何となくであるが、摩耗しているということを感じていた。それは家計簿の残高・貯蓄額の伸び。「いつまでこんな生活がつづくの?」というような倦怠感が襲ってくる。「周りもそうなのさ」という考えや、単に「今がぺーぺーだからであって、しばらくしたらこの修行期間も終わる」と言い聞かせるときもあれば、わけのわからない「あるべき姿」などという言葉に踊らされることもある。
仕事が嫌いということではない。多分、生理的にうけつけられないような仕事であれば、ごまかすことはできないだろうと思うから。それにまあ、この業界は小学校の時からの理想でもあったから。
電車の中の広告を見る。「△△大学への最短距離!。○○予備校」。その横に「充実した大学生活、就職どうのこうの、□□女子大」。そしてその横に、「何とか杯(何かのレース)」の女の子がにっこり笑っている広告。
3枚の広告を見て、3枚の広告で表現されている生活は一人の歴史であるかもしれない。いい大学に入ろうと決意し、予備校にかよい、そして大学に入り、結果的にモデルをやっている。例えばの話であるが、そこまで連動して宣伝をしている広告はないし、そういったビジョンを高校から示されているわけではない。あくまで結果的にそうなったという人が多いのではないかなと、考える。たまたま僕の友人が受験前の女子高生と付き合っていることもあり、彼女はこの3枚の広告をみてそんなことを感じるだろうかと雑談。私の場合も友人の場合も結果的にそうなっただけのこと。
高校の時は「いい大学に入ったら」的な発想と、「自由は作られた環境のなかでこそ味わえる。完全な自己責任の自由は際限がなくなるので、混乱することの方が多い」ということを教わった気がしなくもない。階級というものがあった時はそれはそれで不自由はあるだろうけれども、抜け駆けしようという発想さえ起こさなければ今のように混乱することもないんだろう。
とはいえ、携帯電話があるからこそ、社会人が女子高生と夜分に気兼ねなく電話することができるわけで、世の中の進歩は悪くはないとも思う。ただ、ちょっと混乱しているだけなんだ。少し休めば気分が良くなるよ。ということかもしれない。
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