御無事でよかった。
さ・・早く部屋の中へお入りくださいませ・・。
こんなにずぶ濡れになられて・・・・唇の色が真っ青です。
風邪をひかれては大変です・・暖炉の火を強くしましょう。
このガウンに、お着替え下さい。
昨日、仕立て屋が届けにまいりました上等のシルクのガウンです。
このような深い紅の色は、貴方様の黒い瞳によくお似合いで御座います。
気に入って頂けて、何よりです。
あっ・・・。
何処かで、落雷したようですね。
音の方向からしますと・・・落雷したのはあの森かもしれません・・。
これほど酷い嵐も久しぶりでしょう。
森へ出掛けられたまま、嵐になっても屋敷に戻ってこられなかったので心配しておりました。
森では時々、身元不明の他殺体が発見されているのはご存知でしょう。
そうです・・あれは半年も前の事でしょうか・・乞食女の変死体が発見されました。
おお・・知ってらっしゃいましたか・・確かに不可思議な事件でしたから。
両乳房は食いちぎられ、顔に大きな穴があいていたそうですね・・。
死体を発見した男の証言ですと、遠目には、まるで大きな口を開けて仰向けに寝ているように見えたそうです・・。
あのような陰気な森の中で・・みすぼらしい乞食女が大きな口をあけて横になっているように見えるものでしょうか。
滑稽な話しです。
何度か声をかけて、返事がないので不審に思い少しづつ近づいていったそうです。
男の照らす、ランプの光りの輪の中に、穴のあいた顔がぴったりと収まった瞬間の事です。
その途端、森が真っ赤に色づいたというんですよ・・そうしてまるで森そのものが
ひとつの命のように、ざわめいてみせたと。
男は、何処をどう逃げ帰ったのか覚えていないほど気が動転したそうです。
今でも街の居酒屋の何処かで、男は自慢気にその話しをしている事でしょう。
乞食女は野犬に襲われたという事になっています。
顔と乳房だけが食い荒らされて、他は無傷だというのですから気味の悪い話しです。
本来でしたらもっと詳しく調べるのでしょうが、面倒になって適当に野犬に襲われたと済ませているようです。
袋に詰められた乞食女の死体は、身元不明の札を貼られて運ばれていきました。
どこへ?
そりゃあ、地獄でしょう・・あの女は生きてても死んでも地獄しかいくところがないんですよ。
あの親子の事をもう少し詳しく聞きたいですか?
いったい何処からこの親子は何処からきたのか
それはわかりません。
いつの頃からか、この街にいたのです。
娘は酷い皮膚病を病んでいましてね・・・顔にも体にも無数の固い隆起が密にできていました。
最初は小さかった小さな無数の隆起が、ある時から次第に細長く形をかえていったそうです。
娘が食事をしたり顔を動かせば、顔面の細長い隆起が一緒に動いて見えました。
その様子はまるで皮膚の下にミミズが蠢いているようでした。
ある日、僅かな金で母親がパンを買いにいった事があったそうです。
そこの店主も陰湿な性格の男でして・・腐ったサンドイッチを売りつけたらしいですよ・・。
夏場の事ですから、どのくらい酷いしろものだかは想像できます。
でも、この親子にパンを売ってくれる店はなかったのですよ・・街の人間たちは皆、嫌っていましたからね
どうするか・・店主は好奇の眼で母親の反応をみていたそうですよ。
ふと、店主が視線を感じて店の外をみると、ショーウインドウ越しに白痴の娘が此方を覗いていたそうです。
白痴でも、たとえ悪人でも、眼には人間としての感情の揺らぎがどこかに感じられるものですが・・。
白痴の娘にはそれが全くなかった。
無数の隆起物の奥の、大きな空洞のような眼で、じっと・・店主を見つめていたそうです。
あの娘はいったいどうなったのでしょうねえ・・・自分の母親が惨殺された事を知っているのでしょうか・・。
申し訳ありません・・退屈ですねこのような話題は・・。
それではどんな話しを致しましょう?
今夜は私もまだ眠くならないのですよ・・貴方様にお付き合い致しましょう。
それにしても、酷い嵐ですね。
雷鳴で貴方様の声も、よく聞こえないくらいですよ。
え・・・耳が片方しかないからですと?
