長い夢から覚めた。

                           それとも、まだここは夢の中なのか。

・・・・・・・・・・・・・・・・ここは、夢とも、現実とも、位置しない場所なのかもしれない。

空間一面に広がる濃い闇に、私は、たった一人でいた。闇の広さは計り知れない。闇の傍には、静寂がいた。その中では、触覚だけが冴えているようだった。ひりひりと刺すような冷気を感じることは、自分がまだ生きていると確認することと、同じ意味をもっていた。

 さらに濃い闇が、あたりを包むと、遠くで薄靄のかかった風景がみえてきた。 僅かずつだが、鮮明になってくる外観は、どこか懐かしい。懐かしさと同時に、得体の知れない恐怖がある。それは、子供の頃に見た、悪夢の風景に似ているのかもしれない。

 私の眼前には、色のない荒野が広がっていた。どこで果てるのか知れない、広大な不毛の地・・・・・。

 いつのまにか、私は男の子と、美しく大きな黒い犬と共に、荒野を走り抜けようとしていた。男の子は幼さの残る手で、真中に挟まれた犬の背を、かばうように摩り上げている。

 私達は、何物かに追われ、今にも力尽きようとしていた・・・・・・・・・・・。 でも、たぶん、このままでは犬の命を守る事は難しい。

それでも、この犬の命を追っ手から守る事をあきらめてはいけない。何故かそれが、自分達の命と引き換えにしてでも大切な事のように思えた。

 男の子は何かを決心したように立ち止まって、宙を見つめた。私と男の子との身体距離は、僅かしかない。手を伸ばせば届く。それとは反対に、心の距離は、とても遠く感じられた。

 男の子は言った。

 ...........僕がここで、囮になる。

 続けて、男の子は私に犬を託すと言う。

 ............だから、この犬を守って。

 突風が吹き荒れ、男の子の表情は、よく見えない。2度と握り締める事のない、暖かな手に触れようとした。

 振り払うように男の子は言った。

 「行って」

 私は、ふりかえる事はなかった。そして犬を連れて荒野を一直線に走り抜けた。

 遠くで銃声と、男の子の断末魔の声が聞こえた。その声は、荒野に影を落とした。

 歩く事もできないくらいに憔悴しきった犬を両手で抱えて、私は夢中で逃げる。追っ手の怒声が、今にも私達を捕らえてしまうと思われるほど、すぐ近くに聞こえた。

 震える腕で、強く犬を抱いた。何度か、もつれそうになる足元は、今にもその場に倒れてしまいそうに頼りない。

 目の裏に、男の子の顔が浮かんでくる。

 地上を照り付けてる熱気が上昇していくにつれて、太陽は、何度か表情を変え、私の前方に塞がった。それは、死ぬ瞬間の男の子の顔であったり、神のフリをした者の顔であったり・・・。

 私が膝をついた瞬間に犬は腕の中を抜け出して、わずかな涌き水のあるほうへ向かっていった。

 その方向には、追っ手が待ち構えている。

 「いや-!!」

 私の悲鳴は、銃声に消され、犬は大きくバウンドした。弾は犬の腹部を貫通し、肉と血が、荒野に散乱した。

 犬は少しの間、四肢を痙攣すると、全く動かなくなった・・・・・・・・・・・。

 色の無い荒野は、赤く・・・・・赤く・・・・・染まっていく。渦を巻きながらどこまでも、どこまでも。渦は、私の大切なもの全てを呑みこんでいく。破壊していく。

  

  荒野は何事もなかったかのように、灰色にみちた風景を取り戻している。

  あとは、白く霞んだ太陽の視線を感じるだけだ。

  私の足元に転がる、肉の塊の正体が何なのか気づいたのは、太陽が恐ろしいほどの速さで私の頭上へと移動した後だ。それは人間の体というには、まだ不完全なもので、血まみれの胎児に、遠い記憶が重なって見えた。

