのかもしれない。手遅れにならないのなら、大勢の人数をかけて勝手にやってくださいとしか言えないが。
他人の仕事に口を出す気はないが、こっちに面倒な仕事を押しつけてくるのなら、面倒だけれども一掃してあげないといけなくなるのだろうな。でも、わざわざ改革をおこすなんざ、面倒きわまりないので結局しないかな。なんか、今日も疲れ気味。体力のなさを実感、じっかん。でも、やっぱアホは許せん。2度手間以上させるのなら、あんたがやりなさい。
さて、じゃあ今すでにある情報を整理し直すことに価値はあるのかないのか。「ボクハアサラーメンヲタベタ」「ぼくはあさらーめんをたべた」「僕は朝ラーメンを食べた。」
レイアウトに価値をあるのか、伝えたいことをねらい打ちにするのは効果ある。ただ、相手に何を伝えるかを意図してデザインすることが真実を伝えることにはならない。うーん、焦点がぼけてきたようだ。
こういった言葉の羅列に価値があるのか、それともゴミなのか。
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