それをおっしゃるのなら、私は眼も腕も片方しかありませんが・・・。
かなり昔の話しですがね・・今でも時々、ないはずの眼球や腕が痛むような錯覚に陥るのですよ。
ぎしぎしとね・・・ない部分が痛むのです。
不思議なものですね、でもそれがとても愛しく感じます。
痛みを感じていると、自分が生きている事が実感できるのです。
痛みがとても愛しいのですよ。
実はこれらを無くしたのは、ある余興の結末です。
そうですね・・戦争でなくしたものだと周囲の人間には説明しております・・。
そう説明すると簡単に信じますからね・・本当の事を話すのは、とっておきの楽しみにしていたのです。
情況と気分が揃えば話す・・しかし一生誰にも話さないままかもしれませんでしたが。
今夜は本当の事を話したくなりました。
よかった・・やはり、貴方様は興味がありそうですね。
何故わかるかと?
私のような体の人間を雇い入れてくれたのには、別の意味があるのだと思うからです。
ああ・・無駄な事はもう話しますまい・・本題にはいりましょう。
この話しが済んだら・・どうかおやすみになってくださいね。
いいえいいえ・・子供扱いなどしておりませぬ・・・明日は特別な日でしょう?
明日は奥様の誕生日ですから・・朝からお忙しいでしょう?
さあ・・2杯目のブランデーをどうぞ・・。
貴方様はこの銘柄が一番お好きですね・・。
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私の家系は代々宝石商を営んでいまして、国内はもちろん、外国まで幅広く、数多くの顧客がおりました。
母親が体が弱かったので、子供は私ひとり・・それは大切に贅沢に育てられました。
庭の薔薇が咲き、枯れおちて、実をつける。
それが幾度も繰り返され・・年月が経ち私も青年となりました。
私は幼い頃から好きだった絵をもっと勉強したくて、美術の学校へ入学したい気持ちがありました。
それは許されるはずもありません。
いずれは家業の宝石商を継がなければならない義務感と、それとは反して、自分の運命を打破してみたい気持ちの両方が
せめぎあう事もありました。
老齢に差しかかった父は、私の手を握り家業を継ぐ事を頼みました。
私は・・ただ、うつむくしかなかったのです。
あれは・・そう・・12月にはいったばかりの、今にも雪の降りそうな寒い夜でした。
空には氷の結晶のような星が一面にまたたいていました。
アトリエで知り合った同じ年頃の3人友人達と、その夜も呑んでいました。
友人達も私と同じ境遇だったのです。
有り余る財産と引き換えに、自分で運命を選択する事が許されない境遇でした。
でも、もし・・本当に自分で運命を選びたいなら、財産を放棄し、身ひとつになればいいだけの話しでした。
そこまでの勇気がないのと、ある種の諦めに似たものが生温く、体の隅々にこびりついていたのでした。
そして、その夜も家の金で私達は高い酒を呑み、自分達の境遇を嘆く話しをしていたのです。
グラスを交わす音と・・・あとは、しんと張り詰めた静寂と冬の冷気が窓ガラスの外にありました。
やがて、まばらな拍手がする方向へ視線を移すと、ひとりの東洋の女がギターを抱えてショーホールへと姿を現わしました。
今夜の奏者でした・・・私達の席からは女の横顔しか見えません。
他の客達は女の注意を引こうと、下品な口笛を吹くとか、猥褻な言葉を飛ばしました。
私は、自分のつけていたダイヤのカフスを、女のいる方へ投げてやりました。
ダイヤカフスは透明な光りを放ちながら、女の足元に落ちました。
客達の視線の集中する先には、私の投げたダイヤカフスの輝きがありました。
女はダイヤカフスを拾い上げると、殆ど表情をかえずに私をみつめました。
たぶん・・お礼の言葉を言ったのでしょう・・東洋の何処かの国の言葉のようです。
女はまだ、私をみつめています。
気をよくした私は、女にリクエストをしました。
女は両眼を閉じ、夢見るような表情で奏で始めました。
女の長い指先が、魔術のような繊細さでギターの弦の上を撫でていきます。
強く・・優しく・・切なく。
それは神のえがく、詩の世界でした。
このうえなく、素晴らしい表現力を女はもっていました。