  記憶は、なんの予告もなく私を呼び覚ました。

  私の子宮奥深くを切り裂いた、金属の刃のにぶい光。

  刃の切っ先には、壊された命の欠片がこびりついていたのだろう。それはアルミの皿に収められ、何処かで処理されたのだろう。

  その後、アルミの皿にこびり付いた血のりは、看護婦の手によって洗浄され、何事もなかったようにガラス戸の奥に片付けられたのだろうか・・。

  私も、数時間を病院のベッドで過ごした後、紫陽花の咲く道を通り、帰って行った。

  処理されたはずの胎児は、ひとりでに起きあがり、誰も知るはずのない空間を経て、今の私の手の中で安らいでいる。胎児は、開ききっていない目と、小さな手で私の乳房を、さぐっていた。 蛙に似た笑い顔で、私の乳房を欲している。

  

  へその尾の下には、植物の芽のような小さな男性器がおさまっている。

  それを見る私の、耳の奥で、鼓動が響くのを聞いた。

 ・・・・・・・・。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 鼓動が、高まっていくにつれて、違うリズムが噴出してきた。そのリズムは、何かを促そうとしている言葉に似ている。

 そうだ。

 その言葉は・・。

 胎児の首をつかみ、頭を地面に叩きつけると、 熟れた果物を潰したような感触がした。胎児の欠けた顔面から、肉片が飛び散り、地面を汚す。

 すでに地面には、見たこともない嫌らしい形をした虫達が、飛び散った肉片に集ろうとしていた。

 手の中にいる胎児の頭は粉々に、目や鼻は、押しつぶされ、磨り減り、原型を留めていない。

 私の顔面には、返り血とも、自ら流した涙とも解らないものでぬれていた・・。

 胎児は、まだ生きている、そして・・泣き声すらあげようとしない。

 視線を落とすと、胎児の流した血と体液とが混濁して鈍く、赤く、ひかっているのが見える。まぎれもなく、その一部は私の中にあるものだ。やがて地面を這う蟲達は、胎児の血と、体液にも群がり始める。隙間もみえないほどの蟲の大群が、胎児の血や肉や、体液に群がった。それは、まるで黒い小山のようだった。私の望みどうり、黒い小山は胎児の肉体の断片をクイツクシテイク。

 ........早く、無くなってしまえ。

 もう、2度と、私の前に現れるな。

 次に私は、手の中にある胎児を、黒い小山の真中に捨てようと、もう片方の手でつまみあげた。胎児は口を開けて荒い呼吸をしている。胎児の口から流れた唾液は、糸を引いて私の手元をぬらしていく。

 蟲達は、動きを止めて此方を見上げた。蟲達の口元には胎児の肉片が、こびり付いている。

 自分の子供を殺す女を見て、蟲達は笑った。

 声をあげて笑う蟲達を見て、私も笑った。

 太陽が厚い雲にかげった瞬間、胎児に異変が起きた。

 胎児の小さな手は、大人ほどの大きさになって、私の手首をつかんで離さない。振り払おうと、すればするほど、益々私の手首に食い込んでくる。

 胎児の首を強く締め上げると、赤い充血の色が、青黒く変わり、胎児の体はヒクヒクと小刻みに痙攣し始めた。痙攣の振動が確かに伝わってくると、私は、さらに力を込めた。

 痙攣は次第に大きくなり、体全体をガクガクガクガクガクガクと揺らした。私は、さらに力を込める・・。

 胎児は「グウ・・・」と悲鳴を上げると、片方しか残っていない眼で、私を見つめた。

 胎児は、聞き取れないほどの声で小さく言った。

 「ママ・・・・・」

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 私は、又、あの濃い闇の中に戻っていた。

 きしむような大きな音がしたと同時に、静寂と闇に亀裂が起きた。

 床を擦る足音が、私のいる方向へ向かってくる。

 「・・・・・・・さん、・・・・・真奈美さん」

 誰かが、私を呼んでいる。小さな子供でも呼ぶような声で。

 鼻をつくような消毒の匂いがした後、鋭い痛みが二の腕に走った。

 同時に私が見たものは、壁一面白い壁におおわれた部屋だ。

 点滴を取り替えて、体の姿勢をずらした看護婦の肩ごしに、小さな窓らしきものが見えた。その窓には、鉄格子があった。

 鉄格子に、何の意味があるのか解らない。

 何故、私の手は老婆のようになっているのか。

 ワカラナイ。

 看護婦は、若久しい、ふくよかな手で私の髪をなでた。

 「今日は、オトナシイノネ」

 アルミのトレイに消毒綿と針を乗せて、看護婦は部屋を出ていこうとした。針先についた血の色が、白昼の光に鮮やかに浮きあがった。

 看護婦が部屋を出ていく足音がした後、又きしむような大きな音をたててドアが閉まった。

 私は、眼を閉じて、闇へと戻る。

 その狭間で、胎児の泣き声を聞いたような気がした。

 全てを見放し、見放された闇には、悪魔さえ来ないのに・・。

 絞りだした悲鳴が、闇に吸い込まれていく。

               