神に選ばれた人間にだけ、与えられた能力でした。
女の、芸術家としての才能に私は嫉妬しました。
先ほどまで、女を見下したような気持ちでいた自分が今では逆に虚しい存在になっていました。
客達は息をのみ、世にも美しい音楽の調べに惑わされていました。
まだ、演奏の途中だというのに、私は席をたちました。
ドアを開けると、棘のように痛いほど冷たい、夜の空気を感じます。
背後から私の名を呼ぶ、友人達の声がしました。
友人達は勝手に店をでてきた私を何も咎めず、只、歩調を合わせて歩いてくれました。
何処をどう歩いたのか・・・私達は路地裏に入り込んでいました。
そこは犯罪の多発地帯でした。
何故わざわざそんな路地を選んで通る事にしたのか・・いったい誰が言い出したのか憶えていません。
私も友人達も、日々・・乾きを感じていました。
芸術への中途半端な情熱・・いきどころを失った情熱が私達の心の中で、暗くくすぶり続けていたのでした。
それを一時的にでも、ごまかすには、 何か強い刺激が必要だったのです。
強い刺激を求めて・・お互い無言のうちに恐ろしい地帯へ足を運んでいったのでしょう。
私の頭のなかでは、さきほどの東洋の女が奏でた曲が繰り返し、繰り返し流れていました。
路上にはゴミが散乱していました。
ゴミの中から人間の死体でも出てきそうな悪臭が立ちこめています。
「人の気配がする」
友人はひとつ角を曲がった方向を指差して言いました。
「今、影がみえた」
私がそちらを見るが早いか・・・友人のひとりが走っていきました。
私もあとから追って行きました。
そこにいたのは、10歳くらいの男の子でした。
汚らしい路地裏でみつけたのは、可愛い男の子だったのでした。
こんな寒い夜なのに、男の子は薄い上着しか着ておらず、足は裸足でした。
「どうしたの?怖がらなくていいんだよ」
私はできる限り優しい声色で話しかけました。
男の子は落ちつかない様子で、私達の身につけている毛皮のコートや、宝飾品に眼を奪われているようです。
「空腹じゃないのかな?」
友人のひとりが笑いながら言いました。
男の子は、そっと眼を伏せました。
長い睫毛の影が初々しく可憐にみえます。
私は、ある、素晴らしいひらめきに心が沸き立ちました。
友人達に耳打ちをして、私の案を伝えますと・・友人達は眼を潤ませながら、うなづきました。
男の子は、冷ややかな雰囲気に警戒心を強めたようです。
逃げようとする、彼の細い腕を掴み
「空腹だろう?よかったらこれを君にあげよう」
私はもうひとつのダイヤカフスを彼に、ちらつかせました。
「これを売ってごらん・・パンだって、暖かな服も沢山買えるお金は容易にもらえるはずだよ」
男の子の眼は、疑惑に満ちていました。
「もちろん・・・ただではあげられないな」
私は画材道具の中から、パレットナイフをだし
「これで、自分の体を傷つけて沢山血を流して見せてよ」
男の子は何も答えません・・・・長い沈黙の時間がありました。
「残念な事をしたね・・ではこのダイヤもしまうとしよう・・そのまま空腹で寒い思いをするといいよ」
私達が背を向けて、帰ろうとしたときです。
「帰らないで」
背中越しに、男の子の甲高い声がしました。
「君は利口な子だ」
私は振りかえると、少し肩を落としてみせて、物分りのいい大人の振りをしてみせました。
「どこを傷つければいいの?」
「そうだねえ・・・・」
友人達はそれぞれ、「顔」だとか「足を」だとか勝手に言い出しています。
雲が月や星を覆い、地上の夜は闇が濃くなったようでした。
闇は男の子の黒い瞳のなかに吸いこまれていくようで、私は何か不吉なものを感じたのです。
黒い瞳は先ほどの東洋の女と共通したものだったからです。
「そう・・・君にもうひとつこれをあげよう」
私は懐中時計を差し出しました。
「そのかわり、君の可愛い瞳を傷つけてくれないか、このナイフの先で瞳を取り出して僕にくれないかな」
友人達は一瞬、躊躇の眼差しをお互いに向けていました。
私は友人達の驚きを無視して、言葉を続けました。
「いいね、世の中はすべてギブアンドテイクなんだよ、遠い昔からそうなんだ、だからこれを欲しかったら
僕の希望どうりにやってくれないと。」
「おい・・いい加減にしろよ。いくらなんでもそれは」
私の暴挙を止めようとする友人の言葉が、聞こえたような気がしました。
「いいね・・」
男の子の表情をよくみようと少し屈んでみます。
恐怖と決心が入り混じったような表情・・・私は男の子にパレットナイフを渡しました。
パレットナイフの切っ先は、男の子の片眼を今にも貫こうとしています。
小刻みに震えるそれは、数ミリ単位で片目に近づいていきます。
緊張状態はそれほど長くはなかったように思います。
気がつけば、うつ伏せになって痛みに悶える男の子がいました。
私の足元には、赤く染まったナイフと、その横に転がる眼球がひとつ。
そして道には点々と血溜まり。
人間の子供の悲鳴とは思えない叫びに、私は徐々に自分のやった事の罪深さに恐れを感じていました。
男の子は痛みに耐えられず転げまわり、次々に新しい血溜まりができました。
「痛い・・痛い・・」
男の子は起き上がり、私にすがるように体をよせてきました。
信じられないほどの量の血液が私のコートに付着するのを見て、さっきまで感じていた罪深さなど真っ白にとんでしまいました。
「触るな」
力一杯突き放すと、男の子は枯れ木のように地に倒れ、その衝撃で小刻みに痙攣しはじめました。
その時、私は何故か、握り締めた小鳥が痙攣を起こし徐々に死んでいった様子が思い出されました。
「死んだ・・・おい・・死んだよ」
私は友人の言葉の意味がすぐには信じられませんでした。
友人に手をとられ、私はその地域から逃げ出すと、そのまま二度と友人達と逢う事も連絡をとる事すらありませんでした。
それ以後アトリエには足が遠のき、私は父の仕事を継ぐ準備にとりかかりました。
忙しい毎日を過ごし、あの時の男の子の事は次第に忘れかけようとしていたのでした。
ある午後・・新しいメイドの紹介をしますからと、その言葉に振り向いた私は・・。
何か強い運命的な呪縛から逃れられない予感がはしりました。
あの、東洋の女がそこに立っていたのです。
長い黒髪を後ろでひとつにまとめ、白い綿のブラウスを着て立っている女は雰囲気は違うものの
あの女でした。
「よろしく・・お願いいたします」
女の声は思いのほか、硬い印象のものでした。
女は私を忘れているのか、どうなのかは無表情な視線からは何もわかりません。
そして女は不可思議な発音で何かを言いました。
「え?」
隣に立っていた、メイドも何を言ったのかわからない様子でした。
女はただ、笑っています。
女の微笑は、あのショーホールでの神秘的なたたずまいを思い出させました。
その夜、私は・・カズコの事で頭がいっぱいでした。
カズコとはあの東洋の女の名前です。
単なる偶然なのか、それとも・・あの男の子と何か繋がりのある女ではないのか、それで
私に復讐を企みこの屋敷に入り込んできたのではないか。
あの黒い眼はそっくりだから、姉弟なのかもしれない。
消えたはずと自分で思いこんでいた、過去が追いかけてきたようです。
いいえ・・単なる偶然に違いない・・東洋人の黒い眼は皆同じだから。
例えば、もし、復讐を企んだとしても何ができる?
メビウスの輪のような思考が何日も続いたのでした。
その間もカズコは、教えられたとうりの家事をこなし、仕事が済むと自由な時間を部屋で過ごしているようでした。
メイドは二人一部屋を与えていました。
同部屋のメイドにそれとなく、カズコの様子を聞いてみる事にしました。
「殆どの時間、本を読んでいます、たまに話しもしますがあまり自分の事を話したがりませんね」
1ヶ月もした、ある夜、カズコが出かけていくのを目撃しました。
暗闇のなか、カズコの細いシルエットがあの地域にはいっていくのを確認しました。
やはり・・そうだったのだ・・。
見覚えのあるあの路地・・・カズコは角を曲がり姿を消しました。
何処からか、犬の遠吠えがします・・ここには住人はいるのだろうか?
そういえば、男の子のあれだけの悲鳴にも誰も駆けつけるどころか、窓から覗きもしていなかった記憶がある。
(一部 完)
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