夢中で逃げる。私の体力も限界にきていた。

 追っ手の声が、もう近くまできている・・私は、何としてでも逃げ切れなければならない。目の裏に、男の顔が浮かんでくる。

 けれども、地上を照り付けてる熱気に、私も犬も、乾きを覚え始めていた。空を見上げると、真っ白な太陽が、あざ笑っている。

 私が、膝をついた瞬間に犬は、私の腕から離れて、涌き水のあるほうへ向かっていった。その方向には、追っ手が待ち構えている。

 「いやー!!」

 私の悲鳴は、銃声に消され、犬は大きくバウンドした。弾は犬の腹部を貫通し、肉と血が、荒野に散乱した。

 犬は少しの間、四肢を痙攣すると、全く動かなくなった・・・・・・・・・・・。

 色の無い荒野は、赤く・・・・・赤く・・・・・染まっていく。渦を巻きながらどこまでも、どこまでも。私は、魂の底から、声をあげた。

 犬の遺体を胸に抱きしめると、いつのまにか・・・それは変容していた。血まみれの、ぐにゃぐにゃとした肉の塊は、私の掌に、すっぽりと、おさまっている。人間の体というには、まだ完全でない、胎児だった。血まみれの胎児に、遠い記憶が重なって見えた。

 私の子宮奥深くを切り裂いた金属の刃と、小さな命の、なれの果て。

 葬ったはずの、私の・・子供だった。

 胎児は、私の乳房に口をつけて、蛙に似た笑い顔で、私の乳房を欲している。

 憎しみとも愛情とも、つかない衝動が私の背中を押した。

 私は胎児の首をつかんで、頭を地面に叩きつけた。何度も何度も・・・・・。胎児は声も、あげなかった。私の顔面は、返り血とも、自ら流した涙とも、つかないもので、ぬれている。

 すでに、胎児の頭は粉々に、目や鼻は、押しつぶされ、磨り減っていた。

 だけど、 小さな手は、私の手首をつかんで離さなかった。

 声にならないほど、小さくそれは言った。「ママ・・・・・」

 胎児は、まだ、私を欲していた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私は、又、眠りから覚めた。

 血の海は、部屋に異様な臭気を発散させている。

 でもそれは、もしかすると、夢とも、現実とも、位置しない場所なのかもしれない。

 視界の端に、愛しい人の後ろ姿がみえた。

 彼は、うなだれたまま、私に聞いた。「何を欲しているんだ」

 私は彼に助けを求めた。どうか、この部屋から助け出して欲しいと。

 私を抱いて、

 ゆっくりと、此方を向きながら彼は、微笑んでいたようにみえる。眼鏡をはずし、私にくちづけをした。

 あの日、してくれたような、くちづけは、何処か

 立ちあがった彼は、もう一度、残酷なほど優しいくちづけを残して去っていった。

る。

 すでに、胎児の頭は粉々に、目や鼻は、押しつぶされ、磨り減っていた。

 だけど、 小さな手は、私の手首をつかんで離さなかった。

 声にならないほど、小さくそれは言った。「ママ・・・・・」

 胎児は、まだ、私を欲していた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 私は、又、眠りから覚めた。

 血の海は、部屋に異様な臭気を発散させている。

 でもそれは、もしかすると、夢とも、現実とも、位置しない場所なのかもしれない。

 視界の端に、愛しい人の後ろ姿がみえた。

 彼は、うなだれたまま、私に聞いた。「何を欲しているんだ」

 私は彼に助けを求めた。どうか、この部屋から助け出して欲しいと。

 私を抱いて、

 ゆっくりと、此方を向きながら彼は、微笑んでいたようにみえる。眼鏡をはずし、私にくちづけをした。

 あの日、してくれたような、くちづけは、何処か

 立ちあがった彼は、もう一度、残酷なほど優しいくちづけを残して去っていった。